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【トーク】「戦争と技術」塚原東吾×小笠原博毅×栢木清吾〈質問編〉

ジュンク堂書店難波店にて開催した、アーロン・S・モーア著『「大東亜」を建設する――帝国日本の技術とイデオロギー』(人文書院)の刊行記念トークの記録です。登壇者は監訳者の塚原東吾さん、訳者の栢木清吾さん、そしてカルチュラル・スタディーズ研究者の小笠原博毅さん。こちらのトークは、訳書刊行直前に47歳で亡くなった著者の追悼イベントでもありました。(※この記録は、すでに人文書院ホームページにて公開したものを、読みやすさ重視のため移行したものです)

開催日:2020年03月06日(金) 18:30~20:00 ジュンク堂書店難波店

司会進行:栢木清吾、福嶋聡(ジュンク堂書店難波店店長)

栢木 ありがとうございます。登壇者で1時間ほどしゃべってきましたので、そろそろフロアのみなさんからも質問を受けたいと思います。

質問者1 塚原先生が「技術はアグレッシブなイメージがあるけど実は冷静、合理主義」と言われていて、小笠原先生は「技術はマッチョで筋肉質だけど実は情念がある」とおっしゃられていたのが、矛盾しているようでよくわかりませんでした。

小笠原 矛盾ではなく、同じことを言っているんですよね。

塚原 なるほど、いい質問です。ここで注意しなくてはイケナイのは、技術は一枚岩ではないということなのです。社会的文脈から切り離された技術はないし、人間から離れた「技術」というものが、どこか空中に浮かんでいるわけでもない。必ずある時代のなかで、ある社会そしてある文化のなかで営まれる。だから技術は合理主義だけど情念がある、ということ、冷静だけどマッチョでもあるのだ、ということです。もちろん、堅くて強くて人を殺していく軍事技術もある。でも、それらはある時代のある社会のなかで成立したものであって、そこには必ず情念が含まれる、ということです。

その意味で科学技術の歴史というのは、なにか堅い大理石の彫刻を土の中から掘り起こすような作業ではない。むしろやわらかい粘土の彫刻をつくり続けている人たちの手わざのあとをほぐしてみていくようなものです。科学というと、どうしても「客観性」「再現可能性」「普遍妥当性」だといわれます。「ニュートンの法則はここでも通じるし、ブラジルでもロンドンでも通じるではないか。だから客観的に妥当で普遍的なのだ」というけれども、そうじゃない。科学というのはある文脈のなかで発見されるのだということに強調点を持って行くと、もう少し複雑な面が見えてくる。堅いはずの科学や技術が、ある歴史状況のなかで出てくる、その出現の仕方を観察して行くというのが科学技術史の仕事です。どこにでも使える技術があるかというと、そんなことはない。簡単な話ですが、ある技術を考えるなら、それはいくらかかるのか、ということを見て行くなら、「客観妥当性」とか、「普遍性」とかより、その技術の置かれた政治や経済や社会関係がより前景化してくる。ある技術、たとえば歯でも脳の手術でもいいのですが、特権階級しか受けられない医療技術があります。それはもっと言うなら、ある社会のなかにいる人しか受けられない、あるいはある特権階級しかつかえないの技術があるのです。そういう差異や、ある意味での差別・階級関係などがまず科学技術のベースにあるということを、歴史家は注目します。そういうかたちで深い焦点深度をもって、絞りを上げて行くとなると、合理性も情念も、同時にフォーカスが合ってくる。

小笠原 混乱するのはよくわかるのだけど、混乱させることがまさにこの時代のイデオロギーの目的でした。乗ってしまったのですね(笑)。モーアもふれている技術論争というのが当時ありました。日本でもヨーロッパでもあったのだけど、ヨーロッパでは当時フランクフルト大学に集っていた、フラクフルト学派とのちに呼ばれる一群の研究者の中にテオドール・アドルノという人がいて、「近代は非合理的なものを合理的に応用することに長けた人間が強い」と言っています。一見矛盾しているように思えるのですが、たとえば情念。情念は非合理的なものに思えますが、理論的に言ったら、そうではない。

情念こそがまさに合理的なものの変異だという考え方もあるわけです。数字や技術や、単なる物を加工することによって、「ほら、できたよ」と結果を見せることができる。一つの具体的なかたちを与えられるわけです。そうすると、うれしい。高揚感がある。その繰り返しですよね。究極的には、その近代のテクノロジーの粋を集めたものがファシズムだということになります。フランクフルト学派の人たちはそう考えた。30年代の日本の技術論争はそこまでいっていないのだけど、そういうことです。ごちゃまぜになっていると思うのは正しい。けど、そのごちゃまぜというのは、わーっと溶け合っているというわけではなくて、非合理的なものを合理的にアッセンブルする、ある程度計算されたものなんです。

質問者2 「イマジナリー」に対して想像力や構想力など、さまざまな訳語を使っていると思うのですが、そのお話を聞かせてもらえますか。

塚原 はい、重要な指摘だと思います。実は僕らのなかでもけっこう論争がありました。「構想力」という訳語を選定するとなると、そこは、三木清を念頭に置いていることになる。三木清が帝国主義の特徴として、「思想的構想力」だと言っています。『構想力の理論』を書いていることでも、それは分かると思います。だから、「構想力」という訳語をつかうべきだという人もいたけど、アーロン・モーアがひねり出してきた「テクノロジカル・イマジナリー」というのは、もちろん山内昌之もいますが、むしろハリー・ハルトゥーニアンたちの思潮からきている。アメリカのポストモダン的な言説批判をする人たちの流れに、彼も位置づいているので、むしろ三木の言葉より、いわゆるアメリカのポストモダンに適合するような訳語として、敢えて「想像力」という言葉を選んでいます。

質問者2 ドゥラシラ・コーネルに『イマジナリーな領域』という本がありますよね。それとも関連するのでしょうか。

塚原 どちらかというとアーロン・モーアは酒井直樹スクールの人なので、やはり中心は思想ではなく日本史です。そこは悩んだのですが、「テクノロジカル・イマジナリー」の一つ決まった訳語をつくろうとしたときに、「構想力」とすると、「自分がやるぞ」という意味合いが強い。三木清はまさに、「自分が(この大東亜共栄圏を)構想するんだ」という意味が含まれている。というよりも、モーアは、やはりもうすこし客観的に、歴史の研究対照として、見ている感じがあります。なにかそこに立ち現れる「想像力」をつかったほうがいいのではかろうかと議論を重ねて来て、落ち着いたところが「技術的想像力」という訳語でした。

ただ、冒頭にも言ったように、「技術的想像力」にも2種類あることは注意をしておくべでしょう。当時の人たちが持っていた想像力をこちらから見ている場面と、現代まで続くテクノロジーのもっているイマジナリーというか、テクノロジーをもって世の中を動かそうという、さきほど安倍首相の「一億総活躍社会」というのもあったけれど、非常に強いイマジナリーです。そこには、ITなど参加型・主体動員型の取り組みのなかで科学技術を使えば、なんでもできるぞ、という考えがある。それは政治的な支配、コントロールのイデオロギーでもある。それも批判しようとしているから、その振れ幅があって、むずかしい概念でもある、と僕は思いつつも、モーアの言いたい事を表す言葉としては「技術的想像力」に統一しました。

質問者2 夢想、幻想もイメージとして含まれているのでしょうか。ありもしない概念もふくまれている、という印象を受けました。

塚原 ありもしないというか、そうなんです、夢想に近い。現政権のイノベーションやテクノ・ユートピア願望も、含まれます。ですが、当時の人たちは信じていたことなのだと思います。きわめて真面目に、日本はテクノロジーをもつことでアジアを解放できると思っていました。技術者たちはとくに真剣だったと思います。真剣に、大東亜の総合科学技術で、イギリスやアメリカよりも優れたものがつくれるのだと信じていました。夢想というと、後で見た、「勝ち馬に賭ける」ような価値判断が入ってしまいますよね。だから、そこはちょっと、注意が必要です。かならずしも、そうではないのです。もっと強烈なイデオロギーといってもいいし、本書の中心人物のひとりである相川春喜なんて社会主義者ですから、弾圧されてたいへんな苦労をしたあとに絞り出すように考えている。その人が国家の技術を想像していく、そのときにどんなキャンペーン言語が駆使されるのか、どんなことが考えられていたのかという言葉です。それをきちんと歴史的な対象として、検討したい場合、当時の彼らが心のなかで思い描いていた事や、脳みそを絞り出すように考えたこと、書いたことや提案したことを、どう言う言葉で言えるかというと、それは「テクノロジカル・イマジナリー:技術的想像力」であるということです。

質問者3 本はまだ読めていないのですが、戦前戦中の技術が現代にも使われているということでしたよね。水俣病の本を読んでいると、住民が証拠をつきつけているのに、チッソ側はのらりくらりとかわす、というシーンを目にします。3.11の原発事故のときも思いましたが、それは技術者に確固たる信念があるから、そういう対応になるのでしょうか。もしそこに繋がりがあるのでしたら、教えてください。

塚原 ありがとうございます、まさにその通り、水俣のことをどう考えるか、など、戦後の技術についても問題意識の中にあるのだと思います。だからその信念の正体を暴かなければいけないと、モーアは考えている。その信念の正体はどこにあるのか。「テクノロジカル・イマジナリー」という言葉をつかって、考えているわけですね。「イデオロギー」というのは手垢がついてしまった言葉なので、敢えて言葉をつかっているのだと考えられます。なぜこの人たちはこんなに技術を信じているの? もしくは、技術にまつわるなにかを信じているのか、それとも科学を信じているのか? 

これはさきほどおっしゃったように、水俣病も原発も化学産業も、地球温暖化もすべてそうです。科学技術を使えば世の中は絶対によくなる、もしくはこれは近代なんだ、無知蒙昧の迷信を信じているような農業社会で、昨日と同じことを今日もしていくのではなくて、工業をつくりあげて、人間の力で自然をコントロールして、社会も動員して、みんなよい方に向かうために真剣にしているのだ、と思いこんでいたのだとしたら、それはある種の、決定的な「想像力」に依っている。科学なら、「このデータは違うでしょう」と言ったところで、それは変わらない。その後ろになにかある、「なにかこの人たち“信じて”いるな」ということを暴こうとして、モーアは、この本を書いたのだと解釈しています。

いまでも、技術に対する信仰は強烈です。「第三世界を技術の力で幸せにしてあげよう」という人たちがたくさんいます。我々の世界でも、もっとITやAIをつかって人間は幸せになれるんじゃないだろうかと考えている人たちはたくさんいます。警告を発しても止まりません。なぜそうなってしまったのか、もう少し深い根があるのではないのかと考えてみたいと、それは僕も思っています。それに腰を据えて向き合うことを、科学史や科学批判、科学哲学がしようとしています。敵と呼べば、まあ敵方なのですが、そういう技術志向とか、科学への楽天的な信頼は、実はかなりしつこくて根深いし、時には悪質で邪気に満ちていることもあるものです。その根っこには、満州に技術信仰の範型のひとつがあったのではないかという主張が、モーアです。もしくは、朝鮮でも台湾でもそうだった、東南アジアもそうです、つまり大東亜共栄圏という帝国イデオロギーの基盤には、そのような「技術的想像力」があった、それを明らかにしたのが、モーアの仕事だと言えます。大日本帝国のもと、科学技術をどう広めようとしたのか、それを明らかにすると、技術決定論者あるいは技術推進論者たちの根本にあるものが見えてくるかもしれないなと考えて、この本を翻訳して、世の中に、日本の読者のために、送り出したいと思いました。

質問者4 戦前と戦後がつながっているということで、個人的な話にはなるのですが、祖父母の話をしたいと思います。わたしの祖父は戦後大阪で鉄骨屋をしていたのですが、戦前は川崎重工の技術者でした。満洲と朝鮮半島の境目にある水豊ダムのパイプラインの設計をして、現場の監督もしていたそうです。戦後は自分で会社をつくって、JRなどと仕事をしていたそうです。地元にも密着しながら、戦中の技術は残っているのだと思いました。

塚原 貴重な話をありがとうございました。おもしろいですね。大企業でなく、中小企業にも技術が脈々と残っているというお話ですね。

質問者5 3つ質問があるのですが、まずは、数値の話を。科学的想像力のファクターの一つとして、数値で表すということがありますよね。さきほどのお話では、実は出された数値はいい加減だった、ということだったと思うのですが、いくらいい加減でも、数値を出すことによって人を動かせるという側面もあると思うのです。数字をカウントすることによるアカウンタビリティーを果たした、という。政府を批判すると「数字を出せ」と言われる、それに通じるものがここから出てきたのではと感じてしまいます。その数値化とテクノクラートが結びつく、という解釈でよいでしょうか。

もう一つは、「朝鮮人」などの話です。「総力戦体制」というのは国民を総動員するという話ですが、そのなかで国民ではない人、植民地の人民をどう動員するのか。大戦末期になると朝鮮人も動員していくという話もあるのでしょうか。

第三点は、「革新官僚」が出てきますよね。わたしの思っているところでは、革新官僚やアメリカのニューディール官僚というのは、ボルシェヴィズムとナチズムを超克するのだという、かなり意図的な考え方があって、ドイツ・ソ連型のものよりも一歩先に行く、というのを意識的に試みた気がします。日本の革新官僚からそういう感じは受けますか。集産主義と同じ面が強いでしょうか。

質問者6 この本は戦後の長い時期まで視野に入っていると思うのですが、なにをどこまで射程に入れられているのか、ということをお聞きしたいです。原口忠次郎が出てきたのですが、70年代からの神戸市は土木を離れて産業構造の転換に応じた地方都市宣言というか、文化都市宣言をしますよね。震災の直後にもそれを強く打ち出して、いまもデザイン都市など、脱工業、脱土木産業的な施策を進めているのですけど、そういうところまで果たして射程に入れられるのかどうか。想像するとたくさん出てくるのですが、どこまで本は射程に入れているのでしょうか。

塚原 たくさんの質問をありがとうございます。時間がないのが、ほんとうに残念ですが、手短に、できるだけ多くの質問に答えていこうと思います。

たしかに、エビデンシャリズムといいますが、テクノクラートが出してきたのは、数字です。その数字はいい加減なものだけれども、それは官僚文書だから、たしかに数字を出そうとしています。ここで大事なのは、数字を出してくるのは、技術官僚であることです。現場の技師たちが、自分の立場を守るために、政治官僚を説得するためにそれをしている。本書では、こういうところの実相が、とても詳細に調べられていて、丁寧に、そして面白く描かれている。

現地人の動員に関しては、大東亜共栄圏に特徴的なこととして、人種主義ではあるけれども、同時に重要なことに、現地人をたくさん使うのです。そうしなければやっていけないからですね。満洲では、中間管理職に朝鮮人や台湾人が起用されます。もちろん、だからといって、日本の帝国主義は、欧米の植民地主義よりよかったなんて言う気はないのですが、野口も、朝鮮人に奨学金を出して、エンジニアとしてトレーニングしている。こういうことは、より詳細に検討されないといけないことだけは確かです。

ボルシェヴィズムを超克するという意識は、非常に強いです。強いのですが、実は、マルクス主義者自身がそれを言ったりしています。相川春喜という人は、ナチズムにはむしろ擦り寄っています。その意味では時代の制約、日本のイデオロギー的バイアスは逃れられてはいない。そしてニューディール官僚とはすこし違うところにポジショニングしています。日本の革新官僚の研究はジャニス・ミムラという人が最近詳しく書いています。優れた仕事で、彼女はアーロンにかなり近い立場です。日本の革新官僚のイデオロギー的立場は実はけっこう複雑です。ボルシェヴィズムには非常に対抗的であるのだけれども、乗っかっちゃってるとこもある、というのが第2章の相川についての分析かなと思います。まあナチもニューディーラーもボルシェビキも満州の革新官僚も、みんなテクノロジーについて、よく似たような対応をしていていた。だけど、お互い、それぞれに対抗意識があって、差異化がされている。その辺はとても重要な課題です。

この本の射程ですが、この本はあくまでも大東亜共栄圏の話をしています。1945年くらいまでが中心です。で、僕は神戸大学で教えているし、今日、来てくれている小笠原さんも栢木さんも、神戸大の関係者なんだけど、神戸市は70年代、80年代のポートアイランドを始めたころから、都市政策が変わってきています。日本の都市開発政策と満州の革新官僚や、大東亜イデオロギーの連続性に関しては、モーアには続編があって、それが先ほども話に出した『現代思想』2015年8月号の論考「「大東亜」の建設から「アジアの開発」へ――日本エンジニアリングと、ポストコロニアル/冷戦期のアジア開発についての言説」です。ODAにおける技術の使い方を論じていますが、戦中からある一貫したものがあるのではないかというのが、「技術的想像力」です。

ただ、経営の問題として、神戸市は脱産業化やデザイン・シティ、ポートピアなどでイメージを売っていくわけで、ある種の転換を迎えたのです。科学技術など重厚長大産業から軽薄短小産業に産業構造が移り変わっていくなかで、その曲がり角に、ポートピアがある。ファッションを売っていくとか、松任谷由実が歌っていたような神戸ガールのイメージを売る仕方に都市戦略が変容します。だけども、サイエンスや情報技術を使うさいなど、そういうイマジナリーには一貫したものがあるのではないかということを、歴史のなかから解きほぐしていけるのではないか。満洲にもあったし、神戸モダニティと呼べるかもしれないモダニズムにもあったのではないか、というのが、モーアを読んで、神戸の例で考えられることです。この本自体のパースペクティブは1945年までですが、それを読む意味というのは、現代まで続くコアみたいなもの――もしかしたらコアはもっと前で、ナチズムとボルシェヴィズムとニューディール政策かもしれませんが――を、日本式にミックスした、巨大な実験場があった。実験場といっては実験された人にひどく失礼ですが、巨大な現場があったということです。満州や朝鮮でトレーニングしてきたのが、原口忠次郎や岸信介や、さきほどの丹下健三などだった。そういうことまでが射程としてあると言えるかもしれません。

小笠原 僕も気になったのですが、第2章と第3章を読むと、1910年代にすでに東京帝大の土木工学教室を出て、当時東京市の技術官僚だった人たちが、「技術を管理する者は社会も管理しなくてはいけない」という言い方をしているとモーアは指摘しています。技術的なものを管理する者が、そのまま社会管理にスライドしていく発想は、とてもナチスに近いものでもあると思うのですが、まだニューディールの始まる前です。ニューディールかナチスかという比較をそのままするのは時系列的に厳しいですが、発想がどこでどう連なって枝分かれしていくのかということは、読み込むと興味深い事実関係が出てくるような気がします。直木倫太郎や大淀昇一、宮本武之輔の3人あたりがキーになるのではないでしょうか。

原口忠次郎の神戸の都市計画は当然戦後に始まるのですが、神戸市が脱産業化して、ファッション都市だモダニズムだなんだというとき、そういう出来事が起こる場所はほぼ埋立地なわけです。その埋め立て地って、北区や西区など、造成した土を海に持って行ったり、陸地を拡大したりして、そこにおしゃれな街が生まれることになるのですよね。そこで、「想像力」が具現化するひとつの現場を見ることができる。造成を司った最初の自治官僚は原口だった。その仕事は戦後直後に終わっているかもしれないけど、70年代、80年代に脱産業化を図る神戸市政の下部構造をかたちづくった、というストーリーを繋げるのが、「技術的想像力」なのかもしれません。

栢木 本書で詳しく検討されているのは1945年までの歴史です。ですが、そもそもの本書の目論見は、戦中戦後の連続性を明らかにすることにありますから、射程は戦後と言いますか、我々が生きている「現在」にまで及んでいます。実際、終章「戦後日本におけるテクノファシズムおよびテクノ帝国主義」では、冒頭に塚原先生も触れられたODAの問題や、田中角栄の「日本列島改造論」、それから水俣病をはじめ植民地で知識と資本を蓄積した企業が起こした公害問題などが扱われています。とはいえ、第5章までの分厚い記述と比べれば、素描と言いますか、いくつかのアイデアを列挙した程度の記述にとどまっています。そうしたアイデアをふくらませて、これから戦後の科学技術史をモーアがどう書き直していくのか、それがこれからの楽しみだったところで、続編となる本が期待されていたわけですが、残念ながら、著者にその仕事を求めることはもうできなくなりました。ですから、この「続き」ついては残された我々が課題として継承せねばならないものになったといえます。

さきほどITやAIの話が出ましたが、第5章のなかで私が個人的に興味を持ったのは、梅棹忠夫らの情報化社会論も総合技術、技術的想像力の戦後における展開という流れのなかで議論の俎上にのせられている点です。ここからさらに議論を延長して、たとえば、現在スマートシティ構想の名の下に実現されようとしている超管理社会の問題を考察する際、モーアが提起した「テクノファシズム」の概念は非常に有益になるのではないかと思います。

そろそろ時間となりましたので、最後に福嶋店長から一言いただいて終えたいと思うのですが、いかがでしょうか?

福嶋 ありがとうございます。人工知能などの本を最近読んだのですが、10億年先の太陽が地球を焼き尽くす時代にAIが地球を支配するかということを真剣に考えている本でした。10億年先のことはまあいいよとは思いつつ、「技術的想像力」恐るべしと思った次第です。今日はありがとうございました。

〈おわり〉

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略歴

塚原東吾(つかはら・とうご)*本書の監訳者。1961年生。東京学芸大学修士課程(化学)修了。ライデン大学医学部博士Ph.D.(医学)。現在、神戸大学大学院国際文化学研究科教授。専門は科学史、STS。編著に、『帝国日本の科学思想史』(共編、勁草書房)、『科学機器の歴史 望遠鏡と顕微鏡』(日本評論社)など。訳書に、ロー・ミンチェン『医師の社会史』(法政大学出版局)、ラジャン『バイオ・キャピタル』(青土社)など。

小笠原博毅(おがさわら・ひろき)1968年生。ロンドン大学ゴールドスミス校社会学部博士課程修了。社会学Ph.D。現在、神戸大学大学院国際文化学研究科教授。著書に、『真実を語れ、そのまったき複雑性において―スチュアート・ホールの思考』(新泉社)、『やっぱりいらない東京オリンピック』(共著、岩波ブックレット)、『セルティック・ファンダム―グラスゴーにおけるサッカー文化と人種』(せりか書房)、『サッカーの詩学と政治学』(共編、人文書院)など。

栢木清吾(かやのき・せいご)*本書の共訳者。1979年生。神戸大学総合人間科学研究科博士後期課程修了。博士(学術)。専門は移民研究、イギリス(帝国)史、カルチュラル・スタディーズ。現在、神戸大学国際文化学研究推進センター研究員。立命館大学・広島工業大学ほか非常勤講師。論文に「移民史と海事史を越境する」(『社会的分断を越境する』青弓社)、「グローバル化、移民、都市空間」(『出来事から学ぶカルチュラル・スタディーズ』ナカニシヤ出版)など。訳書に、ニケシュ・シュクラ編『よい移民―現代イギリスを生きる21人の物語』(創元社)など。


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