エッセイ:最近俳句について思うこと

こんばんは、サトウジンです。

最近「俳句はどうですか?」、なんてフォロアーさんに聞かれるたび、「ぼちぼちですね〜」とお茶を濁しておりますが、今日ここで隠さずにちゃんと言っちゃいますね。

毎日がスランプだと思って俳句を詠んでる。

びっくりした?
するよねー。
でも本当のことなんだもん仕方ない。
実際、割りとぎりぎりの句数で毎回投句を乗り切っておりまして、(自分より経験のある)若手が沢山詠んでると聞くと「マジ?」となる(1日100句とか鬼畜か)。
じゃあ所属している俳句結社ではどうなんだ、と言われると、実は毎回とは言わないまでもお師匠さんに採られてたりするので、おお半端ねえな、って気持ちと、なんかすまねえな、って気持ちで半々である。結社内外から原稿を依頼される場合もあり、その度に正直自分の中では、定期的に「嘘やん」ってツッコミが入る。そもそも入会して半年で同人になったところから自分の中では「?」がいっぱいだった。これもお師匠さんの度量の広さ故だと思うので非常に有難きことではあるが。

そもそも私が俳句を趣味にしようかと思ったのは、伊藤園の例のあの、誰を呼んでんねんって感じのお茶がきっかけである。あそこの賞に投句をしたら偶然、都道府県賞(賞金5000円)が当たったので、そこから俳句雑誌の読者投句欄にも応募して、ぽつぽつ選を頂いたりもした。それはそれでそれなりに楽しかったが、ある日俳句雑誌で、私のお師匠さんの俳句作品に出会い、それで一目惚れ。そのお師匠さんが主宰の俳句結社の事務局に電話凸して、今所属と相成っている。地元の句会の方にこの話をしたらすごい驚かれた。縁ゼロの状態から若造が入会とは俳句に携わる方々にしてみればなかなかヤバい話かと思われるが、これが何も持たない一般人の為せる業である。

話を戻そう。端からみればまあまあクレイジーな私も、俳句を続けて3年以上が経過している。自分でもよくここまで続いたものである。そして今、俳句に対して思うことはというと、

別に上手くなくてもええやんなあ

どんだけモチベーション低いんだ👻
いやでも、上手くなるために俳句をやるんだ、みたいな人ってそんなにいるのかな、と思うし、第一仮にそれを目指すにせよ、上手くなった先に何があるんだろうな、と。「賞があるじゃん」って言う人、賞はあくまで通過点なのよ。賞を頂いても、それで終わりにはならない。書き続けなきゃいけない。そのモチベーションになり得る目的って、何でしょうね?

仮に技術が極限まで向上したとして、一人で黙々詠み続けてもそれはたぶんストレスになる。表現が他者に開かれ、開放されていないからだ。そうなると自らの作品に対し疑心暗鬼に陥る。中にはそれが好きなマゾヒストさんもいらっしゃるが、それでも投句先や句会で誰かに読まれ、評価されることが、俳句においてはまず醍醐味になる。評価といっても、例のあの帯を締めた浜ちゃんと相性良さそうな俳句の先生みたいなズバズバとしたやつじゃなくて、「昔子どもは宝だったわねー」「こう読むともっと感動すると思うわ」みたいな、一句の世界になるべく深く入り込む解釈が取り交わされると、次に俳句を詠むとなった時に自信がつく。自分にとっての理解者がそばにいるということが、書き続けることのモチベーションにつながる。

以上がぬるま湯に過ぎない、という方は次のことを想定すると良いかもしれない。自らの俳句は神への捧げもので、日々祈り、修養することでいずれ神の審判が私に下るのだ、と。笑いごとではなく、これもひとつのモチベーション維持の考え方である。スポーツにおけるルーティンも然り。表現が閉じているように思われるが、いわゆる信仰があるために作品に対する疑心暗鬼に陥りにくい。信仰といっても、その根拠は普段の練習(俳句なら多作多捨や投句など)や投資(句集を買う、指南書を買う)の積み重ねであるが。

だから正直、俳句がそんなに上手くなくても仲間がいれば良いし、自分の普段の積み重ねを豊かにしていけば俳句の芯はおそらくぶれないだろうと思っている。技術のあるカリスマほど、悩ましい孤独故に疑心暗鬼に陥りやすくて脆いから、細々長生きして気がついたらなんか一冊句集を出していた、みたいな人生が私にはちょうど良いのかもしれない。


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