國分 功一郎『暇と退屈の倫理学』/ 紀伊國屋じんぶん大賞を読む。

今回は第二回紀伊國屋じんぶん大賞受賞作、國分 功一郎『暇と退屈の倫理学』
を紹介いたします。

『暇と退屈の倫理学』の最重要概念、「環世界移動能力」を中心に置いた解説を試みました。読んだことがない方も、読んだことがある方もぜひ。

■紀伊國屋じんぶん大賞2011 國分 功一郎『暇と退屈の倫理学』
https://www.kinokuniya.co.jp/c/201201...


~ 今回紹介した本(一部) ~

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じんぶんTV 紀伊國屋じんぶん大賞を読む。とは------
紀伊國屋じんぶん大賞というのは紀伊國屋書店が主催する、
読者の投票によって選ばれる人文書の賞のことです。
ここでいう人文書とは、哲学・思想/心理/宗教/歴史/社会/
教育/批評・評論に関する書籍です。2011年に始まりました。
2010年代の人文書を振り返り、2020年代の人文知について考えるために
紀伊國屋じんぶん大賞をぜんぶ読む、という動画をはじめました。

以下、動画の文字起こしです。


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 こんにちは。倉津拓也と申します。紀伊國屋じんぶん大賞を読む、という番組をやってます。今回は2012年の第二回大賞受賞作、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』です。「ひまりん」という略称があります。
ちなみにこの年のじんぶん大賞、第二位は開沼博『「フクシマ」論―原子力ムラはなぜ生まれたのか』、第三位は東浩紀『一般意志2.0 ルソ-、フロイト、グ-グル』です。

 國分功一郎さんは1974年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科准教授で、スピノザとドゥルーズの研究者です。2018年には『中動態の世界―意志と責任の考古学』で二度目のじんぶん大賞を受賞してます。また、NHKの「100分で名著」という番組で、スピノザの『エチカ』を解説しています。住民運動にも積極的に関わっていて、その経緯を書いた『来るべき民主主義――小平市都道3・2・8号線と近代政治哲学の諸問題』という著作があります。また近刊として、「シリーズ・戦後思想のエッセンス」の『柄谷行人』の巻を担当される予定です。

 それでは「ひまりん」の内容に入りましょう。あとがきで高校生だったころの國分さんが「俺はいま自分のフィロソフィーをつくっているところだ」と話すシーンが描かれます。そしてこの「ひまりん」が、「自分のフィロソフィー」、すなわち哲学であるとされます。
それではそもそも、哲学とは何でしょうか。さまざまな定義がありますが、ドゥルーズによれば哲学とは概念の創造です。そして概念の創造は、過去の哲学者の問いを批判することによってのみ可能である、とされます。「ひまりん」ではハイデガーが批判されます。それではハイデガーを批判することによって創造された新しい概念とは何か。それが「環世界移動能力」という概念です。
それではこの概念がどのように創造されたかを読んでいきましょう。

 「環世界」とは生物学者のユクスキュルの概念です。私たちは自分たちを含めた、動物や昆虫や植物といった生き物が、同じ一つの大きな「世界」を共有して生きていると考えています。そしてその世界は同じ時間が流れ、同じ空間が広がっていると考えられています。このような考え方をユクスキュルは批判しました。世界は存在しません。マルクス・ガブリエルの「なぜ世界は存在しないのか」というベストセラーがありますが、どんな生物もそんなひとつの「世界」を生きているわけではありません。

 ユクスキュルは例としてダニの狩りの様子を描きます。ダニは血を吸うために、酪酸(らくさん)のにおい、摂氏37度の温度、体毛の少ない皮膚という3つのシグナルに沿って行動します。つまりダニは、この3つのシグナルだけで作られた世界を生きています。他のにおいや音、光や雨や風は、ダニにとっては存在しません。このように、それぞれの生物が経験している、具体的な世界のことを「環世界」といいます。

 ハイデガーはこの「環世界」という概念を人間に適用することを批判します。例えばミツバチは餌というシグナルによって、「とりさらわれている」と言います。「とりさらわれる」とは、何らかの衝動によって駆り立てられるということです。ハイデガーによれば、「とりさらわれる」ことはシグナルに「とらわれ」た存在であることを意味します。そして人間だけが、動物と違いシグナルに「とらわれる」ことなく、この世界をありのままに、この世界を世界そのものとして、物を物自体として認識できる、というわけです。

 ハイデガーには大変有名な3つの命題があります。
(1)人間は世界を作る
(2)動物は世界が貧しい
(3)石には世界がない
この図式でいえば、人間は、人間だけは世界そのものと関わることができますが、ダニはダニなりの貧しい仕方でしか世界と関われない、ということになります。そしてハイデガーは、人間だけがシグナルに「とらわれる」ことなく、世界そのものと関わることができる自由をもつ。そして自由であるがゆえに退屈するのだ、と論じました。
「ひまりん」ではハイデガーによる、このような人間中心主義的な哲学が批判されます。結局のところ、ひとつの「世界」は存在せず、人間は人間の、ダニはダニの、それぞれの「環世界」を生きているだけだというわけです。

 しかし、それでは人間も動物も「環世界」を生きている、変わらない、何も。ということになるのでしょうか。そこで人間と動物の差異について考えるために、「ひまりん」で新しく創造される概念が「環世界移動能力」です。動物がなんらかの衝動に「とりさらわれる」ことがあるからといって、ハイデガーのいうように、シグナルのなかだけでしか行動できない「とらわれ」の状態にあるとはいえません。ユクスキュルは盲導犬の例を挙げ、犬は訓練によって人間の環世界へ近づくことができる、とします。ただ、人間は他の動物と比べ、勉強することなどを通して、比較にならないほど様々な環世界を移動することができます。他の動物と比べて、極めて高い環世界移動能力をもっているのが人間であるということになります。

 さて、この概念がどう退屈と関係するのでしょうか。
「ひまりん」によれば、人間が退屈するのは、動物と違って、すぐに別の環世界に移動してしまい、ひとつの環世界にゆっくりとひたり続ける能力を持たないからだ、とされます。逆にいえば、動物は、人間と比べて、一つの環世界にひたり続けることができる、とても高い能力をもつ、ということができます。ゆっくりとひたっていることができるような環世界を生きるとき、言い換えれば動物になるとき、人間は退屈していないことになります。

 ここから退屈をどう生きるか、「ひまりん」の内容から導き出される結論として、2つ挙げられています。
1つ目は、ふらふらと環世界を移動してしまう、退屈な人間の生を、それでも楽しむことです。これは「贅沢を取り戻すこと」と表現されます。
ボードリヤールは浪費と消費という概念を区別しました。「ひまりん」では、贅沢とは「浪費」することである、とされます。浪費とは必要の限界を超えて物を受け取ることであり、浪費こそが豊かさの条件である、とされます。
そのような「浪費」に対して、近代では「消費」が始まりました。消費とは記号や観念を受け取ることです。浪費は物なので、どこかで物理的な限界に到達し、満足を迎えますが、消費は記号なので物理的な限界がなく、満足を迎えません。このような消費社会を見事に描いた映画として、デヴィット・フィンチャー監督の『ファイト・クラブ』が紹介されます。
消費社会が提供するような、記号的、観念的な「贅沢」とは違う仕方での贅沢について、社会主義者のウィリアム・モリスの思想をもとに答えた文章は、「ひまりん」でもっとも有名な文章です。引用します。

「人はパンがなければ生きていけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。私たちはパンだけでなく、バラももとめよう。生きることはバラで飾られねばならない。」(28p.)

 モリスはアーツ・アンド・クラフツ運動という活動をはじめました。社会主義革命、または共産主義革命が達成されることで、物質的にも時間的も豊かな社会が達成されます。そんな革命後の社会をどのように生きるべきか。モリスは、そのときに大切なのは、その生活をどうやって飾るかだ、と答えました。暇な時間のなかで、自分の生活を芸術的に飾ることができる社会、芸術作品を味わうことの訓練が、生活のなかで日常的に行われている社会、それこそがモリスの考える「ゆたかな社会」です。
人の生活がバラで飾られるようになれば、つまり贅沢を取り戻すことができれば、それは社会変革にも繋がる、とされます。


 2つ目は、退屈な人間の生を楽しむことによって、人間の生からはずれて、「動物になること」を待ち構えることができるようになる、ということです。
パスカルは人間は考える葦である、と言いましたが、ドゥルーズは、人間はめったに考えたりしない、と言いました。
それでは人間はどういうときに考えるのでしょうか。ドゥルーズによれば、それは外側からショックを受けて考えるのだとされます。それは「不法侵入」とも呼ばれています。
そして「ひまりん」では、不法侵入によって考えるとき、人間はとりさらわれている、つまり「動物になること」が起きているのだ、とされます。
このことが第一の結論と繋がっていきます。贅沢を取り戻し、バラで飾られた生活を送ることによって、思考を強制する「不法侵入」を受け取ることができるようになるのだ、とされます。

 ドゥルーズは映画や絵画が好きでした。『アベセデール』というドゥルーズのインタビューを集めた映像集で、「なぜあなたは美術館や映画館に行ったりするのか?」と聞かれ、ドゥルーズは「私は待ち構えているのだ」と答えています。またドゥルーズは、「あなたにとって動物とは何か」と聞かれたなら、それは「待ち構える存在だ」と答えるだろう、と述べています。自分がとりさらわれる瞬間を、動物になることが発生する瞬間を、映画館の暗闇のなかでダニのように待ち構えているわけです。
退屈な人間の生をバラで飾りながら、自分が何にとりさらわれやすいのかを楽しみながら学び、「動物になること」を待ち構えて生きよ。それが「ひまりん」の結論です。


 國分功一郎さんには山崎亮さんとの『僕らの社会主義』という対談集があります。この対談では二人の考える社会主義について、読みやすいかたちで論じられています。例えば「贅沢を取り戻す」といっても、結局それは金持ち向けの、エコでロハスでエスディージーズな社会主義なのでは?という疑問や、建築がモダンのキーワードだとすれば、ポストモダンのキーワードは土木なのではないか、という話など、大変面白い議論が展開されています。
また、今後千葉雅也さん、東浩紀さんの書籍を紹介する予定ですが、『ゲンロン7』のていだんでは、國分さん、千葉さん、東さんの立場がそれぞれ接続、切断、誤配と整理されていて、たいへん読みやすいです。

それでは終わります。

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