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理系学生のいちばん伸びるとき ある大学の講座での卒論の経験から


はじめに

 現在、リモートワークのかたわらある企業の研究開発の手伝いをしている。他の人との接触の機会はほぼない状況。その職場でひとりおもむろに実験器具に触れていると学生当時がよみがえった。

あの頃は雑念にとらわれずに一心不乱にうごけていたなあと感じる。学生の特権。すべて周囲の方々のお膳立てのおかげで技術とコミュニケーションのたいせつさをスポンジのように身につけていく。

まさに車でいえばエンジンの部品を組み上げていく段階。そこでの経験から社会に飛び立ち首尾よくエンジンのかかる瞬間をむかえる。フル稼働できるように。

そうした研究室での日々を感謝とともにふりかえる。


実験の日々

 4年生の春から学生たちは各自講座に入る。理系の実験講座の学生の多くはそれまでの生活が一変してしまった。入ってすぐにとにかく「考えているよりも動く。」を思い知る。

わたしは18時以降は家庭教師のアルバイトをかけもち。朝早くから卒論テーマの実験に取り組む必要があった。

なにしろ大所帯の研究室だったので、機器の利用は早い者順。春には9時でも待たずに使えたが、夏休み前にはそれが8時台になり、夏休み以降になると7時台。出遅れると昼まで待つのはざらだった。

18時には実験を終わらせ食事も済ませて、休むまもなくほぼ隔日でアルバイトに向かうのであせることになる。そこで朝6時過ぎには研究室に一番乗りして測定した。12時間を確保できる。

先輩たちから講座にあがる4年生になると忙しいぞと聞いていた。それで3年生の10月頃には大学院入試(4年生の9月)の受験勉強の準備をはじめていた。


それは序章にすぎなかった

 予想以上のあわただしさだったし、新しい実験手技をつぎからつぎへと覚えていかねばならない。そうしないと与えられた卒論テーマの疑問点を解けない。「実験の合間に受験勉強をする」から夏休みの前には「受験勉強の合間に実験をする」に変わった。

受験勉強、実験、そしてアルバイトとあっという間に日々がすぎていく。それはまだおだやかな方だった。

秋のはじめになるとギアがあがった。これこそが先輩たちのいう「本当の忙しさ」だった。アルバイトを終え22時すぎには実験室にもどる。

この時期以降は土日祝日をふくめ卒論発表が終わるまでは24時以前に帰れなかった。2時頃に帰りつき、寝たと思ったら5時過ぎに起きて6時には大学で実験をはじめていた。


卒論ではコミュニケーションがためされる

 卒論の進みぐあいを教授たちや院生たちを前にして隔週ごとに発表する機会があった。いわゆる中間発表。教授たちは情け容赦なく実験の不備や弱点を質問し、指摘してお慈悲もなにもない。

1か月近くかかる実験のやり直しを命じられるか、よくても補強のための新たな実験が加えられる。いちばんおそれるのはテーマ変更。これだけはかんべんしてほしい。

同級生たちは中間発表後に悲喜こもごも。食事をそそくさと終えるとすぐに着手する者、空をあおぎ見る者、「どうしよう。」とそのあたりをうろうろする者。

どちらにしてもたいていそこで新しい技術を求められるので、院生たちに聞いてまわる。頭を下げると1度は親切に教えてくれる。2度目となるとにべもないし、3度聞こうとすると白い目で見られかねない。

これは社会に出ると思い知らされるのでよい経験となる。社会では1度目で本番、2度目はほぼないかも。「教わるのは1度で済むように納得できるまで聞いておく。」いやおうなく身についていく。


ゴールが見えない

 それにしても際限がない、と4年生当時には思っていた。卒論とは明確な「答え」が出るものだろうと考えていたフシがある。教授たちは「易しいテーマ」をあたえてくれているものと信じていたが、こちらの勝手な思いこみに過ぎないとのちになって気づいた。

卒論ぐらいだとたしかにそれまでの先輩たちのやり残した課題、追試、そこからの傍証や枝葉の内容が多い。教授が新たなテーマをひらめいたとしてもそれは4年生にあがったばかりの、3年生までの学生実験をどうにかこなせた者たちでもこなせるレベルで確かめられるものに過ぎない。

それがどういうわけかわたしの卒論テーマ。着手するとつぎからつぎへと広がり、収拾がつかなくなるタイプのテーマだったらしい。それをいきおい余ってわたしはやりつづけていた。のちに大学院の終わる頃にそれにようやく気づいた。気づいた頃にはすでに遅い。


おわりに

 いきおい余ってと書いたが、それはメリットにもなった。修士の1年生の秋には学会デビューを果たせた。講座で大学院(修士課程)の2年生までのうちに最低でも学会発表1回が修了のための一里塚なので、わりとはやくそのノルマをクリアできてほっとした。

学会発表は院生にとっての越えなければならない通過儀礼のようなもの。

それにしてもあの4年生の忙しさは何だったのだろう。若さで体力も気力も充実していたからこそできたのだと思う。研究者としてひとりだちしてからはどれもたやすい何でもないこと。新米の4年生当時には新しいことをつぎつぎと頭に入れるだけでせいいっぱいで余裕がなかった。

いまあの「やり方」をやれといっても到底できないし、いまの若者にそうあれとも言わない。それにしても熱中できると3,4時間の睡眠が半年つづいても何とかなっていたのはおどろき。若かったよなあ。

多少のことではへこたれないエンジンを構築できる場だったといえそう。社会に出るとただちにフル稼働できる状態に仕上げてもらえたと感じている。端緒として恩師らに「種火」をつけてもらうが、それからのちは自主的にやっていた。

周囲の大人たちがすこしはなれたところから温かな目で接してくれ、それなりに環境を提供してくれていた。それには感謝しないと。


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#エンジンがかかった瞬間

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