【予告】 國分功一郎による『民主主義を直感するために』に収録された『哲学の起源』の書評

こんにちは。じんぶんtv、倉津拓也です。今回は工事の音がうるさかったのでアフレコです。次回は2013年のきのくにやじんぶん大賞受賞作、柄谷行人『哲学の起源』を紹介する予定です。そこで今回はその予告編として、國分功一郎さんによる、『民主主義を直感するために』に収録された、『哲学の起源』の書評を紹介します。

この書評で國分さんは、「本書は古代ギリシア、しかもソクラテス以前の哲学者を論じている。柄谷氏がこれを論じたことは一度もない」と書かれています。これは、書くにはなかなか勇気のいる一文だと思います。柄谷の文章は全て把握しているよ、という自負を感じる一文です。

さて、國分さんによれば本書の特徴は、ソクラテス以前の哲学を、イオニアにあったイソノミアという政治体制の問題から論じたところにあります。イソノミアとは土地が余っていて移動が自由であるがゆえに、支配/被支配の関係が露骨に現れず、人々の自由と平等が両立している社会です。この書評で國分さんは、イソノミアは非常に限定された条件でのみ可能なのであって、目指そうと思って目指せるものではないのではないか、と疑問を呈します。

『at プラス』15号で柄谷さんと國分さんの対談が掲載されていますが、そこでも、同じ問いが発せられ、イソノミアが目指そうと思って「能動的に」目指せるものではないとすれば、僕たちにはデモクラシーしかないのではないか、と問いかけます。それに対して柄谷さんは、イソノミア、柄谷さんの用語でいうなら交換様式Dは、こちらの願望や意志によって能動的に実現できるものではないし、逆に、私たちはDの到来を阻止することもできないのだ、と答えます。これは大変「受動的な」考え方のように思えます。私達が何をしようともイソノミアは実現しないが、実現されるときには勝手に実現されてしまう、ということだからです。これは、國分さんの『ドゥルーズの哲学原理』では「非政治的ドゥルーズ」の像として論じられています。

それでは柄谷の思想は「非政治的」なものなのでしょうか。柄谷は「哲学の起源」の原稿を、2011年の東日本大震災後の反原発デモに参加しながら書いたそうです。柄谷はこれまでもデモについて書いていましたが、それは正しいものだと「説得」して起きるものではありません。しかし、デモは「到来」する、ならば、きちんとそれに応えないといけない、と話します。『暇と退屈の倫理学』を紹介した際にダニの話をしましたが、柄谷はダニのようにデモが起こる日を、そして交換様式Dを「まちかまえている」のだと思います。それでは終わります。

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