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地元エナジー物語5 無駄づかい 

 「あなた、無駄づかいしているわ。」
 白髪交じりのヨシコさんが今日も言う。私は相変わらずなんのことか分からず、「そうですね」と受け流す。
「ヨシコさん、今日はお風呂の順番一番なので、準備しましょうね。」
 私がヨシコさんの腕を掴むと、彼女はそれをふりほどいた。
「今日はお風呂に入らないわ。入りたくないの。」
 今日はご家族からお風呂の希望にチェックが入っているのだ。入れないわけにはいかない。
「ヨシコさん。困りますよ。今日はお風呂の日なんですから。」
 眉を潜めながら言うと、ヨシコさんはじっと私を見つめてまた言った。
「…あなた、やっぱり無駄づかいしているわ。」
 私は小さくため息をついた。

 談話室では、またノリタケさんがタバコを吸おうとしている。「おい、今日は忙しくなるぞ」そう言いながらライターを探しているようだが、当然忙しくなんてなるはずがない。
「ノリタケさん、タバコはだめですよ。今日は折り紙をやりましょうね。」
 そう言って同僚がノリタケさんを多目的室に連れて行くが、ノリタケさんはタバコを手放そうとしない。陽気な音楽が流れる多目的室には、教室のように机と椅子が並べられ、着席した高齢者たちがスタッフに付き添われて折り紙を折っている。

 デイサービス事業所「ユートピア」に就職して、まもなく1年。スタッフは毎日分刻みで仕事をこなし、その横で利用者たちはトイレやお風呂や食事の順番待ちのために座っている。

 私が家を出るのはだいたい朝7時頃だが、出勤する途中いつも気になるおばあさんがいる。派手な水色のカーディガンを羽織ったおばあさんの背中は随分曲がっていて、地面を見ながら歩く彼女が最初、職業柄心配になった。ある時、そっとおばあさんの顔をのぞきこんでぎょっとした。彼女は、歩きながらタバコを吸っていたのだ。
 私は、どういうわけか彼女の存在が気になって仕方がなかった。いつも同じ水色のカーディガンを羽織っていて、口元にはタバコを加え、決して清潔とは言えない身なりをしている。今日こそ話しかけよう、と思いながら、なかなか話しかけることができないまま毎日が過ぎた。

 その日は、前日にほとんどすべての利用者がプログラムを拒否し、出勤する私の足取りは重かった。利用者に快適な時間を過ごしてもらうのが私の仕事なのに、彼らはちっとも満足そうではない。私の仕事は間違っているのだろうか。自転車を漕ぐ足が自動販売機の前で力なく止まった。
 すると、いつも見かけるあの水色のおばあさんが歩いてくるのが目に入った。今日こそ話しかけるタイミングかもしれない。
 
「お散歩ですか。」

 地面を向いて歩いていた彼女は驚いたように足を止め、ゆっくりと私を見上げた。
「散歩?まあ散歩ともいうかもしれないね。」
 思いのほかしっかりした口ぶりに一瞬怯みながら、ずっと気になっていたことを聞いた。
「誰か、お世話をしてくれる人はいますか?その…あなたの。」
「たえこ。」
「たえこさん。ご家族はいらっしゃいますか?朝ごはん、食べました?」
 畳み掛ける私をあざ笑うように、たえこは言った。
「誰もいやしないさ。好きなときに好きなことをして、好きなものを食べて、気が向いたら銭湯にも行く。」
「毎日ずいぶん長い時間、散歩されてますよね。」
 聞こえているのかいないのかわからなかったけれど、たえこはゆっくりおいしそうにタバコを吸ってから、私の方を見て言った。
「あたしゃ待ってんのさ。」
「待ってる?何を…?」
「変なことを聞くね。決まってんだろ。お迎えをさ。」

 たえこはにっと笑うと、またタバコを口にくわえてゆっくりと歩きだし、背を向けたまま手をひらひらとふってみせた。本当に誰かの迎えを待っているのか、先立ってしまった誰かが迎えに来るのを待っているのか、私には分からなかったけれど、彼女はとても幸せそうだった。

 彼女が気になっていたのは、彼女の見た目や行動が心配だからだと思っていた。でも、違ったかもしれない。勝手に彼女を助けてあげようと思っていた自分が急に恥ずかしくなった。

 私は、自動販売機でココアを買ってから少し遅れて出勤したが、同僚も上司も、特に気にしなかった。
 シフトに入ると、ヨシコさんはまた入浴をいやがった。
「私、今日はお風呂に入りたくないのよ。」
 風呂の順番待ちをしている利用者たちを横目に見ながら、さっき言葉を交わしたたえこの堂々とした様子を思い浮かべる。そうして私は、ヨシコさんに尋ねた。
「あのねヨシコさん、じゃあ、何かやりたいことはありますか?」
 私の言葉を聞いたヨシコさんは、ぱっと表情を明るくして腕まくりをした。
「私ね、水回りのお掃除が大得意なのよ。あなたたちのお掃除、いつも気になってたの。教えてあげるわ。」

 すると、むこうからスタッフに反抗するノリタケさんの声が聞こえた。
 「折り紙なんてやってられねえよ。子どもじゃねえし。」
 私は同僚に目配せをすると、ノリタケさんをそっとベランダに連れ出した。冬の風は冷たく、ひらひらと飛んでくる枯れ葉は、寒さの到来を楽しむ妖精のよう。私はノリタケさんのタバコにこっそりライターで火をつけ、私たちは並んで外を眺めた。遠くにツグミが飛んでいるのが見えて、子ども
頃夢中で鳥を追いかけたことを思い出した。

 「あそこの蛇口が漏れてんだよな。」
 街の設備屋としてみんなに慕われていたノリタケさんは、外水道を指さして言った。「直せますか?」思わず聞き返すと、ノリタケさんは嬉しそうにタバコの火を消した。「アサメシ前よ!今日は忙しくなるな。」

 部屋の奥から、「台所をピカピカにしたわ」と言いながらヨシコさんがベランダに駆け寄ってきた。
「ねえ、お掃除したら汗をかいたわ。お風呂に入ってもいいかしら。」
 もちろん、と小さく言う私をよそに、お風呂の準備に向かおうとしたヨシコさんはくるりと振り返った。
「あなた、無駄づかい、やめたのね。」
「え?」
「あなたの無駄づかいよ。あなたの無駄づかい、やめたのね。」

(完)


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