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ある日の新幹線で🚄

日本の電車は清潔で気持ちが良い。けして郊外から都市部へ労働者を運ぶためだけのものとしては考えられていない。車両もダイヤも働く人々も、必ずしも全員とは言わないが、目を凝らせば鉄道に関わる人々の鉄道愛を感じられる場面が日本では必ずあるだろう。

だから、初めてNYで電車に乗った時は驚いた。味気ないトタンのような外装に、うるさい走行音。座り心地の悪いイスに時間帯によっては明らかにジャンキーめいた黒人もいる。しかし、そんな電車もマンハッタンではなにやら味があるように見えるのが不思議だ。
とはいえ、マンハッタンでは味があるように思える電車も、ブルックリンから先へ下るほど車窓は暗く、車内ではあきらかに有色人種が増え、また空港のあたりになると絵に描いたような建売の街並みが出てきて車内の人種も変わり、周囲は安全な雰囲気に満たされる。まるで見えない線でも引かれているかのように。その先もまだ線路は続くが、私は空港までしか行ったことはない。

もう一つ驚いたのは車内広告だ。そこは米国の電車内なのに完全に中国語だけの広告があった。
中国人の中国人による中国人のための広告が、電車という公共性の高い場面で使用されているのだ。法とカネでなんでも許される国だからなのか、それにしても、それだけ米国内部ではチャイナタウンを超えた中国そのものが作られたということなのだろう。

その証拠に、ロウアーイーストサイドのチャイナタウンに行った時に驚いたのは、英語を全く話せない人が店番に立っていた時だった。
米国での異人種は誰もが苦労して英語を覚えて身を寄せ合うようにして生きていると思い込んでいたのに、そこは完全に中国だった。

昨今ではそんな関係の深い中国と日本や台湾に戦争させようというのだから、これは間違いなく米国と中国が裏で手を握っているだろう。

米国は軍事と製薬会社と農業で人間を殺して平気で儲ける国だから、戦争が大好きなのは周知の事実だ。
米国は戦争なしでは生きていけない。そんな国だ。

中国は台湾や日本と戦争すれば確実に負けることはないし、独裁政権もまた戦争によって人心の掌握と統治の強制度を上げることができる。
それに加えて軍事や医療で儲けるのは米国と一緒だから、互いに利害は完全一致している。

ここで考えるべきは台湾と日本の回収先だが、おそらく台湾は中国、日本は米国と考えられているのだろう。
中国は台湾のリスクを完全に回収し、大嫌いな日本を痛めつけて、米国は日本の復興で儲けることができる。結局はもしかしたら台湾も日本も中国になるのかもしれないが。

もちろんこれは私の最悪な想像力の話だが、現実味の低い話ではないと思う。
大事なことは東アジアで市民同士が手を取り合い、各国の政治に訴えかけ内側から戦争を抑止していくことだが、言葉の壁が連帯を邪魔するし、基本、多くの市民は洗脳されやすい。

おそらく技術的には完全な同時通訳が可能な状態にはなっているだろうが、分断統治こそ人類の至上のバランス装置だと信じて疑わない大国のいけすかない統治者たちは、このまま人類が互いの殻に閉じこもり、疑念と怒りを持って分断され続けることを望んでいるのだろう。

なにしろ目的を平和ではなく戦争に置いているのだから話にならない。
大事なことは一人一人の市民がまず気付くこと。それからだ。

さて、話を戻そう。
やはり電車といえば忘れてはならないのが駅弁だろう。
ある日、NY郊外の素晴らしいミュージアム、ディアビーコンへ行くために電車に乗った。

日本の駅弁のようにはいかないのでKIOSK的なところで食べ物を買うが、ちょっとしたサンドイッチでも買おうものならすぐに2000円を超えてしまう。空港のWi-Fi然り、とにかく人の足元を見る構造が芯まで浸透した社会である。なにしろ法とカネだけが人を管理しているのだから、まぁ、それは当たり前といえば当たり前なのかもしれない。
結局、日本では数十円で売られているモヤシに1000円近くも払ってモヤシサラダ的なものを妻と分け合った。

米国でとにかく驚くのは、価格に比例した質の低さだ。
1000円というと、日本ではそれなりのランチが食べられて、中華ではお釣りがくる程度の価格だが、米国では全てがニセモノの酷いモノしか食べられない。
メニューの写真とは明らかに異なる、わけがわからない中身の変な味がするラップと、インスタントとはいえべらぼうにマズいコーヒーのセットで2000円近くはしたと思う。

価格はレートとその国の社会で流通する数字なので、ある程度は諦めもつくが、ありえないところまで質を下げる努力に心血を注ぐ逆の科学力が社会で市民権を得ている様を見ると、法とカネだけで全てを済まそうとした結果、とんでもなく浅ましい社会になってしまった米国という国の罪深さを感じる。

比べて日本が素晴らしいわけではないが、少なくとも反面教師にはするべきだろう。
なぜ素晴らしいわけではないのかというと、着々と日本が米国化しているからだ。反面教師にするどころか、模範として堕落し腐敗を極めていく様は、とても頭脳が備わり学習能力がある人間が作っている社会だとは思えない。

感受性の衰退と無関心の蔓延を基盤とした、一億総白痴化は止まるところを知らないのだ。
かつて「島国根性」と自嘲したその気質は今や「奴隷根性」にまで堕落していながら、日本スゲーと空虚な自己肯定感が社会を覆う。

さて、次は日本の駅弁だ。
日本が誇る駅弁文化は素晴らしい。
レパートリーも豊富で、それこそ1000円ちょっとでも出せばブランド牛の弁当にありつける。パッケージも趣向を凝らしていて、各都道府県が鎬を削って特産品を盛り込んでいる。

それなのに、やめておけばいいのに、つい裏を見てしまう。
裏を見ると後悔する。食べられるものが無くなるからだ。
別に気にしないで食べればいいのだが、気にするし、知れば食べたくないと思う性格だ。

しかし、ある日の大阪からの新幹線。私は空腹に耐えられず裏も見ずにうなぎ弁当を買った。
ご飯の上にたっぷりと鰻が乗っていて、卵焼きが二切れ、漬物が少々といった具合だ。
タレと山椒が別についていて、これで温かければ文句なしだが、空きっ腹には冷えても十分に美味しかった。
もちろん裏の記載については、私はまるで戒めのように最後まで弁当の裏を見ずに通した。

知らぬが仏。とはよく言ったものだと思う。
「知らない、見ない」ことでこんなにも自由で幸福な時間が過ごせるのだから、無知とは幸福への近道のように感じられる。

しかし、化学物質は蓄積する。蓄積された毒はやがて病気という形で人体にしっぺ返しを食らわせてくる。
多くの人はその原因が自身のそれまでのライフスタイルにあったということを知らずに対処療法にお金をかけて、医者と製薬会社にカネを注ぎ込んで最後に葬儀屋と坊さんにまでカネを払い、戒名だけ抱えて成仏とやらに向かっていく。

現代人は生にばかり固執し感情的な”幸福感”を求めるが、大事なことは「死に方」を考えることだ。
「生き方」と「死に方」の相関関係を考えるようになれば、人は今より少しマシな生命粒になれるかもしれないと、私は思う。

これだけ長々書いたのだが、ただ、電車に乗って弁当を食べた。そのついでに色々と思ってみただけのこと。

実はそれだけの話である。

大阪の住吉大社。「変わらない視座」を感じるため、たまにはこうした場所へ行くといい。

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