ロープを背負うということ

じんです。
ジャグリングとは関係のないテーマですが、僕にとって重要なテーマだと思ったのでこちらに書き残しておきたいです。

言葉の重み

僕自身も、拙いながらも「言葉」をやっていっている身であるので、”言葉の重み”、というものについてしばしば考えることがある。
言葉が軽い、薄っぺらい、安っぽい。 反対に、言葉が重い、って何だ。価値ある言葉ってなんだ。

僕がTwitterなどでジャグリングなどについての言葉をやっていっているときは、「“正しい”」かどうか、つまり、事実なら真(現に存在する)かどうか、論理的に誤りがないかどうか、などを確かめながら、主張/論の妥当性をみる。そして、その主張/論に乗るかどうかを考える、ということをしたりするのですが、「正しい」言葉が常に重いかどうか、というと、必ずしもそうではない。

言葉というのは記号なので、誰でも記すことができるわけだ。
例えば、発言者によって主張/論の妥当性が変わってしまう、というのは、”正しさ”テストをする際にはあってはならないことである。
”正しさ”テストにおいては、誰が言おうと、その言葉は発言者を離れてtextとして主張/論のみが抜き出され、その妥当性が判断される。
しかし、”言葉の重み”テストにおいては(というか実生活上/経験上の感覚的には)、発言者によって変わる何かが、ある。その何かが”言葉の重み”なのだろう。

〈私〉の語り

僕が重要と考えているキーワードとして、「〈私〉の語り」というものがある。
「〈私〉の語り」については、ジャグリング対談や他のnoteにて所々述べているが、
(※「語り」を言語的なものと、運動/ジャグリング的なもの両方指して使うことがある概念なので注意。ここでは言語的なものの話。)
 参照: https://note.mu/jin00_seiron/n/n4d6731c96bf8
    https://note.mu/jin00_seiron/n/ne8cc95605475
(余談だが、差別論、ジェンダー、関係性論、あたりの、「当事者性」がどうしても出てくる領域に僕が個人的に触れる機会が多く、その意味でも関心のあるキーワードである)

ある語りが、その語りを構成する言葉が、まるで記号をなぞるかのように表されたものではなく、〈私〉によって獲得されたものであるとき、〈私〉から出てきているとき、それは「〈私〉の語り」になる。
例えば、僕は育児の経験をしたことがないが、その僕の口から「子育てって大変だよね」という言葉が発されたとき、いくら「子育ては大変である」という主張/論が”妥当”であったとしても(若干主観的な言説ではあるが)、それは「〈私〉の語り」ではないために、したがって相手に”刺さらない”(価値のない言葉とみなされる)ことが有り得る。

〈私〉の語りであることと、”言葉の重み”があることは、「経験/実体験がある」ということを意味する同様のものなのだろうか。

背負うということ

少しまた違う話をするが、僕は、一つの物事について、それを皆がそれぞれ自分の利益のために動かそうとするのを、「政治」と呼んでいる。
”正しさ”テストをしている間は、主張/論のtextの妥当性を問えば良いため、この時点では「政治」は関係ないのだが、「コスト」概念が出現すると、話は一気に「政治」フェーズへと飛ぶ。

例えば、「みんなが幸せである状態が良いよね」「お腹が空いている飢餓状態ってつらいよね、不幸せだよね」「みんながご飯を食べられるように”すべき”だよね」「全員に毎日3個りんごを配る”べき”だよね」という言説があったとしよう。
『全員に毎日3個りんごを配る”べき”だ』の妥当性を問う”正しさ”テストにおいては、「毎日りんご3個で満腹になるかよ」とか「りんごアレルギーの者はどうするのか」とか指摘が入って、「もっと量を増やして、複数品目を配ったほうが”良い”(みんなが幸せである状態を目指すという目的達成のための手段としては妥当)」、という結論になるのだろうが、
では、そのためのコストは誰が負うのか?という話になると、あるいは、限られた資源/財源(コスト)をそこに費やして良いか?という話になると、皆がそれぞれ「自分の利益」という要素を勘定に入れ始め、「政治」フェーズが始まる。この時点で、「もっと量を増やして、複数品目を配ったほうが”良い”」という言説を支持する者はどれだけいるだろうか。
あるいは、この時点で(「政治」フェーズにおいて)、「私が全てのコストを負う」と宣言した上で『全員に毎日3個りんごを配る”べき”だ』と言う者に対して、コストを支払わない者からの「もっと量を増やして、複数品目を配ったほうが”良い”」という指摘がどれだけ刺さるだろうか。
”言葉の重み”というものの一側面は、この「コストを背負っている」ということだと思う。簡単に言えば、ステークホルダーの話、「株主が株の割合に応じて発言に力を持つ」ということだ。

ところで、私たちは人間であるので、支払えるコストは無限ではない。有限だ。(コスト:金銭的コストはもちろん、時間的、体力的、精神的コストも。)
私たちは、ロープを背負っている。
自分の首につながったロープで、何かを背負っている。
もちろん、なにも背負っていない者(例えば赤ちゃんなど保護されるべき者)もいるだろうが、大抵の者は、自分の生活を含め、何かを背負っている。自分の生活、会社、家族、子供、なんでもいいが。
私たちが背負うことができるものには限りがある。背負うものが無限に重いときはもちろん、一定の限界を超えると、首が絞まって自身を失う。背負うもの共々倒れてマイナスだ。

限界以上のものを背負って結果的にマイナスになるよりも、+1であるべきだ。まず自分自身を背負う、+1。
+1で有り続ければ、次がある。マイナスになってしまえば、そこで終わりだ。
まず+1、それからあなたが背負いたい、背負うべきものを背負えばいい。

さて、『全員に毎日3個りんごを配る”べき”だ。私が全てのコストを負う』と言う者に対して、「もっと量を増やして、複数品目を配ったほうが”良い”」という指摘がどれだけ刺さるのか、に立ち戻って考えよう。
ロープを背負う者(「彼」としよう)に対して、ロープを背負わない者が、彼の限界以上の、支払えないコストを、”正しさ”を理由に背負わせることができるだろうか?

できない。できないよな。だってマイナスになってしまえば、そこで終わりだ。彼が背負うものはともかく、彼自身という+1は、失ってはいけない「真実の利益」であり、退けない一線だからだ。

それでは、「もっと量を増やして、複数品目を配ったほうが”良い”」という指摘は、本当に刺さらないのだろうか?
これについては、彼が何を背負おうとしているのか、ということが問題になる。
彼が、「みんなが幸せである状態にする!」とか「みんながご飯を食べられるように”すべき”だ」というのを掲げて、それをそのまま背負おうとしているのならば、「もっと量を増やして、複数品目を配ったほうが”良い”」という指摘は”正しい”。
この指摘は、「足りない。だからもっと多くを背負え」、という意味ではない。「ロープを背負い直せ」、という意味だ。

この指摘を受けた「彼」が取る選択肢は二つある。
一つは、「みんなが幸せである状態にする!」とか「みんながご飯を食べられるように”すべき”だ」という看板を掲げるのをやめることだ。
そのうえで、『全員に毎日3個りんごを配る”べき”だ』という看板を掲げて、あるいは看板を掲げずに、『全員に毎日3個りんごを配る』というロープを背負うのであれば、「もっと量を増やして、複数品目を配ったほうが”良い”」という指摘は刺さらない。
もう一つの選択肢は、刺さり続ける指摘を受けながらも、つまり、「みんなが幸せである状態にする!」とか「みんながご飯を食べられるように”すべき”だ」という掲げる看板と実際に背負うロープの差を自覚しながらも、『全員に毎日3個りんごを配る』ことをし続け、いつか掲げる看板に見合うロープを背負えるようになるまで漸進を続けることだ。
重要なのは、足りていないことを自覚し開き直りながらも、指摘は刺さり続けるということだ。その指摘を甘んじて受ける(何度も言うが、この指摘はより多くを背負えという意味ではない)ことが、掲げる看板をロープに背負うということだ。
つまり、彼への指摘は、およそ、「ロープを背負い直せ」、「背負えない看板を掲げるな」という意味だ。

看板を降ろしてしまうのか、看板を背負うことにして刺さり続ける方を選ぶのかは彼次第であるが、どちらを選ぶにせよ、彼は責められるべきではない。何度も言うが、支払えないコストは背負わせられない。マイナスになったら終わりなんだ。

僕が背負うロープ

最近、僕が所属しはじめた「ピンクの猫」というものの話をしたい。
これは僕が”名付けた”もの(集団?組織?サークル?)で、端的に表す際はジャグリング論壇ということにしているが、その言い方も適切かは不明だ。「ピンクの猫」には代表者はいない。名簿も会費もない。加入手続きもないから、勝手に名乗ってくれ。

「ピンクの猫」が一体なにを目的とする同志の集まりかというと、話せば長くなるのだが、簡単に言うと、《ジャグリングにおける「良さ」と呼ばれる「それ」へたどり着くために、言葉からアプローチしていく活動をする集団》である。
「ピンクの猫」の構成員はみな対等である。ただ言葉でやりあい、誤りは指摘され、語を生み出し、少しずつ「それ」に向かって漸進する。

参照: https://note.mu/jin00_seiron/n/n1200fc52a412
https://twitter.com/jin00_Seiron/status/1029799450288377856

「ピンクの猫」についての詳細は別の稿に譲るとして、僕が「ピンクの猫」を名付けたのは、僕ひとりでは、《ジャグリングにおける「良さ」と呼ばれる「それ」へたどり着くために、言葉からアプローチしていく》というのを背負いきれないな、とようやく感じはじめ、諦めたからだ。(勝手に一人で背負っていたのだが、)僕ひとりのロープで背負うのはやめた。ロープを背負い直したのだ。
もちろん、僕は「ピンクの猫」の一構成員として、その看板を背負う。
「ピンクの猫」の構成員の発する言葉に対する指摘は、同じ構成員である全員に刺さり続ける。それでも、この看板を背負う価値はあると僕は思うし、看板だけでも、僕は背負い続けたいと思う。

ロープを背負い直しても、僕が足りないのは変わらず、宿題はまだたくさん残っている。
それでも、刺さり続ける方を選ぶのは、多分、意地なんだよ、
それだけは退けない。物書きとして、リベラルとして、男の子として(ポリコレに反しそう)、ちっぽけなプライドを守るために意地張る、それだけ。

お前はお前のロープを背負え。

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