見出し画像

リベラリストの不寛容

リベラリズムはその語源からしても、個人の自由な活動を尊重するはずだ。とりわけ自由な言論はその基盤であるはず。にも拘らず現実にはどうだろう。私にはリベラルを標榜する人達ほど、自分と違う意見を封殺しようとする傾向が強いように思えてしまう。

キャンセルカルチャーという言葉がある。定義はさまざまだが、仮に「特定の発言を糾弾して、ボイコット等を通じてその人物や企業自体の発言を封じようとする活動」とでもしておこう。

BLMやMe toでは、多くの著名人が現在はもとより過去の発言まで掘り起こされて、発言取り消しや謝罪に追い込まれた。

日本でも、安部元首相が辞任した時に、同情的な発言をした松任谷由実氏に「早く死んだほうがいい」と言った大学講師がいた。この人、SNSに載せた釈明(?)の文章のなかで「偉大なアーティストは同時に偉大な知性であって欲しかった。」などと発言している。つまり、彼の考える偉大な知性なるものに反する人には発言の権利などないということなのだろう。

このようなリベラリストの不寛容には、理由があると思う。というより彼らの成り立ちからくる必然なのではないだろうか?これは、保守派の人達との対比でみるとわかりやすい。

保守派の価値観の基本は家族だ。また、家族の価値観を育んできた伝統を重視する。一方、家族が住む地域があり、国があり、世界がある。地域には自分達の家族とは別の考えを持っている家族もいるだろう。国になればもっと多様だ。だから常に折り合いを考える。妥協できるところは妥協しつつ共存をはかることになる訳だ。それでも保守派は自分の家族、自分の地域、自分の国という風に、伝統に裏づけられた帰属意識というものを強く持つ。自分や自分の家族とは違う考えを持った人達も含めて自分の国だと考えるわけだ。

さて、リベラリスト(或いは社会主義者)はどうか?私には、彼らが何か絶対的に正しいものの存在を信じているように思える。伝統や習慣や個人の嗜好やその他一切を超越する何かだ。
社会主義者の場合はわかりやすい。彼らにとって共産主義は至高の理想社会であって、その実現のためには、国家はむしろ邪魔な存在である。日本でも左派の人達は自分達のことを国民とは呼ばず市民と呼ぶ。世界の市民が連帯して理想の世界を創りあげるのだ。それに反対する者は全て敵になってしまう。リベラリストは全て社会主義者というわけではないが、人種の平等、性差別撤廃、LGBTの保護といった、彼らにとっての絶対善と言えるような主張に対して、一切の反論を認めない姿勢には共通点がある。

ところが問題なのは、その「絶対的に正しい(と信じる)もの」が必ずしも皆同じではないということだ。派閥により、個人によって内容は当然に違う。にも拘らず、絶対的に正しいものに反対するものは絶対悪だということになるから、激しい派閥抗争が必然的に発生する。

6-70年代の学生運動にみる激しい内ゲバと分派、終わりなき内部抗争の結果最終的には弱体化した国鉄(JR)労組、最近では離合集散をとめどなく繰り返す旧民主党勢力など、これらの好事例だと言えるだろう。さらに、ロシアにせよ中国にせよ、社会主義政権が必ず独裁化するのもこれが理由だと思う。絶対的に正しいものを一義化して異議を唱えさせないようにするには独裁以外にあり得ないからだ。

世の中に絶対的に正しいものなんて無い。その前提に立ち返らないかぎりリベラルに未来は無い。と自分は思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?