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「小学生かよ、道鏡!」御調八幡宮のご由緒(広島県三原市)

護国の英雄の姉上様の遠流地

 令和六年五月二日、天気が良かったので妻とドライブがてら(片道約75km)、広島県三原市にある御調八幡宮へ参拝してきました。『御調』は『みつぎ』と読みます。(確か難読地名だったと思います。)
 こちらは和気広虫姫(わけのひろむしひめ)様が道鏡事件のとばっちりで遠流された地に創建された神社です。
 豊かな自然の中に建つ神社で初夏の新緑が心地の良い参拝でした。

法均尼(広虫姫)

 広虫姫は天平二年(730年)から延暦十八年(799年)を生きた奈良時代の女官です。第四十六代孝謙天皇(女帝)、重祚(※)した第四十八代称徳天皇にお仕えしていました。(※重祚とは天皇が再度帝位に就くことです。つまり孝謙天皇と称徳天皇は同じ方。奈良の大仏で有名な聖武天皇の皇女です。)

 広虫姫は非常に慈愛に満ちた女性であったと伝わっており、たくさんの貧しい孤児に施しをしたり、重すぎる罪科(死罪)の役人について称徳天皇をお諌めして流罪、杖刑に減刑していただいたりした記録が残っているようです。また第四十九代光仁天皇が「法均(ほうきん)が他人の悪口を言っているのを聞いたことがない」と仰られるほどの人格者であったようです。
 優しくて誠実で聡明、そんな広虫姫は称徳天皇に重用されていたようです。

広虫姫と称徳天皇と…

 称徳天皇は道鏡事件などのせいでとかく悪いイメージがつきまといがちなように思われますが、私はそれほど悪いお方ではなかったように考えております。
 というのも、日常生活においても人柄を見る時にはその人自身を見るよりも、その人の交友関係を観察した方が分かりやすいように思うからです。『類は友を呼ぶ』という言葉もあるように自分の本性に近い人とつるむのが心地良い。ですから広虫姫のような方をお傍に置いたり、またその諌めを聞いたりは、称徳天皇が本当に愚かなお方であればなさらなかったであろうと考えております。
 では道鏡を寵愛していたのはどうなの?というと、そこは男と女、、、ちょい悪オラオラ系にひかれちゃう女性って結構多いというか。私はそんな風に妄想しております。

広虫姫と清麻呂姉弟、運命の道鏡事件

 広虫姫様と清麻呂公は仲の良い姉弟だったようで、財産も仲良く分け合うし何かと相談しあって絵に描いたような兄弟関係だったみたいです。そんな二人揃って人格者という素晴らしい姉弟に道鏡の陰謀の魔の手が忍び寄ります。

 道鏡一派は「道鏡を天子にすれば国家安泰である、と宇佐神宮から御神託がくだりました!』などと言い出す始末。宮廷貴族ともすったもんだあって称徳天皇は広虫姫に宇佐まで行って真偽を確かめてくるよう命じます。
 こうして広虫姫は奈良から大分への出張を命じられますが、姉思いの清麻呂公は「体の弱い姉上には遠い道中がお辛いでしょう」と代役を買って出ます。素晴らしい兄弟愛です。

 それに引きかえ道鏡です。そんな清麻呂公をつかまえて、「君、分かってるよね。うまくやったら重く取り立ててやるからな。大臣とか。」とポストをちらつかせて買収しようとする始末。とんでもない生臭坊主です。

 しかし清廉潔白の我らが清麻呂公、見事に宇佐神宮にて次の御神託を授かります。
「わが国家は開闢より君臣定まれリ。臣をもって君となすこと、未だこれあらざるなり。天つ日嗣(あまつひつぎ)は必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃い除くべし」
 つまり「道鏡はダメ!」「万世一系の皇統を守りなさい」という御神託を持って帰りました。

なまぐさ坊主のワードセンス…

 当然、道鏡は憤慨します。ポストをちらつかせたのですからその反対は左遷、つまり遠流です。
 さらに清廉な姉弟はなぜか改名までされてしまいます。広虫姫は「狭虫(せまむし)」…、清麻呂公は「穢麻呂(きたなまろ)」だそうです…。権力闘争を上り詰めた怪僧がこれで良いのでしょうか。小学生の口喧嘩じゃないんだから。ゲッソリです。
 ただ、一説には称徳天皇が改名させたともあるのですが、私はこの時に限っては話の筋から道鏡の差し金だと思っています。

遠く備後へ流された広虫姫

 こうして「やーい狭虫!あっちへ行け!」と言わんばかりに道鏡に追いやられた広虫姫が流されてきた地が広島県三原市の御調八幡宮の界隈ということです。
 さて、今回は前置きが長くなりましたが、いよいよ由緒書きを見ていきたいと思います。

ご由緒書きを読む

御調八幡宮の由緒書き

姉の愛

備後国総鎮護 御調八幡宮御由緒
 当宮は神護景雲三(七六九)年 和気清麻呂直諫の罪により大隈に配流され姉の法均尼(和気広虫姫)は当地に流され、所持の円鏡に宇佐八幡大神を勧請して遥かに弟清麻呂の雪冤を祈願したことを創祀とします。

ご由緒書きより転記

 遠く離れても失脚した弟を想い、御神託を賜った宇佐八幡大神を祀り、その雪冤を一心不乱に祈る。我が事をさて置き血を分けた弟のために祈る。何と清らかな姉の愛でしょうか。
 それに引きかえ…(以下略)

藤原百川

 宝亀八(七七七)年参議藤原百川がこの地に使いを派遣して社殿を造営、封戸を割いて社領にあてたとあり、これを社殿の創建としております。

ご由緒書きより転記

 藤原百川(ももかわ)は藤原不比等(ふひと)のお孫さんです。
 不比等は大化の改新(乙巳の変)で有名な中臣鎌足の嫡孫で藤原氏を興した人物です。不比等の三男が宇合(うまかい)。百川は宇合の八男です。
 ちなみに藤原氏で最も有名な藤原道長とは家が異なります。百川の叔父さんの家の二百年くらい先の子孫が道長です。
 藤原百川は宇佐神託事件で『すったもんだ』してくれた宮廷貴族の一人で和気清麻呂公の味方です。
 広虫姫様のために社殿を建てに来てくださったのでしょうか。義理人情に厚いお方ですね。
 それに引きかえ…(以下略)

八幡宮と武家

 貞観元(八五九)年石清水八幡宮創建以来、八幡宮総本宮として全国八幡宮を支配、当宮は中世から「備後国御調別宮」となってより「八幡の庄」と称したと記録されています。
 元暦元(一一八四)年源頼朝の再建、文治年間(一一八五〜八九)土肥実平の重修、観応年間(一三五〇〜五一)足利尊氏の社殿造営と伝えられ、現在の社殿はことごとく近世浅野家による再建です。大正七年県社に列しました。

ご由緒書きより転記

 源氏の守護神は八幡神です。頼朝の高祖父(おじいさんのおじいさん)である義家が八幡神の申し子(八幡太郎)を名乗っていた(?)からだったと思います。足利尊氏も源氏の一族なので同様です。
 土肥実平は鎌倉御家人で守護職として備後に赴任していたことがあります。その後この地を治める小早川氏の祖先です。
 由緒書きにはございませんが豊臣秀吉もこちらで桜の木をお手植えした記録があるそうです。残念ながらその樹は枯死してしまったとのことで現存はしていないようです。
 安芸藩主の浅野家の善政の話はよく見聞きしますがこちらの社殿も再建されていたとのことです。
 この地にまつわった多くの武家の棟梁に、また産土神としてこの地域の住民の人々に古代から近代、そして今に至るまで大切にされてきた神社であることが読み取れます。

豊臣秀吉の桜について

御祭神

 宝物は国重文の狛犬一対、阿弥陀経等板木五枚、木造行道面・馬頭・獅子頭等 十三面余の多くの文化財を所蔵しています。

御祭神
応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、武内宿弥命、比咩大神 (田心姬命、市杵島姬命、湍津姬命)

御祭日
春季例祭(桜花祭) 四月第二日曜日
慰霊祭・八幡の火祭 七月最終土曜日
秋季例祭(鎮座祭) 十一月第二日曜日
ほか

平成十四年四月 御調八幡宮社務所

ご由緒書きより転記

 御祭神の第十五代応神天皇は大仙陵古墳(仁徳天皇陵)で有名な第十六代仁徳天皇のお父上です。
 応神天皇は八幡神と同一視され今回の宇佐神託事件でも神威をふるった他、第四十五代聖武天皇の大仏建立の際にも助力したとされるなど皇祖神、国家鎮護の神として敬われています。

 第十四代仲哀天皇は応神天皇のお父上、神功皇后は仲哀天皇后でお母上です。

 武内宿弥命は「たけのうちのすくね」または「たけしうちのすくね」と読みます。景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代の天皇に仕えたという伝説の忠臣です。

 比咩大神は福岡県宗像市の宗像大社の宗像三女神と同一神ですね。田心姬命(たごりひめのみこと)、市杵島姬命(いちきしまひめのみこと)、湍津姬命(たぎつひめのみこと)と読みます。以前の記事でも出ましたが宮島の厳島神社の主祭神でもあります。

まとめ

 今回は有名どころの歴史上の人物がてんこ盛りになってしまい、いつも以上にまとまりの無い感じになりました。
 仲哀天皇、神功皇后、応神天皇の八幡神系は大阪の住吉大社とも関係がございますし後々またゆっくり書く機会があるかと思います。
 最後までお読みくださいまして誠にありがとうございました!

由緒書き全景

参考

書籍

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御本殿

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