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コミッションワーク完成を機に思ったこと🎨

先日、長らくお客様をお待たせしていていた作品が完成した。

普段からでもあるが、作品制作期間中はとくに色々なことを考える。
今回はそんな日々の一端を以下に綴る。

さて、いきなりだが正直、私は「現代アート」が苦手だ。

いままで自分なりに迎合してきたつもりだが、もうやめた。

ブランディングとかプレゼンテーションとか、もういいかなと思う。

いわゆる“アートワールド”の住人には共通言語でも、自分が作品を通して出会えて良かったと思う人々は必ずしもそんな理屈で私の作品を見たりしない。

もっと感覚的で正直な言葉で話していいのだと気付かせてくれたのは、他ならぬ鑑賞者や作品の購入者たちである。

そういう意味でも、お客様は神様なのだ。


現代アートにはルールがある。

そうだろう。それが世界というものだ。

それを理解したのちに、そこの中心に立とうとするか否かは個々の選択によるだろう。

私は立たない。

世界はそんなに狭くはない。

もっともっと広大なのだ。


世界には陰と陽がある。
陰陽は別個に隔てられたものではなく、相関し合う事象である。
太極図はその理を的確に表した図像である。

陰陽を最も身近に感じられるのは昼と夜だろう。
太陽と月のことだ。

昼は太陽の世界だ。
昼間は脳と身体を動かし農耕や狩猟採集、建築、工作など生命活動を営む時間だ。

夜は闇と月と星々に見守られる宇宙の時間だ。
夜は寝ることで身体を休め夢を見る。時には熾火の静かな灯りと温もりを感じながら自身の内世界と向き合ったり、他者との共振を味わったりもするものだ。

ちなみに夢とは時に未来や本質を見透かすもので、それを頼りに強い思いや確信、願いを持つことができる、ひとつの「力」でもある。エネルギーと言い換えてもいい。


古代の人々は更に真の闇を求めて洞窟や森の深部へ分け入った。
そこでは畏怖が精神を包み、少年少女の重要な通過儀礼やコミュニティにおける様々に重要な儀式が行われてきた。

古代の人々は昼と夜、光と闇をことさら大事に扱ってきたのだ。

こうした世界認識の前提を踏まえて、人間は本来「陰陽宇宙に包括された存在」として自らを認識していた。


けして地球の覇者として自然を征服し、人間存在のうちに優劣を認め、ヒエラルキーを構築するのが正解であるという心持ちではなかったのだ。

狭義になるが、分かりやすく日本人としての私の視点で言うならば、少なくとも明治維新以前、ギリギリ敗戦以前までの日本人は、もっと精神世界が豊かだった。

無論、縄文以降の日本では世界の人々と同じように馬鹿馬鹿しい人間同士のいざこざはあったろうし、差別も暴力もあったが、しかし、それでもまだ現代日本人よりは豊かな精神世界を持っていた。

たとえば小泉八雲の「日本の面影」にあるように、昔の日本人は太陽が上ると自然と柏手を打ち手を合わせ、祈るともなく祈っていた。

それはイスラムやキリストの祈りとも違うし、仏教の念仏でもない、生活に浸透した実に自然な所作であったと私は思う。

かつての日本人は、科学と合理性が支配する観念世界ではなく、未知なる豊かさに包括された宇宙観を「お天道様」や「世間様」という漠とした広大巨大な存在や集合体として、当たり前に自身の内に内在させ生きていたのだ。

そのような世界観における個々の表現とは、無論のこと他者の脳へ論理的に語りかけるものではなく、他者の心における「共振」を喚起させるものであるというのが私の考えだ。

つまり、敢えて“現代アート”という言葉を使うなら、現代アートとは「理屈とカネの世界」でもなければ、もはや感覚を共有する「共感」ですらないのだ。

もっと存在の奥底にある、本質的な「共振」をこそ呼び起こす。それこそが、私にとっての「表現」である。

誰かの評価で認められる“現代アート”なぞもはやどうでもいい。どうでもよくなってしまったのだ。

美術史に載れば有限の人類史には残るかもしれないが、そんなものは宇宙の歴史では塵と同じであることに気がついたのだ。


宇宙の歴史は魂、心、振動、波動、が永遠に波紋として響き続ける共振・共鳴の世界だ。
それが本当の「世界の理」なのだ。

存在の本質は魂であり、歴史とは多次元宇宙における波動の波紋である。
人間は心こそが叡智であり、知性とは宇宙の理を分かち合うことなのだ。

私は人間が創り出した観念世界とはもうおさらばする。

波動言語を内在させた三次元からの挑戦にこそ夢中になりはじめている。

三次元の制約に在りながら、どこまで己を空じ世界に溶融させることができるのか。その挑戦である。

そこにこそ、真の楽しみを見出している。

三次元の人間存在を楽しむとは、制約に在りながら多次元世界をいかに想像し知覚できるかということではないだろうか。


今後はさらに私の作品に共振する新たな楽しい出会いが待ち受けていることだろう。

誰も知らない、未知なる密かな楽しみが、私の前途を明るく照らし、歩むべき道を示しているのだ。

未来に出会う「波動の同士」よ。

出会いこそが人生だ。別れじゃない。

まぁ、言葉としては「さよならだけが人生だ」という響きは嫌いじゃないのだが、本質がそうではないと気がついてしまった以上、光の内に自身を見出す営為の方に私はただただ夢中である。

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