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NVCトレーナーホルヘの話 その③

引き続き、ホルヘの話をもう一つ。2016年1月に参加したCCC presents 第三の道2016 [無知さを自覚し続け、「人間らしく」生きる 〜非暴力コミュニケーションから見えてくる、私たち人間のこと 〜]での話。その時のホルヘ日本滞在のラストのワークショップでした。

それでは2016年1月30日ホルヘの話です。 

最近自分は喋るということについて考え直している。静けさを持ったまましゃべることができるのか、喋る中でも静けさを温存することができるのか。言葉が自分の中の温かいところから出てきて命を吹き込むように話せるか。

いやいや、やめよう。自分はこのグループの中で重要人物に見えるように振舞いすぎているかもしれない。自意識過剰になってしまったかも。みんなの時間を価値あるものにしようとしすぎているかもしれない。もし、それが自分自身の中にあるものでなければそれは拷問になってしまう。

今までの人生の中であまりもたくさんのものをおしつけられすぎたから、自分もそういうことをしているんじゃないかと恐れてしまう。それは自分がやりたいことと一致していないから。

「無知」ということは時としてストレスになることもある。だからこの瞬間に自分が何を喋ろうか自分自身の内側にあるものに敬意を払わないと、ドラマチックになろうと作り出してしまう自分がいる。自分が本当に思っていることではないことを話せばそれは悲劇的な手段になってしまう。自分自身から逃れようとしてボールを投げることは悲劇的な手段だ。

「世界を変えたい」とだけ思っていたら暴力になってしまう。自分の痛みや怒りに対処しなければ、それは新たな暴力を生み出してしまう。報復的正義のパラダイムに乗っかってしまうことになる。それは、たとえば「子どもを傷つけるやつなんて人間ではない」と決め付ける世界。自分は正義の側に立っていると考える。そうするとあなたの側にいるのが難しくなってしまう人がいる。そうじゃない人につながることが難しくなる。

ものごとや人を変えようとするかわりに自分自身とつながろうと自分は思っている。この瞬間に何が起こっているのかを受け取る必要があるとおもっている。自分自身の怒りを見ることが大切。

たとえば店の中で大人の男が小さな女の子をたたいているのをみたとする。するとその瞬間にそれを見た人は女の子の側にたってしまう。そして、叩いている人を「この悪魔め!」と思ってしまう。

でも、もし自分の共感的酸素が高ければ、みんなのニーズが見える。その女の子の安全や尊厳のニーズが満たされていないだけでなく、小さな女の子を叩くことが世のためになると思っているその男性の悲しみともつながることができる。どちらかといえば近づく必要があるのはその男性の方。変容が必要な世界の中にいる。彼がやったことはその子の抵抗しようという気持ちを増しただけだ。

相手の共感的酸素が低いときにはまず自分の酸素を高める必要がある。そしてその場に入っていって、相手を見つめる。そして解読しようとする。彼の中にある美しいものを見ようとする。それは全体性へと向かう傾向だ。だけど、直接その全体性へと直接向かう代わりにその人は殴ってしまう。それは高度に暗号化された命のエネルギーだ。それを解読したい。

その人は必死になっている。必死にならないと親になれない。必死でしつけをしようとしているのかもしれない。その手段には共感できないかもしれないけれど、何でそれをやろうとしたかには共感できる。

彼は命のエネルギーなのだ。それを暗号化している。だからそれを尋ねる必要がある。「あなたはこういう風に感じているの?それはこれが大切だから?」と。この場合で言えば「失礼。あなたはうんざりしていますか?自分の言うことをもっと聞いてほしいと思っているのですか?」と。

もしかしたら、あなたにパンチが返ってくるかもしれない。相手はもっと怒る可能性もある。でも、自分の中にある誠実さを相手が聞いてくれたら「そうです。もう10回もお菓子にさわるなと言ったのに!」と言うかもしれない。そこであなたが「あなたは疲れて、自分の限界にいるのではないですか?」といえば、相手は戸惑い自分のことをふりかえり、そして自分の中の美しさに気づくだろう。

そして子どもにも近づいてやさしく伝える。「あなたはお父さんにやさしく接してほしいと思ってるのかな?たとえ自分がお父さんの望むように振舞っていないと時にも。」と。

共感的に聞くためには、無知と怠惰が大切。無知とは何か。それは「自分を知らない」「相手を知らない」ということ。「相手を知っている」と思えば、相手との関係は終わってしまう。いつも「知らない人」と思ってみることが大切。自分自身の次の感情だって人はわからない。相手は自分のニーズを満たしてくれることもあるけれど、満たしてくれないこともある。そういうことを自覚していることが無知。

怠惰は「自分は全ての問題を解決すべきだ」と思わないこと。相手が自然に全体性へと進んでくれる。彼ら自身が自然に全体性へと進んでくれる。あなたが考えなくても彼ら自身がより素晴らしい方法を教えてくれる。
自分には教えることはない。自分がやっているのはいかに自分のメッセージを伝えるか、そして人のメッセージを聞くか。どうしたらいいかということはその人自身のなかにあり、思い出すだけでいい。自分がやりたいことはそことつなげるということ。

高度な暗号化とは何か?たとえば自分が彼女とその週あんまりあえなくて寂しい思いをしたとする。その時に「今週はずっと一緒に過ごしてないね。さびしいよ。一緒にいる時の温かさを感じられないから。もっと君に会いたいんだ。だから何があなたを私と会うことと妨げているのか教えてほしい」と思ったとする。でも、それをそういう形では人は伝えない。実際には「自分勝手な女だ!」と電話で言ってしまうかもしれない。

それは高度な暗号化だ。そしてとても悲劇的な手段だ。彼女はもしかしたら家にくるかもしれないけれど、それを言われて「一緒に月を見ようよ」とはならない。そうではなくてあなたの家に火をつけようとするだろう。

私たちは自分がいたいときに相手を痛めつけようとしてしまう。そうすれば自分の痛みを相手が見てくれるだろう、と思ってしまう。自分の痛みを伝えたくて相手の一番痛いところをつこうとしてしまう。

自分もこの前のワークショップのときに、自分が模造紙に書いている最中にものを動かしながら話している人がいて、こっちのほうへ動いてきていたから、相手を威嚇するような顔をした。効果的に相手を傷つける手段をとった。「我々は平和について語ってるんだぞ!くそったれ!」って。相手を傷つけて自分の痛みを訴えようとした。自分の中に繊細さがあるから、相手がいたいところを攻撃することができる。20年NVCをやってきていても、自分は何度も倒れてたちあがっている。たくさんの年月がたってもまだ葛藤している。共感的酸素で常に満たされている人間はいない。その時には自分の気持ちについてすぐに懺悔した。

嘆きということがとても大切。私たちが今生きている文化は「喪失を認めることはあなたを破壊する」と教えてきた。限界を認め、夢の終わり、旅路の終わりを認めることは大切なニーズを満たすことになる。先日解読不可能な形で暗号化されていることを嘆いて泣いている人がいた。現在こういう形で自分たちが生きていることを嘆いていた。彼女が泣けばなくほど、それは自分の中で愛しく思った。それは甘い痛み(sweet pain)となった。

「味わいつくす」とはどういうことか?それは痛みと共にあるということ。我々のニーズは身体の中にある。自分はとある人との関係性がむずかしかったので、お風呂の中でふぐ(自己共感)をした。自分の中に何かの痛みを感じたから。だからその痛みと共にいた。そして自分の中にジャッジを見つけた。

NVCを20年やったあとでもパワーがなければいけないと思っている自分を。全ての対立をなんとかしなければいけないと思っている自分がいた。自分は調和中毒になっていた。こっそり自分のスキルを証明できると思っていた。そのため不安で眠れないこともあった。その痛みに気づいて痛みを味わい、自分はそれを受け入れることにシフトした。居心地の悪さや、人との距離と共にあること恐れて解決しようとするよりも、受け入れることにした。それに6時間ぐらいかかった。それは痛みが自分の中にあったから見つけたこと。

ニーズは自分の身体の中にある。論理的な方法では見つけることはできない。痛みが大きければ大きいほど、それは我々の本質を表している。
自分はたくさんの時間をひとりですごしている。長い時間を1人でいるようにする。自分とつながるには時間がかかる。自然とふれたり、お茶を飲んだり、何か創造的なことをすることも自分とつながることを助けてくれる。そういうものを通して自分自身とつながることができるから、自分の道が見つかっていくと思う。自分は何度も自分のジャッジするボックスに戻り、その自分に帰りそこからはじめる。それを今日見てくれた人がいたことに心動かされる。

こんな形でみんなとここにいられるということが自分の人生だってことが信じられない。そのことにとても感謝している。

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