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光一元(こういちげん)の世界

人は動植物など全ての生物の命を、生きる為に奪い続けて生きているのにも関わらず、多くの人達がそのことを意識もせずに生きている。

わたしたち日本人が食事の前にする「いただきます」は、ご飯をいただくのではなく、「今日も生物の命をいただきます」なのだ。古来から自然の中で生き、自然の神々を祀り、感謝する中で生まれてきた日本の大切な言葉なのだ。

地球上の全ての生物は、命の循環の中で存在しているわけで、人間も単なる地球上の生物で、循環の中の一存在に過ぎない。

せめて、その生物の命の循環の中でも、理性と思考という類まれな特性を保持している人間は、もっと謙虚に生きることができないだろうか?プロの格闘家が素人に決して手を出さないのと同じように。

その人間が、多くの相対立的なものの見方と思考によって争い、時には殺し合い、存在を誇示しあっている。

何故だろうか?理性と徳を持って二元的な思考回路、つまりお互いの正しさを競いあうだけの世界を一掃出来ないだろうか?

実は日本人の中で、長い間歴史的に培われ育まれてきた自然との接点や文化的醸成が、この価値判断を打破する鍵を有するのではないかと感じるのだ。

日本の神話の中にもある通り、古来から多くの神々が私たちの周りにおり、西洋的唯一絶体神とは違う。

日本人は、私たちの命というものが、多くの目に見えない存在によって守られ、生かされていることを、多くの人達が信じることができる神道の文化を持っている。

まして、神社や仏閣といった形のある存在や祭りや昔から残る各地の風習や儀礼など、必ず生きる自然の恵みに感謝し、それらを確認できる事象が山ほどある。

世界にもこういった文化を継承しているエリアもあるはずだ。そして、世界を経済的にもまだリードする側にある日本は、影響力の強い世界の覇権大国とは違う独自の文化的背景を持っている。

私たち日本人は、世界中の醜い争いを解消していける大調和的素地を持つのではないかと思う。多くの日本人は、表と裏、光と影、善と悪、勝ち負け、原因と結果、そうした二元論の中で悩み争い生きている。

光一元の世界では、人間の普遍的無意識の中に、男性・女性共に互いのイメージを持つものとして生きることができると考えられている。征服者と被征服者、強きものと弱きものといったあらゆる対立関係も包み込んでしまう世界が光一元の世界なのだ。

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