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note八発目。JinHASHIMOTO

さて、日本では2月初旬頃より言われ始めたコロナ禍ですが、早半年を過ぎ9月になりました。

なんだか休む間も無く今に至り、まだまだ展示と創作活動は続きます。

制作に没頭し展示が始まり人に会い、話し、休暇をとりまた制作を始める、、そのような流れの中で気がつけば我が国の首相は2度目の体調不良で退陣をし、その腹心の部下のような隠し球が時期総理大臣だそうですね。

「かわいそう」なABEやその腹心をいじると大変なバッシングを受ける昨今だそうです。そして更に「かわいそう」が故に自民党支持率までUPするという信じられない民度の低さ、、

一度心をフラットにして、私たちの生活に本当に有効な手立てを打てる人を担ぎ上げるべきではないでしょうか?

少なくとも、私は他者を馬鹿にし置き去りにするのではなく、共に歩む構えのある人に政治を行ってもらいたいと思っています。

さて、このコロナ禍が長い戦いになることはもう周知されきっていることでしょう。しかもその間に新たな感染症の世界的な感染爆発も無いとは言いきれません。

そんな中で国家の体たらくと民度の低さや都市の脆弱性、そして皮肉にも二酸化炭素の排出量低減によって今後変えるべき社会的課題などが顕在化したというのは興味深いことです。

少し前、大西つねき氏の動画炎上、れいわ 新撰組からの脱退などが一部で話題になっていましたが、問題となった「命の選別」発言は我々ひとりひとりが正面から向かい合って考えなければならない課題であると思っていましたが、さすがですね、もう誰の頭からも消え去ってしまった出来事のようです。

しかし、それだけシビアな状況なのだということを理解し考えていかなければならない時に言葉狩りの様相を呈し優生思想と断罪し政党脱退でうやむやにしてしまうところに、現代日本社会の非常に低次元な限界が見えたような気がします。この低次元に留まる限界点は先の愛知トリエンナーレにおける平和の少女像問題でも顕在化していたと私は思います。

私は本来ベーシックインカム支持者で、日本の大きな間違いは少子高齢化を放っておいたことにあると考えています。例のGo toキャンペーンで「強盗キャンペーンの長」と言われる自民党の二階幹事長が少子高齢化を若者のわがままと発言したのはまだ記憶に新しいと思います。

若い世代が産めよ増やせよで一丸となって国民生産機械となればいいのだと誰かが短絡的に望むのは勝手ですが、社会も個人もそうはいきません。だからといって個人が思い通りにならないなら情報統制と憲法改正で思い通りにさせてやるとはあまりに短絡的な考えどころか、それこそ”わがまま”そのものではないでしょうか。

コロナで経済がガタガタにならなければ、国の経済活動と財政に対して健全化を求める中でおそらくベーシックインカムの話もできたはずでした。庶民から見て少子高齢化には間違いなく時間とお金が原因の一つにあるように思われますが、ここにきてそんなことすら言えなくなってしまいました。何しろ健全化どころか機能そのものが落ち込み国会においては停止中です。

こんなご時世で火事場泥棒的な税金の横流しに目を光らせつつ、市民の痴呆ぶりに呆れるしかない昨今ですが、ほんのちょっとしたことでこの国は変わるきっかけがあったのではないかということをここでは考えてみたいのです。

私は国民一人につき月5万円のベーシックインカムに加え週休も3日必要だと考えていました。月5万円と週休3日の余裕があったなら、どれだけ社会は豊かになるだろう。どれだけ家族に愛情が注げるだろう。注意すべきはパチンコやカジノ等賭博に流れないことで、制限と期限は設けるべきでしょう。

こういう論に対しては必ず財源の話と在日がどうのという輩がいますが、もちろん在日朝鮮人の人達にも配るべきだと思います。これだけ税金を搾り取っているのだから、国会議員の給料を減らしてでも配るべきだと思います。日本国民のほんの数パーセントの少数派に対して目くじらを立てヘイトスピーチを繰り返すのはあまりに稚拙な人生態度ではないでしょうか。

財源に対しても同じことで、借金まみれでどうしようもないのが本当なのか、やる気がないだけで反緊縮財政でそれが解決できるという話が本当なのかどうか、不確かな情報とやたら大騒ぎする質の低い言説ばかりがネット空間を埋め尽くしていると感じます。

私は常に生活苦のフリーランスなので、常に現実で震えて生きています。それでも、フリーランスで生きていけているのだから幸運であるとも自覚しています。

税金が給料から引かれることは事務手続きが免除される点で「便利」かもしれませんが、納税という皆で社会を構築しているということを実感するに良い機会が、人々の生活から消えているのは大変な問題で、その証拠に度々「税金の使い道」についてのミスリードが散見されます。

いちいち自身で申請し、普段から税金の使い道にも疑問の目を持っていれば、メディアがこぞって民意を政府にとって都合の良い方向に導くような生活保護バッシングや愛知トリエンナーレ平和の少女像問題など起こりうるはずもなかったのではないでしょうか。

ちなみに、アーティストとして平和の少女像問題に触れるのであれば、まさに問題として社会に提起されているのであって、それすらも大きなコンセプトの内にあるのだから、やはりアートとしてやるべきことであったと思います。

お金については残念な結果になったかもしれませんが、日本人の民度の低さも顕在化しアートとはなんぞやとの議論や個人の思考が試みられただけでも十分にアートとしての社会的効果はあったと思います。

ちなみに、あれが「左翼に乗っ取られた展覧会」だと言う人はちょっと頭が悪いかもしれません。アートの門外漢を責める気はありませんが、文化と思考というものを繋げて考えるということは、さすがに曲がりなりにも先進国と呼ばれているだけにそうした共通認識を持っていないことはちょっと恥ずかしいレベルです。ただキレイとかなんとなくの感動などで文化を捉える稚拙さは文明国であるならば早々に卒業すべきでしょう。

また話が逸れたましたが、ベーシックインカムとその制限についてはどう考えてもマイナンバー制度の整備が不可欠になりますが、ここはたいへん悩ましいところです。

なぜなら今の政府に管理を任せることは極めて危険であると思わざるをえません。とはいえ、どのみち庶民は国家の道具程度にしか考えない現政権周辺ではベーシックインカムなど国民の「わがまま」としか捉えられないので、導入など夢にもならないため無駄な心配ではありますが。。

週休3日については「ナマケモノ」と言う人が少なからずいるでしょう。働きたい人、働ける人はそのまま週休2日でもゼロでも勝手に選べるようにしたらいいでしょう。もちろん、働けば働くだけお金は入るようにして。そんな風に個々に裁量を持たせた制度は作れないのでしょうか。無駄なパフォーマンスでも「頑張り屋さんが素晴らしい」という価値観など、早晩、日本という国体の衰退と同じくしてどうせ消えてしまうのですから。

しかし、私は既に次の世界を夢見ています。

コロナ禍で皮肉にも明らかになった二酸化炭素排出量の8%減少。今、世界ではESGという新たな企業基準が生まれています。ESGとは、Environment(環境)、Social(社会)、Governance(企業統治)の三つの言葉の頭文字をとったものです。

この三つの要素に着目し企業を分析し、優れた経営をしている企業に投資する「ESG投資」も近年、株式市場で注目を集めているようです。

私は自給自足をしているわけではないので安易な資本主義批判はできませんが、利潤の拡大と効率化のみで「人間の人間による人間のためだけの社会構築」には甚だ疑問ですし、そこから離れられない以上、人間の底が見えたような気もし、未来もなんだか頭打ちの様相が見えるような気になっていました。

アート周辺も御多分に洩れず世間ではコロナ後の世界などと言っていましたが、どのみち元の利益構造に戻りたがるだけで、脱資本主義的な流れが生まれても既存の地域通貨やパーマカルチャーなどである程度持続してきたかなり小さな地域集団でしか盛り上がらないだろうと考えていました。

しかし、やはり人間の中にはちゃんとした脳を持った人も少なからずいて、全部をぶち壊さずになんとか地球と共存していける様に人間社会という巨大な機構をデザインしていこうとする人々がいたのです。ESGという企業基準を知った時、私はほんの少し光明を得たような気がしました。

とはいえ、残念ながら私が"文化的に"愛する日本はおそらくESGの波にも乗れず、何度も言うように消滅するのだろうと絶望していますが、人類という枠組みでならばまだ希望が残されていると最近は思うようになってきました。

グリホサートやネオネコチノイドなど問題だらけの農薬や遺伝子組み換えは欧州では輸入禁止されているしさすがのアメリカでもそうした流れが出てきているのに、日本だけが、農薬の値を何十倍、何百倍にまで緩和し、遺伝子組換えの非表示に諸手を挙げて賛成している点からだけ見ても、この国を弄ぶ人々の心はただただ「今だけカネだけ自分だけ」であり、国民はそんな人々に1ミリの疑問も持たないほどに薄弱な主体性しか持ち合わせていないように思われます。

国とは文化的背景への共感で構成された民族とその社会機構であると考えています。それらを担うのはもちろん一人一人の個人です。個人もその集団も性質が著しく劣化しているのであれば、国体の未来などあるはずもないでしょう。

せいぜい、「太平洋戦争の正義と東アジアにおける民族的優秀さ」の夢を見ながら安らかなる眠りにつくのが関の山なのでしょうか。

できることならば、現在貧困といわれる地域の人々に清浄な地を無税で与え、そこでの質の高い教育を保証し、都市部に倫理と道徳を導入できるような社会循環が作り得ないものだろうか。

お金の格差はあってもいい。しかし、どうしても一部の人間だけが富を独占せざるを得ない人間社会というか、人間の心において、その機構から逃れる場所やその道さえ閉ざしてしまうのは、差別主義にまみれた低俗で残虐な行為であると我々は認識しなければならないのではないでしょうか。

言うなれば、国家戦略特区を設けるのであれば、その逆に国家自然特区のようなものを同時に設けられる懐の深さこそが21世紀という歴史的最先端を生きる我々の矜持であると私は思います。

古代から現在まで、人間という一種類の生物が地球で繁栄をし始めたその時から、私たちの命題は常に「愛と平和と環境保全」に他ならないのだから。


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