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地元エナジー物語6 はじまりとおわりのいちご

小学生の僕は、字を書くのが苦手だった。
「ケンタのノート、読めねえ!」
「ケンちゃん、もう少し力を入れて書いたら?」
 僕は精一杯書いているつもりなのに、いつも先生に字のことを注意されるし、みんなに笑われる。丁寧に字を書こうとすればするほど力が入らなくなって、鉛筆を握れなくなっちゃうんだ。自分でもなんでかよくわからない。だから、学校はあんまり好きじゃない。

 お父さんとお母さんは毎朝僕より早く仕事に出かけちゃうから、僕は学校に行きたくないとき、おばあちゃんと一緒に農園にいったり、近くの水族館に出かけたりした。
 お父さんは、農業では食っていけないといって役場で働いている。でもおばあちゃんは、おじいちゃんが死んでしまったあとも、手伝ってくれる近所のパートさんたちと一緒にいちご農園を続けている。

 4年生になったばかりの春、その日は雨が降っていた。僕は学校に行かず、家で窓に当たる雨粒を見ていたら、水族館に行きたくなった。

「おばあちゃん、僕、ちょっと水族館にいってくる」
 僕は長靴を履いて年間パスポートを首からさげ、いつもの水族館に向かった。

 真ん中にある大きな水槽の中でひときわ存在感を放つデカくん、
 唇に黄色いリップを塗ったオシャレなシャレさん、
 これぞサメ!という顔つきで偉そうに泳ぎ散らかすサ・メ!くん、
 水槽の下の方でじっとしているクロさん。

「みんな元気だった?」僕が水槽越しに話しかけると、一匹ずつ僕の前にきてくれる。幸せな気持ちのまま、リュックからノートと色鉛筆を取り出したところで、背後から声がした。

「ケンタくんだよね?」

 驚いて振り返ると、クラスメイトの女の子だった。

「…え。もしかして、ミサキちゃん?」

 ミサキちゃんは、クラスの中でも背が高くて、薄茶色のショートカットがよく似合っていて、大人っぽい雰囲気の女の子だ。合唱のときはいつもミサキちゃんがピアノで伴奏をするし、リレーの選抜も、意見発表会のクラス代表も、ミサキちゃんだった。ミサキちゃんの周りにはいつも友達がたくさんいる。

「ケンタくん、最近学校きてないと思ったら、ここにいたんだ。」

「あ、ごめん…」

 僕はいけないことを見つかったみたいな気持ちになって、思わず謝った。

「え、なんで?謝ることないじゃん。だってホラ、私も今、ここにいる。」

「あ…そっか、本当だ。」

「ふふ。ケンタくん、水族館好きなの?」

「うん。」

「私も。学校は、あんまり好きじゃなくて…。」

「ええ?」

 びっくりした。だってミサキちゃんは、背が高いし、勉強もできるし、友達もたくさんいるのに。

「学校、つまんない。」

「そっか。」

 ミサキちゃんは続けた。

「つまんないっていうか…疲れる、かな。あのね、腹筋に力入れると、お腹が固くなるでしょ。あんな感じで、いっつも力入れてるんだ、私。そうしてないとダメっていうか、力をゆるめると奥までパンチくらいそうっていうか…だから疲れちゃうの」

 ミサキちゃんの意外な話に、僕は思わず相槌をうった。

「あ、それはちょっと分かるかも。僕の場合は力入れて頑張ろうって思えば思うほど、力が入らなくなっちゃうんだけどね。」

「そっか。」

「でもね。ここにいると僕、それでもいいかなって思えるんだ。なんていうか、魚たちはみんな気持ちよさそうに泳いでるでしょ。力なんて入れてないみたいに見えるけど、でも、みんなちゃんと泳いでる。」

 僕はなんだかおしゃべりになって、自分だけで考えていたことを言葉にした。それからミサキちゃんに、でかくんやシャレさん、サ・メ!くんを紹介すると、ミサキちゃんはからりと笑った。

「ケンタくんてさ、面白いね。」

 急に照れくさくなって僕が下を向いていると、頭の上からミサキちゃんが言った。

「あのね、私、引っ越すの。今度の5月の連休の前に。」

「え?」5月の連休って…1週間後じゃないか。

「お父さんが仕事で九州に行く事になったから。」

「そっか…」

「学校は好きじゃなかったけど、ケンタくんが面白い人だってわかって良かったな。」

「うん…」

「新しい学校では、私もデカくんやシマさんみたいになれるといいな。」

「うん…」

「引っ越したら、手紙、書いていい?」

「手紙?」

「うん。ケンタくん家って、ツタさんのいちご農園だよね。新しい住所、ここに書いておくから」

 あっけに取られている僕をよそに、ミサキちゃんは言った。そうして僕がシャレさんの黄色い唇を描こうとしたスケッチブックに、反対側からきれいな字ですらすらと新しい住所を書くと、僕の肩に手を置き、行ってしまった。

 水族館を出ると、雨がすっかりあがっていて、遠くには半円の虹が見えた。完璧な半円だった。

「おばあちゃん、ただいま」僕が帰宅すると、おばあちゃんが目を見開いた。

「ケンちゃん、なんで泣いとるの。」

 おばあちゃんは、首から下げていた手ぬぐいで僕の涙を拭いてくれた。おばあちゃんの優しい手つきのせいで涙腺が決壊し、僕は声をあげて泣いた。嬉しくて、悲しくて、さみしくて、心強かった。僕は、おばあちゃんに水族館でのことを話すと、おばあちゃんはぽんと膝を打って言った。

「ケンちゃん、ミサキちゃんにいちご、送ったろか。」

 おばあちゃんがつくっているいちごは、4月いっぱいで旬が終わる。シーズン最後のいちごを、ミサキちゃんに送ってあげようというのだ。

ミサキちゃんへ。
九州にも、水族館があるといいです。九州の水族館のことや、新しい学校のこと、今度教えてください。おばあちゃんがつくった今年最後のいちご、送ります。
ケンタより

 僕は生まれて初めて手紙を書いて、おばあちゃんが準備してくれたいちごの箱の上にそっとのせた。力を込めて一文字一文字書くことができた。

 5月の連休があけると、ミサキちゃんから返事が届いた。

ケンタくんへ。
こっちにも水族館がありました。今度行ったら、レポートします。あと、ツタさんのいちご、ありがとう。お父さんが、昔からツタさんのいちごが一番おいしいって、あと、シーズン最後のいちごはなおさらうまいって言ってました。私もツタさんのいちご大好き!
ミサキより

ミサキちゃんへ。
九州にも水族館があってよかったです。水族館のレポート、楽しみにしています。おばあちゃんが、最後のいちごは来年もミサキちゃんちに送ろうと張り切っています。
ケンタより

ケンタくんへ。 
水族館に行ってきました。オレンジとクロのシマシマの魚が人気だったけど、私が一番好きだと思ったのは、マグロです。大きなからだで、硬そうなのに、スイスイ泳いでいて、見ていて飽きないです。今日は2時間もマグロを見ていました。
あと、いちご、いいの?やったー。来年も待ってます。
ミサキより

 それから僕は、おばあちゃんのいちご農園を手伝うようになった。毎年シーズン最後のいちごをミサキちゃんの家に送るために、前の年よりももっとおいしいいちごになるように、僕は真剣だった。
 
 ミサキちゃんが引っ越してから、15回、シーズン最後のいちごを贈った。

 12回目のいちごを贈る少し前に、僕は地元の大学の農学部を卒業して、おばあちゃんの農園で本格的に働き始めた。13回目のいちごを贈ったあと、おばあちゃんは腰を悪くして畑に出なくなり、14回目の後、僕が農園の代表になった。そして15回目を最後に、もういちごを贈らなくてもよくなったんだ。



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