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ジモカン日記vol.4 やらないよりやるほうがいい

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カンカンの会

小学生のとき、「カンカンの会」という会を立ち上げたことがある。安易だけれど、空き缶を拾う会、という意味の会だ。会員カードを手書きでつくり、まわりの友達を勧誘して、有志で道路に捨てられた空き缶を拾っていた。空き缶だけではなく、コンビニ弁当のパックや、タバコの吸殻やペットボトル、中にはラジオとかゴム長靴とか、びっくりするような家庭ごみまであった。

私の実家は長野市の中でも西の方の、もともと村だった山間地域。小学校3年生までは分校に通い、高学年になるとおよそ5キロ離れた本校までの山道を毎日歩く。お父さんにこっぴどくしかられて朝ごはんを食べそこなった日も、雪がひどくて足が取られる日も、毎日1時間近くかけて学校に通った。

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私はその通学時間がとても好きで。
自分のこと、友達のこと、学校のこと、地域のこと、将来のこと、世界のこと、宇宙のこと、そして他愛もない空想。いろんなことを考えながら歩くので、途中でトイレにいきたくなって、知らない人の家をピンポンしてトイレを借りたり、途中にあるお菓子工房のおじさんにみそパンをわけてもらったり。ときには大声で歌いながら気持ちよく歩いていると、「いいねえ」と牛飼いのおじさんに声をかけられたりした。今思うと、あの通学時間は、小学生だった私にとっての「旅」だったのかもしれない。

確か小学4年生のころ(1994年)。本校に通うようになると、長い山道のあちこちに捨てられているゴミがとても気になるようになった。

山があって、川があって、空気が澄んでいる大好きな地元の山道が日々ゴミで汚されていくのを見るのは辛かったし、子どもなりに危機感を抱いていたのだと思う。1990年代前半は、盛んに環境問題が叫ばれ、テレビでもよく特集が組まれていた。幼かった私は真剣に悩み、考え、いてもたってもいられずに「カンカンの会」を立ち上げた。

自分だけの持続可能な開発目標

小学生が、たった5キロの通学路でゴミを拾ったところで、環境保護の観点での効果は微々たるものだったに違いない。

それでも、小学生だった私にとって、通学路はまだ限られていた自分の世界の主要部分で、だから必死だった。落ちているゴミを拾わないという選択肢はなかったのだ。効果はどうあれ、私にとって「通学路のゴミを拾う」は私なりの持続可能な開発目標の実行だった。

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昨今叫ばれているSDGs(持続可能な開発目標)は、取り扱っているテーマや掲げているものの規模が大きすぎて、自分ごととして捉えるには、ちょっとハードルが高すぎると感じることも多い。

SDGsとか言ったって、結局古くから地域で守られてきたことを守るのみなんだよ、という声も聞こえてくる。SDGsは結局ファッションだよ、という痛烈な批判も耳にしたことがある。

それでも、自分にとってやらない選択肢がないような、自分が必死に取り組むしか無い「自分だけの持続可能な開発目標」が、きっとそれぞれの人にあるのではないか。小学生だった自分のことを振り返ると、そんな気持ちになった。

まずは自分にとってどうしても着手せざるを得ない問題と、真剣に向き合ってみるのがいいと今は思っている。

たとえば今の私だったら、肢体不自由で目が見えなくて全介助が必要な娘が、社会の一員として彼女らしく暮らしていくためにはどういう仕組みが必要か。これはもう、娘が生まれなかったら考えなかった問題だけれど、どうしたって考えないわけにはいかないし、絶対に答えを導かなければいけない運命のイシューだと思っている。

たぶん、みんなそれぞれにあるはず。

やらないよりやるほうがいい

SDGsに限らず、世界に山積する問題の多くは、その大きさ故に、あえて考えることをやめたり、見て見ぬふりをすることにして、私は大人になってしまった。海洋プラスチック問題も、エネルギー問題も、貧困問題も、健康格差も、全て、私が考えても考えきれない。だからとりあえず蓋をしておこう。そうやって少しずつ少しずつ蓋をして、自分の心を守って生きてきた。でも、果たして、大人になるってそういうことだったんだろうか?

地元カンパニーに入って、一番印象的で、今でも反芻している考え方がある。「やらないよりやるほうがいい」という考え方だ。

コロナで大変な想いをしている医療従事者にむけて何かしよう、という話が児玉さんからあったとき、正直なところ、私は怖かった。問題であることはわかるけれど、それは私達が触れていい問題かどうか分からなかったから。実際何が問題で、何を解決しなくちゃいけないかわからないのに、いわば部外者の私達が「応援」とか「寄付」とか言ったって、そんなのただの偽善に聞こえやしないか。分かっていない問題に安易に触って火傷するくらいなら、何もしないほうがいいんじゃないか。

でも児玉さんの答えは違った。

それでもやらないよりやるほうがいいと思っている。やってみて初めてズレを認識できて、そこから少しずつズレを埋めて行けばいいと思う。やってみないと何が間違っていたかすら認識できないから、何もやらないよりは、少しでも何かやったほうがいいと思っている。

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「やらないよりやるほうがいい」

身動きがとれなくなっていた私は、この言葉でようやく魔法が溶けた気がした。

やらないよりはやってみよう。まずはそこから。

「おとなになるってどういうこと?」と子どもに聞かれたとき、がっかりした答えをしないように。蓋をしてきた「わからないこと」を一つ一つ行動することで「わかること」に変えていこう思う。


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