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ウイグルと日本

中国におけるウイグル人への虐待・迫害のニュースが日本のメディアでも数多く報じられています。日本を含む西側メディアでこれだけたくさん報じられていながら、ウイグル人と同じムスリム(イスラーム教徒)やトルコ系の住民が多数いる中東で思いのほか中国への批判が少ないのはどうしたことでしょうか?一般的にムスリムやイスラームへの否定的な行動に対しては敏感に反応する中東諸国の大半が、この問題に関しては沈黙を守っていたり、奥歯に物が挟まったような言辞に終始したりしています。

おそらくそれだけ中国の経済的影響が大きいということでしょう。たとえば、トルコは同じトルコ系としてウイグル人の庇護者の役割を長く果たしてきましたが、近年は、トルコと米国の対立の余波もあり、中国との関係を重視するエルドアン政権は、なるべく両国のあいだに波風を立てないような方向に変化しているようにもみえます。日本も中国との経済関係からでしょうか、米国やEUがウイグル問題を理由に中国に制裁を科しているのに対し、制裁の実施には慎重な姿勢を示しています。

日本のアカデミズムでもウイグル研究は西域史として古くから盛んでした。どちらかというと、歴史的・宗教的研究が中心でしたが、今でも日本の東洋学、あるいは中東・イスラーム研究のなかで重要な位置を占めているといっていいでしょう。

日本にきた最初のウイグル人は、1275年に来日した元の使節のメンバーだったという説があります。文永の役の翌年、杜世忠を正使とするモンゴル(元朝)の公式使節が日本に服属を要求する国書を携えて現在の下関に到着しました。しかし、彼らは当局に捕まって鎌倉に移送されます。そして、当時の日本の最高実力者であった執権の北条時宗は、この使節を鎌倉の龍口(たつのくち)で処刑してしまったのです。冒頭の画像は、彼らが処刑された刑場の跡です。江ノ電の江ノ島駅のすぐそばにあり、この事件の数年前には、日蓮が処刑寸前に助命される事件が起こったことでも有名です。いわゆる龍ノ口法難で、日蓮の四大法難の一つです(ちなみに写真はすべて筆者の撮影)。

さて、話を元朝の使節に戻します。使節のトップは正使でモンゴル人の杜世忠でしたが、そのほか、副使として何文著、計議官に撒都魯丁、書状官に杲(あるいは果とも)、通訳の徐賛がメンバーに含まれており、全員首を刎ねられ、由比ガ浜で晒し首にされています。

実際には使節はもっと大人数できていたんですが、主要メンバー以外は送り返されたようです。ただし、日本側の史料『北条九代記』よれば、鎌倉に贈られたのは3人、処刑されたのは2人となっています。であれば、正使と副使、それに通訳の3人が送られ、正使と副使が処刑された可能性が高いかもしれません。

このうち何文著は漢人、徐賛は高麗人でしたが、残りの2人、撒都魯丁、杲はウイグル人だったとされています。世界史の教科書でも知られていますが、元朝は支配下の中央アジアや中東出身の「色目人」を漢人以上に優遇したといわれています。撒都魯丁と杲はまさにその色目人というわけです。後者の杲に関しては、オリジナルの名前が不明ですが、撒都魯丁についてはアラビア語の「サドルッディーン」(Ṣadr al-Dīn)であることはまちがいないでしょう。サドルッディーンはムスリムとしてはよくある名前であり、おそらく彼もムスリムであったと考えられます。

日本には8世紀にはペルシア人がいたことがわかっていますが、日本にやってきたムスリムとしては、少なくとも文献で確認できるかぎり、このサドルッディーンが最初かもしれません。その栄えある最初のムスリムを、当時の日本政府は処刑してしまったわけです。

ちなみに龍口刑場跡には現在、常立寺(じょうりゅうじ)というお寺があり、その境内には処刑された5人の元の使節を祀る「元使塚」が建っています。下の写真がそれです。ただ、この塚は古いものではなく、大正時代に建立されたものです。ちょうど日本の目が中国大陸に向けられはじめたころですので、もしかしたら、そうした国策と関係があるかもしれません。

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上の写真だと、わかりにくいですが、真ん中あたりに青いものが見えると思います。この部分を拡大したのが以下の画像になります。

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小さめの石塔に青い布が巻かれているのがわかるでしょう。上に一つ、大きなものがあり、その手前に青い布が巻かれた5つの塔が見えます。上の大きなものが使節全体のものだとすると、下の5つはそれぞれ処刑された5人に割り当てられると思います。おそらく5つ並んだ、中央の、一番背が高く、青い布のほか白い布も巻かれているのが正使の杜世忠、以下向かって右隣の2番目に背の高いのが副使の何文著、そして向かって左から2番目が計議官の撒都魯丁でしょうか?書状官の杲と通訳の徐賛は高さがわかりにくいですが、おそらく両端のどちらかが相当するはずです。

ちなみに青い布はモンゴル語でハタクといい、神聖なもの、大切なものに巻いたり、掛けたりします。大相撲の藤沢巡業が行われたとき、モンゴル出身力士が常立寺を参拝して、この青い布を巻いたそうです。なお、2007年にはモンゴルのナンバリーン・エンフバヤル大統領夫妻が常立寺を訪れ、元使塚を参拝しています。この塚が、日本とモンゴルの二国間関係においてそれなりに重要であったことがわかります。ただ、ムスリム諸国の要人が、はじめて日本を訪問したムスリムの塚に参ったという話は寡聞にして知りません。また、日本の当時の記録に撒都魯丁らの出自や信仰について書かれたものもないようです。

(保坂修司)

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