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挫折と孤独と燃え尽き症候群 ─『ドラゴンクエスト8』の思い出
2024年11月27日は、『ドラゴンクエスト8 空と海と大地と呪われし姫君』の20歳の誕生日だそうです。
ここのところ忙しすぎて、まったくブログを書ける気がしなかったのですが、今日は大切な節目ということで、短めになると思いますが少しだけDQ8開発当時のことを語ろうかと思います。
自分がDQ9やDQ10のことを語ることはたまにありますが、DQ8のことを語るのは、あまりなかったと思うので。
「挫折」
DQ8開発当時(2002~2004年頃)は、僕が31~33歳の頃でした。
DQ7とDQ4リメイク(PS)の開発を経てドラクエを作ることの楽しさと難しさを実感した僕は、とにかく若さと野心に溢れていました。
同期の仲間たちと、「次はどんなドラクエを作りたいか」で朝まで語り合えた、今にして思えば、そんな青くて熱っぽい時代だったと思います。
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あり得ないほど細い市村(白)とワシ(黒)
しかし当時の僕は、まあ我ながら面倒くさいやつでした。
仕事に対する熱意はあるものの何に対しても頑なで、それでしょっちゅう堀井さんを困らせていました。
とにかく万事そんな調子だったので、堀井さんからの信頼感も少しずつ失われていき、自分が空回りしていることは嫌というほど自覚していました。
思い返すのもしんどいのであまり具体は語りませんが、これがドラクエの仕事を始めてから最初に感じた、大きな『挫折』だったと思います。
「孤独」
半分挫けかけていた自分にとって明確に転機になったのは、2003年のスクウェアとエニックスの合併でした。
それまでドラクエの仕事は6年余りも在宅でしたが、これを機に毎日会社に出勤する体制に変わりました。
同期の仲間たちは環境の変化にとまどっていましたが、僕はこの時、これはチャンスと考えようと思っていました。そして、自分の中でこんな誓いを立てました。
「今からDQ8の発売日まで、自分にできることをすべてやってみよう。そこまでやったら何ができるのか、自分の能力の限界を自分の眼で見極めよう」と。
それは自分との約束だったので、僕は己が持つ全資質と全時間をDQ8に捧げると決め、それを貫き通しました。
当時、シナリオは概ね揃いつつあったものの、システム面はまだ完成度が低い状態でした。『テンション』も『スキルシステム』も『錬金釜』も、構想はあるものの具体的な仕様には落とし込めておらず、『スカウトモンスター』、『チーム呼び』、『モンスターバトルロード』辺りは、まだ構想すらありませんでした。
僕は堀井さんに、システム面の仕様とデータ作成の下地作りをやらせてほしいと志願し、了承を得ました。そして、おそらくこの日から、僕の人生を大きく変えることになる大切な半年間は始まったのだと思います。
昔のブラック労働を美談のように語るつもりはないですが、僕は毎日終電までいるのは当たり前、週に何日かは帰りもせずにずっと働き続けました。
頭が冴えてる時間は仕様を書き、疲れを感じるとデータ作成を始める、その繰り返しの毎日で、我ながら自覚するほどアドレナリンは放出されっぱなしでした。
「人の倍のスピードで倍の時間働けば4倍進捗を出せる」
僕はよくそう嘯いていましたが、不思議なことに、やればやるほど仕事は増えていきました。
『プレイヤー側のデータ』、『フィールド上の宝箱の配置』、『モンスターの行動案』、『戦歴システム』、『スキルアップ時の称号考案』などなどなど……。その作業量たるや、本当に無限なのかと感じるほど膨大なものでした。
この頃の自分がずっと感じていた感覚は、ひたすらに『孤独』でした。
僕は毎日無限ループでミスチルを聴きながら、来る日も来る日もDQ8のモンスターパラメータと向き合っていました。
次第に狂気じみていく僕のことを、周囲は気づかってくれていたと思います。
市村(プロデューサー)はよくブレストに付き合ってくれたし、堀井さんも時々気を使って深夜に電話をくれたりしていました。
ただ、あまりにも長時間DQ8と向き合い続けたせいで、まるで世界に自分とDQ8しかいないような不思議な孤立感に包まれていました。
ゲーム開発には、その日を境にもう一切データに触れてはいけないと定めた『データロック』という日があります。
僕は「データロックまであと何日」と書いた紙を壁に貼って、その直前までクオリティ追求の手を止めませんでした。
そして、(これはあまり人に話したことがなかったことですが)データロック当日、最後のデータを提出した後、僕は急に力を失ったような気分になって、自分のブースに隠れて声を押し殺して泣きました。
この時の感情を一言で表すとしたら、僕は寂しかったのだと思います。
この夢中で駆け抜けた熱い半年間が終わってしまう。そのことが、異常とも思えるほど、どうしようもなく寂しくて仕方がなかったのです。
考えてみれば、この頃から僕はもう壊れ始めていたのだと思います。
「燃え尽き症候群」
DQ8の開発を終え、発売日も過ぎ、そろそろ次のプロジェクトのことを考えなければならない、そんな頃の僕を襲ったのは記憶障害の症状でした。
人の言っていることがちゃんと理解できなかったり、明らかに話したはずのことがそっくり記憶から抜け落ちてしまっていたりと、そんなことが頻繁に起きるようになっていました。
家族に勧められて訪ねた心療内科で伝えられた言葉は、『燃え尽き症候群』でした。僕はここでようやく、自分が壊れてしまっていることを理解しました。
その後、ドラクエオンライン(後のDQ10)の開発が始まり、吉田さんや安西さんからオンラインゲームの基礎を学んだりしている過程で少しずつ回復していき、僕は前と(たぶん)変わらない理解力と記憶力を取り戻しました。
しかし、この時つくづく悟ったことは、「もう二度とあんな働き方をしちゃいけない」ということです。
僕はこの後、DQ9とDQ10という二つの超難易度タイトルに挑戦することになるのですが、「絶対にあの時ほどはやらないように」ということは肝に銘じて、やりすぎそうになったときにはブレーキ。そう意識しながら臨んでいました。
自分にとっての『DQ8』
DQ8をクリアして流れるスタッフクレジットの、スクロールの一番最初に僕の名前は現れます。けれど僕は、DQ8のディレクターではありません。
ただ、この作品がきっかけとなって、その後の人生は大きく変わりました。
DQ9、DQ10と二作品続けてディレクターを任せてもらえたことも、このときの仕事ぶりが認められたおかげだったと思います。
それに、自分には限界があるという大切なことを教えてくれたのも、やはりDQ8でした。
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ドラクエ30周年のイベントステージで話したことだったと思いますが、「今までで一番つらかった開発は?」と訊ねられたら、僕は間違いなく「DQ8」と答えます。それは今も変わりません。そして、その答えは日野さんも同じで、当時は本当にみんなギリギリまで働いていたんだよなあと、そんなことを実感したエピソードでした。
「DQ9は、自分の人生の代表作」
僕はよくそう口にすることがあります。
「DQ10は、自分の人生で最大の作品」
これは恐らく確実で、残りの人生で更新することはもうできないだろうと思います。
ならば、DQ8は自分にとってなんだったのか。それは一言では言えません。
DQ8は、最初の挫折を感じさせてくれたタイトルであり、人生最大のターニングポイントであり、一番つらかった開発であり、自分の資質と限界を教えてくれた───まるで青春のような作品でした。
この作品に深く関われたことは、自分の人生にとってかけがえのない思い出であり、誇りです。
ドラゴンクエスト8、20周年おめでとう。
あれから20年も過ぎただなんて、本当に信じられないね。
これからもずっと、多くの人に愛される作品であってください。
一人のスタッフとして、心からそう願っています。
2024.11.27
ドラゴンクエスト8シナリオライター 藤澤 仁