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ネットを開かずとも中山間地と街中での情報量の圧倒的なちがいを感じたこと

はじめに

 街中のここに移り住んですぐに気づいたこと。それは2週間ごとの紙ゴミの量とそのなかみ。郵便受けにすぐにたまる広告。あまりのたまりようの差にあわててひもを買いにむかったほど。

包装材をのぞき、広告の紙にはさまざまな情報が記される。以前とのあまりにもちがいにただ目を見張るばかり。

きょうはそんな話。

ひっこしの翌日から

 ターミナル駅そばのの賃貸マンションに住みはじめた翌日。すでに階下のわたしの郵便受けにさっそくなにやかやはいっている。

ものめずらしさもありなんだろうと階段をのぼりつつちらりと目をやる。その多くは土地や新築物件をはじめたとした不動産情報がおもなもの。その日だけで5つぐらい。そのほかには飲食店の出前や宅配。これが3つほど。さらにその翌日にはマンション情報や2,3の無料タウン誌などなど。ここに引越してきたばかりなのに、もうつぎはどうですかと案内が届く。

じつにもりだくさん。生協の個配注文でカタログとともに紙類があっというまにたまる。

くらべると

 こんなことはひとつまえの中山間地の限界集落間近のもとの住まいではなかったこと。こうした求めていないものが郵便受けにはいるのは数か月にあるかないかぐらい。それほどとぼしい。世のなかでなにがあるか郵便物から知ることは不可能に近い。

くりかえしになるが紙にのって家に訪れる情報の量やなかみにはこの両方の住まいのあまりのちがいにおどろいた。極端から極端へと移動してしまった結果なのか。

たまってしまうと

 さて話を新居のほうにもどそう。そのほかにパッケージの外装、牛乳やジュースの紙パック、段ボールや郵便物の封筒など。みずから紙を購入せずに数年が過ぎるにもかかわらずこの状態。モノとともに紙はいっしょについてくる。くらすだけでまわりからつぎつぎと紙の情報も押し寄せる。

情報の格差。もとの中山間地ではネット(これも最近ようやく光回線がとどいた)などでむしろ情報をこちらから積極的にもとめにいくぐらいでないと、なにもてをこまねいているままだとそれこそなにも入ってこない。

もちろんテレビや新聞などほぼ全国くまなく情報の得られる手段はべつにあるがわたしはすでにもといた場所でつぎつぎとそれらをやめつつあった。これでも新聞はおそらくこの集落でいちばんさいごまでとりつづけたほう。毎朝遠くから配達いただく方に申し訳なかった。それ以降たしかな情報がへりかろうじてネットをたよりに情報あつめをするように。

しごとで街にでる

 数年前からしごとで街に出る機会がふえた。中山間地のすみかの自然災害の安全性が危惧される点も考慮に入れつつ、住む拠点を変えるほうがいいと結論をだした。つまり持ち家を離れる覚悟をきめた。住宅ローンは払い終えてどうするかはじぶん次第。

でた結論はそこでの生活にはあまりなじめていなかったということ。むしろ街中で埋もれて暮らすほうがのぞましいと相成った。

おわりに

 紙の情報に埋もれる。まさにそんな状態がこのところつづいている。それほどこの街にはまだ活気がかろうじてある。いましばらくは衰退の気配はない。それにひきかえのこしてきた家まわりはどうだろう。すでにそれほどヒトは多くないし、意外とここ半世紀ぐらいはこのままかもしれない。

以前のときの歩みもそうだったようにこのあともその速度にあまりちがいはなさそう。それでいいのかもしれない。衰退にはそれだけ時間がかかるのかも。そのあいだに折りあいをつけつつ細く長くフェードアウトできればいいのだが...。

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