エッセイ:「俳号と身体化」考
こんばんは。お久しぶりの記事になります。サトウです。
今日は、某有名俳人さんのブログエッセイについて、恐れ多くも自分みたいな一般人が一般人なりに考えちゃうよ、というお話になります。
そのブログエッセイというのがこちら。
窓の会への質問です43-俳号と身体化…https://ameblo.jp/sakadachikaba/entry-12814404647.html
その前のこちらも合わせてどうぞ
窓の会への質問です42-駄目な俳号がありますか…
https://ameblo.jp/sakadachikaba/entry-12814324025.html
某有名俳人とは、まあ言うまでもなく、あの甘納豆の句でお馴染みの坪内稔典氏です。その坪内氏のブログについて、今回突っ込んだり、突っ込まなかったりするというのが、今回の主旨な訳です。
このブログの内容が、じつは某○○○組の鉄砲玉からカチコミを喰らうことになった訳なのですが、それはひとまず置いておきまして、まずは坪内氏の俳号に対する主要な考え方をとりあえず抜き出しましょう。(上記2つのブログ記事からまとめて抜き出します、悪しからず。)
要約しておくならば次の通りだと思います。
①角川俳句の読者投稿欄に何やら新奇な俳号が見受けられるが、そのように俳号の新奇性に寄ってかかるのが、転変著しきはずの自らの俳句人生に対する覚悟の表れであるのか、非常に疑わしいということ。(あなたはずっとその奇妙な名前で俳句賞も句集も通していくことができますか、ということでもある)
②正岡子規が正岡子規たり得たのは、「その仕事、日常、癖、病状、口癖など」の全人的なリソースがあってこその「正岡子規」という名であって、名前ありきではない。名は体を表すとはよく言うが、体なくして名が立つことはない。だから、匿名投稿が許される昨今とはいえど、新奇的な名前で一旗揚げようなどと思っても、面白がられて後は飽きられて退場を求められるのが関の山だということ。
③②に関連していえることだが、自らの全人生、全人的リソースを、果たしてその新奇性を狙った俳号に託すことができるのか、ということ。その奇妙な俳号を名乗ること自体が、自らに発せられる言葉の重さから逃げる口実にならないか、ということ。
①につきましては、今後もし、俳句賞を目指していくに当たりましてはまあ考えてみてもよいことではありますが、「賞レースには関わらないから」とか、「別にその名前で賞に入っても困ることはないから」とか言われたら、それまでとは思いますね。
②についても同様で、「一旗揚げたらやめていい」みたいなマインドの持ち主ならば、別にダメージはないのだろうなあ、と思います。ずっと続けたいという方にせよ、「実力を出し続ければ恥ずかしくない程度には名前だって認知される」というマインドがあればたぶん大丈夫なのでしょう。
③について詳述しましょうか。これはね、だいぶ先人様に失礼なことをしてしまいますので後で西方浄土に向かって土下座しておきますね。例えば、次の一句。
荒海や佐渡によこたふ天河 松尾芭蕉
これは苦労の旅路の中で、芭蕉が詠み成したからこその渾身の名句なのでありますが、これを、
荒海や佐渡によこたふ天河 ぼぼやん
こうしたらどうですか?
今適当に俳号つけちゃいましたけど、相当印象違ってきません?句のスケールに俳号が明らかに追いついてないですよね?つまりこの「ぼぼやん」という俳号が、俳句の言葉の重み、或いはこの俳句が詠まれるに至るまでの苦難や激情に対して、すっかり負けてしまっているよ、ということなんです。このことはもう一つ別の側面も炙り出します。それはつまり、自らが句を詠んでたとえ失敗しても「自分は『ぼぼやん』だから」で通せてしまう心の甘さも見えてしまうという訳です。坪内氏はこのことを言いたかったのかもしれません。とまあ、私が真意を推し量るのも中々に烏滸がましいかもですが。
坪内氏のいう「俳号の身体化」とはつまるところ、「俳号とは俳人の人格の確立である」ということとほぼ同義でしょう。人格という言葉が物足りないなら、「人生」と置き換えても良いでしょう。俳号が俳人としての生き方を決める、という坪内氏の俳号に対する心構えが見えてきますね。
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