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面白いおっさんは良いバンドといい酒を知っている

本日、エリック・クラプトンの流れからAll man Brothers Bandの存在を知った。

面白いおっちゃんは美味しいお酒と良いバンドを知っているものだ。

このバンドを知ってからというものMidnight RiderとSoulshineをヘビーローテしてしまっている。


翻って、自分が歳をとった時に若者にどのバンドを勧めるだろうか。

eastern youth、人間椅子、女王蜂、Lost in Time等等等。。。。と候補がありすぎる。

だめだ、それじゃ若者はドン引きする。

そもそも若者と遊んでもらえるジジイにならなければいけない。


はてさて、自分の体力の衰えとそれに向き合う自分のお話。

とみに最近、夜中まで働くことを続けると自分の体の衰えを感じる。

そして体だけでなく心が付いてきていないことに気づくのだ。


10年がひと昔ならば、ちょうど一昔前、初めて海外赴任した頃は毎晩かなり遅くまで働いていたし、大学生みたいに朝まで飲むこともしょっちゅうだった。

それでも、翌日は朝からバッチリ働けたし、なんなら働きたくて寝たくないから酒を飲んでもいた。

ある種狂ってもいたし、一種の自己陶酔でもあったんだと思う。

あの頃は移動時間の中で少し仮眠をとるだけで来る日も来る日も難なく活動はできていた。

なんでだろう、そこには働くことで近づける希望なり、野望なり、自分なりの問題意識なり、成長実感なり、カミナリお稲荷ひとりよがりおナ●ー、と何かがあったのかもしれない。


その後、時代は変わり、会社もコロコロと変わり、コロナ禍を経て時代はWorking From Home時代となった。

年齢も経験も重ねたが、相も変わらず自分の働き方は昔と変わらず、ただただガムシャラにシャニムにショムニに働いてきたわけだが、そもそも満足な睡眠時間はとれねーわ、寝ても体力は回復しねーわ、体の累積損失が心を蝕むわ、日中の集中力はもたねーわ、昼飯食えないわ(でも太ってるのはなんでなのか)、トイレに立つ時間すらもあまりない。

むしろ、コロナになって在宅勤務になったことで単純な労働だけだと昔より増えたのかもしれない。


以前であれば、労働を通じた成長とか、労働を通じたスキルの習得とか、案件をこなすことでの経験値の上昇なんて実感を感じられたけれど(昔の上司が言ってた「ディールが人を育てる」って言葉を信じてやってきたし今でも信じている)、今自分がやっている仕事からそれらを感じられているのか?というと段々とそうではなくなってきている。


そもそも既視感があったり、案件を見れば大体どの辺でふん詰まるかも予測できたり、特に大きいのは、それらをこなすことで得られる経験値が自分をレベルアップせしめるものでもなくなってきているのだと気づき始めた。

いままで培ってきた経験のどこかのツールを使って、足りないものはある程度調べたり勉強してインプットさえしてしまえば大体の物事はこなせるようになってしまっていたのだと思う。

制約条件として、「時間」さえあれば。。。


しかし、最近そこに「体力」という制約条件ものしかかってきはじめた。

いや、ちょっと前から気づいていたのかもしれないけれど、無視ができたレベルだった。

無限だと思っていた「体力」が実はある程度有限で、無尽蔵だと思っていた「気持ち」が実は体力によって一部分影響を受けていることを実感し始めた。

もちろん、そういうものだとは聞いていたし、情報として認知はしていたけれど、自分にはあまり関係のないものだと捉えていた。


そのような状況下で「これ」(衰えとは言いたくない最後の意地)を実感し始めたことの衝撃はあまりにも大きい。

「ここまでか」と認めてしまうことは、私のいままでの物差しでは「職業人としての死」でもあるのだ。

ここで体力自信を引き上げにいく方法もあるが、人は一定、時の経過と共に老いていくとの前提に立てば、鍛えることによる体力下落カーブの傾きを下支えすることにはなろうが恒久的な対応策とは言い難い。


そうなると、いま自分は向き合わねばならのだ、老いと。

いま私は受け入れなければならぬのだ、老いを。



さて、老体のアドバンテージたるものに知恵がある。知恵を持って働けば良いではないかと人は言うだろう。

でも違うのだ。自分に知恵がないから上記のような働き方をしてきたわけで、知恵があることを前提とした労働プログラムは自分にはなされていない。

こうなると自らの価値観(=OS)の更新をせねばならぬのではないか。

例えばこれがiOSであれば、OSの更新やアップデートともにUI・UXの改善がなされるのであろうが、おっさんのそれが世の中をよくする効用になるのであろうか。縮小均衡を人生に齎すだけではなかろうか。


非常に不安である。

いままでの働き方こそが自らの武器であり成功体験なのにそれを捨てることができるのだろうか。

ある程度客が入るラーメン屋がそのラーメンを捨てられますでしょうか。養うべき家族も返すべきローンもあるのに。

もしかしたら、自分に対する期待値を下げなければいけない時期に来ているのだろうか。

そして、そんなことが自分には可能なのであろうか。

動けない・働けない・使えない自分を認められるのであろうか。許せるだろうか。


来年、孔子なら「不惑」の40歳。

当然、孔子ほど人間ができているわけでもなく、ブランド黒毛和牛の子牛ほど価値も未来もないおっさんの葛藤。


まずは次世代OSのデザインを考えねばなるまい。

・・・・・はて、何から向かい合えばいいのだろう。

まずは、小林製薬がやたら推してくる曲がった釘を伸ばす薬でも注文してみることだろうか。


おっさんを受け入れた者の葛藤のたびは始まったばかりだ。

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