あくまでもまだ謀反人

鎌倉政権誕生までの話を語る前に今日は軽く前段階に入ります。

治承4年(1180)5月、後白河院の皇子以仁王は、源頼朝などの諸国の源氏に挙兵を促す令旨を配布しました。平清盛以下の平氏の横暴に怒りを覚えていた王は、京周辺の大寺社を味方につけ諸国の源氏などの武士を糾合し、父後白河院の復権、自身の即位を目指して乱を起こしました。予想に反して大きな動きがみられなかったことで王は源頼政(当時77歳)と共に敗れ乱は終結しました。
しかし平氏に対する諸国の武士の怒りは確実に蓄積しており以仁王の令旨をきっかけに源平の争乱が始まることになります。

平時忠の知行国伊豆で源頼朝は挙兵します。彼が伊豆に配流されて20年あまり。味方の武士と共に山木兼隆を討つことに成功します。
ここで重要なことは頼朝の立場です。
頼朝は平治元年(1159)12月の平治の乱で父義朝と共に敗れ、清盛の継母池禅尼の嘆願で助命され、伊豆に流されていました。
平氏と戦い敗れ平氏に助命されたにもかかわらず、20年後にその平氏に反旗を翻したことになります。

東国で挙兵した源頼朝の存在にかつての平将門や藤原純友の姿を清盛は見ていたかもしれません。
京都から見れば辺境の地である東国。
座視するわけにも当然いかず以仁王の令旨の余波を何とか鎮圧せねばならない状況に追い込まれていきました。
当時の状況は

平清盛一門:京都朝廷の軍事勢力=官軍
源頼朝に与同する東国武士=謀反を起こした者達

このようなくくりで理解することが出来るのです。
頼朝は平治の乱で伊豆に流された謀反人にすぎず京都から見れば敵対勢力。
ただ後白河院にとっては平氏を抑える勢力であればたとえ謀反人であっても味方に引き入れる価値はあったと思われます。
そのあたりの変わり身の早さが後白河という人の判断がいまだに分かれるところだと思います。その時々によって近付いたり挑発したりして、結局何度も幽閉されることになるのは院自身の自己中心的な考えのせいではないでしょうか。

功績があった源義仲に困惑していた院は源頼朝と交渉し寿永2年10月宣旨(1183)を与えます。
①頼朝を平治の乱の時の本位に復させる
②東海・東山両道における徴税と軍事・警察権の行使
を公認し、官軍に位置づけ東国に対する強固な支配権を認めたのです。
源頼朝20数年ぶりの謀反人からの立場回復がここでなったわけです。
謀反人の東国での反乱から官軍への復帰。寿永2年10月宣旨によって東国国家として容認されたことで、頼朝は東国の地盤を固めながら平氏との戦乱に進んでいきます。
平氏が西国壇之浦で滅亡するまであと2年あまり。

寿永2年10月宣旨による東国国家の容認が、後の鎌倉政権成立に重要であったことをあらためて強調しておきます。

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