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ヒトがむかしから住みつづける場所にかならずあるもの


はじめに

 街ぐらしをはじめて半年、週に何度か中山間地のもとのすみかを訪れる。ここはコンクリート、アスファルトよりもあきらかに自然の木々や山々の緑、そして広い空のしめる割合が大きい。

そのいずれもが澄みきった空気のなかで感じられるし、物音もそうした自然から生じるもののほうがはるかに多い。

おそらくヒトがすくなくとも2,3千年は住みつづけただけの形跡がのこる。

きょうはそんな話。

街ぐらしの一方で

 週に何度か住んでいたもとの家に学習サポートの生徒たちに教えに街から通う。この小さな集落のわずかな子どもたち。放課後の勉強のやりかたを教えている。それとともに運転免許を返納し、足の弱った親の病院通いの送迎とつきそいのため。

それらの用事は住んでいたころからの延長なのでとくに支障なくやれている。ところが寝泊まりしなくなり、この土地の見えかたはすこしずつかわってきた。すでに街のなかですごす時間のほうが、この中山間地にいるよりもながくなった。するとあきらかにちがいに敏感になり、そして新鮮に感じられる。

くっきり見える

 ひとつには半分は気のせいかもしれないが、空気が澄んでいるとまずは感じられる。ふたつめは自動車や機械音などの人工的な物音よりも、鳥のさえずりやささの葉の風にそよぐようすなど自然の奏でる空気の振動のほうがはるかに多い。

そして3つめは耳をすますとなにがしかの水の流れる音がたえず、ベースとして存在すること。わたしたちのいのちの根底に水とのきってもきれぬ関係がそこにあるかのよう。

いずれにしてもしずけさのなかでかんじられるものばかり。いずれも不快ではない。

風を感じる

 それから風向きが時間ごとに変わるのを感じる。これは夏が多いのだが、あきらかに午前中は海からの風、そして夕方には川づたいに山からゆっくりと吹きおろしてくる風。これらを敏感に感じとれる。その空気のながれにのってあたたかさや涼やかさを感じとれ、いずれもここちよい。

どうして自然の風とはこれほどきもちよいものなのか。あきらかに人工的な機器で起こす風とはちがう。

点在するもの

 このあたりは縄文~弥生~古墳時代の遺跡が点在する。住居跡、石器や土器のかけら。はたけをたがやすとかけらがいたるところから出土する。500年ほどまえにはわりと大きな寺があった。どの時代にも少なからず連綿と暮らしていたなごりが遺跡や遺物としてのこる。考古学者の方にうかがったところ、周辺の集落とくらべても比較的多い方らしい。

ふといにしえのころのようすを想像してみた。ここはわき水の豊富なところとして知られた場所。明治から昭和にかけて蒸気機関車の給水を中継する施設があったぐらい。

おわりに

 そして湧きいでる水のそばに集落跡があった。市の遺跡案内に記載のある住居跡が点在する。みごとにそれらは海沿いの丘の端に近い場所が多い。こうした場所が海や山からの収穫や猟などにべんりな場所、洪水などの災害にさけられるところとしてえらばれたようだ。

いまも谷あいの集落のあちらこちらから湧き出て小川となり流れくだる音こそがこの地の音のベース。これはおそらく太古からかわりなくつづけている。わたしはこうしたなかで半年まえまでくらしてきたわけだ。


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