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【連載第210回】コインパーキングを潰して建てた「神戸三宮シアター・エートー」

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コインパーキングを潰して建てた「神戸三宮シアター・エートー」

今年はじめ、「神戸で、コインパーキングを潰して劇場を建てた本をつくっている」と、苦楽堂の石井伸介に聞いた時、ぼくは、掛け値なしに興味を持った。

まず舞台が神戸は三ノ宮駅北側の琴ノ緒町。ジュンク堂に入って最初に勤務したサンパル店から、JRの高架をくぐってすぐのところ。かつての「庭」である。

さらに、「コインパーキングを潰して」というのが気に入った。ここのところ、どこの街角にもコインパーキングが目立つ。ぼくが育った神戸市垂水区の閑静な住宅街でも、子供の頃一軒家だったところが、どんどんコインパーキングになっている。3軒おきにコインパーキングという有様だ。こんなに駐車場は要らんだろうと思い、実際に自動車は止まっていない。何ともったいないことか、もっと使い道は無いのか、と常々思っていたのだ。

その「使い道」として「劇場」を選んだ人がいる。若き日々、神戸で演劇活動に情熱を燃やしたぼくには、何とも心湧き立たせる三題噺なのである。

以下、神戸出身の脚本家菱田信也著の『芝居小屋戦記――神戸三宮シアター・エートーの奇跡と軌跡』(苦楽堂、2020年)に拠る。

ある日菱田は、小劇場演劇仲間の村上泰児から驚愕の話を聞く。村上は、チョイ役で出ていた芝居を観に来ていたある女性から、次のように声をかけられたというのだ。

“来年新しく立ち上げるその劇場で、自主企画として上演する芝居に出演しないか。劇場は4階建て、1階が観客席100席と舞台。3階には楽屋が完備され、4階には舞台と同じ広さの稽古場も設ける。もしもよければ劇場を運営するスタッフとして働きながら芝居に出ればいい。”

その女性こそ、建設中の劇場「シアター・エートー」の支配人大下順子であった。村上は、二つ返事で、「劇場事務長」として雇われた。

菱田は我が耳を疑った。新しくつくられる劇場に正社員として雇われ、そこで演劇活動を続けることができる!? 地方で、食うや食わずで演劇活動を続けてきた人間には、にわかには信じられない話である。

だが、それが本当だとしたら、このチャンスを逃すわけにはいかない。菱田は、劇場公演の企画書をいくつも作成し、村上に仲介を頼んで件の女性支配人大下順子に会う。そして、菱田もめでたく新劇場の芸術監督として採用された。

大下順子との会話の中で、菱田はこの信じられないプロジェクトの背景を知る。

劇場の運営母体は「スミレ会グループ」。神戸市内に北須磨病院、名谷病院、伊川谷病院と2つのクリニック、ほか県外に5つの病院、全国各地に多くの介護老人ホーム、特別養護老人ホーム、そして福祉専門学校に幼稚園まで擁する、総従業員数3000名弱、年商数百億円の巨大組織である。「スミレ会グループ」の総帥は、前田章理事長。90年代前半、大学病院勤務時にバブルが崩壊し、株と不動産で2億の借金を背負って失業しながら、明日にも倒れそうであった北須磨病院を立て直し、次々と手腕を発揮して組織を拡大していった、やり手の病院経営者である。前田の半生自体が、一幅のドラマである。大下順子は、その前田章の妻であった。

「平成20(2008)年にある人の紹介で、2億円で琴ノ緒町の土地を買ったんです。しかし、本社にするまで寝かせててもしゃあないからコインパーキングにしたわけです」

その土地の上に、更に2億7000万円の資金を投じ、劇場を建設する。損得勘定の上ではできないその決断は、大阪芸大でバレエを学び、のちに格闘技を習い千葉真一のJACSへの加入も考えた妻、大下順子へのプレゼントだったのである。劇場名の「エートー」は、劇団☆新感線らを輩出した大阪芸大の「A棟」に因んで名付けられた。

神戸には、かつて多くの文化施設があった

菱田は、自分が若かったころの「メセナ」の時代を思い出していた。

“1978(昭和53)年に大阪・梅田の阪急ファイブ内に開設された劇場「オレンジルーム」などはその嚆矢であり、85(昭和60)年には、「大阪ガス株式会社の遊休施設を活用し、劇場。映画館・雑貨店・ギャラリー・レストランを備えた複合文化施設として(*大阪ガス株式会社ウェブページより)扇町ミュージアムスクエアが大阪市北区に開館されています。”(『芝居小屋戦記』P38)

時代は移り、若い演劇人たちによる小劇場運動のメッカだった「オレンジルーム」も「扇町ミュージアムスクエア」も、今はもう無い。

菱田は、1983(昭和58)年、小児歯科専門医だった故・佐本進氏が「神戸の文化土壌を豊かにする」という理念のもと神戸・北野にある自宅の庭地下に自費で建設、開設した100席の小劇場劇場「シアター・ポシェット」も想起している。菱田じしん、97年(平成9)年の秋、この劇場で作品を上演したという。ぼくが所属していた劇団神戸は1983年の開館時から「シアター・ポシェット」で頻繁に公演を打たせていただいており、ぼくもまた約5年間で、10本以上の芝居に役者や演出家として関わっていたのだった。

2014年に上梓した『震災脚本家菱田シンヤ』(エピック、2014年)によると、菱田もまたぼくが退団した数年後に劇団神戸に客演したり、ぼくも大分手を入れて二度演出した劇団員のオリジナル作品の三度目の公演に出演していたりと、神戸の小演劇という狭い世界で、少し時をずらしながら、菱田とぼくの間には不思議な縁があったのだ。

前田理事長には、「神戸の文化土壌を豊かにする」という力瘤は感じられない。劇場を持つことを強く望んだのは、妻であり支配人の大下順子の方であろう。

“――理事長は劇場を作ったことについて、誰から、何と言ってもらうとうれしいですか?
前田 えっ? 誰にも、何も言うてもらわんほうがええ。”
”――奥様に「ありがとう」って言われた日はありましたか?
前田 ありがとうもなんも…。こいつが暇つぶしに作っただけやろう? そんなもん、あんた、こいつが機嫌ようおったらええやん。こいつが機嫌ようしとったら、俺も外で、機嫌よう遊べるやん。”(『芝居小屋戦記』P136-7)

これぐらいのスタンスがいいのかもしれない。やり手の経営者であるにも関わらず、劇場による収益はほとんど(まったく?)期待していない。赤字の許容範囲も考えていない。今の時代、このような感性を持つ豪放で痛快な人物でなければ、劇場経営はできないだろう。

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↑ジュンク堂書店難波店でも『芝居小屋戦記』出版記念イベントを開催。

神戸という街の変化

もう一つぼくが興味を持ったのが、「シアター・エートー」という新しい劇場が、いまあらためて神戸で船出したことである。神戸で生まれ育ったぼくには、おぼろげながらも半世紀前の神戸の記憶がある。『芝居小屋戦記』で菱田が書いているとおり、1950〜60年代の神戸は、京都や大阪のキタ、ミナミと並ぶ興行の街だった。「東の浅草」と並び称されもした新開地の歓楽街には芝居小屋や映画館が立ち並び、「北野クラブ」では売れっ子ジャズメンが毎夜演奏、現在「東急ハンズ」(今年12月に閉店予定)が建つ場所にあった巨大なキャバレー「新世紀」のステージには次々と一流芸能人が登場した。

菱田は、あくまで私見と断りながら、その空気を一変させたのは、1964年から開始された暴力団壊滅作戦による「興行と裏社会のつながり」を断ち切る動きではないか、という。何と言っても、神戸は日本最大の「反社会的勢力」山口組の根城である。暴力団壊滅作戦と共に市行政側も「クリーンでおしゃれな街・神戸」キャンペーンを繰り広げ、神戸市民の間でもまた、「今後は芸能とか興行とか、めんどくさそうなことはよその街に任せた!」という気運が高まったのではないか、というのである。ハーバーランドに「映画上陸の地」を持つ神戸も、1980年頃には、「文化不毛の地」とさえ囁かれていた。

実家が港湾関係の仕事を生業としていた菱田が、神戸の凋落を神戸港の存在感の下落と結びつけているのは、実感としてよく分かる。神戸の国際性は、観光地としての北野町によりも外国人船員が日常的に徘徊する国鉄高架下商店街にあったと、ぼくも思うからだ。店の、神戸のおばちゃんは、物凄いブロークン・イングリッシュで見事に応対していた。港としての存在感や文化の衰退とともに人口減少の途を辿り、川崎市に抜かれて「七大都市」からも滑り落ちた。

しかし、何が幸いするかは分からない。災い転じて福、人口減少と共に、家賃も下落したのだ。

『ローカルエコノミーのつくり方――ミッドサイズの都市から変わる仕事と経済のしくみ)』(「神戸から顔の見える経済を作る会」学芸出版社、2019年)の著者のひとり小泉寛明は、13~4年前に北野町のサドワニマンションに引っ越してきた。その小泉が言う。

“今もね、何人かちょっと替わった、文筆系の人とか、作家、絵え描く人とか住んではりますけど。新幹線の駅も近いし、東京行くの、めっちゃ便利。東日本大震災のあとに移住してきてるひとけっこう多くて。東京でふつうに75平米借りる家賃と比べても、新神戸や北野のあたりは、事務所借りても5万円、事務所と家と一体化して借りても20万くらいで、面積も倍になっていいわ、みたいな感じで引越してきてる人が多かった。”(『芝居小屋戦記』P 187)

山の麓につくられた新神戸駅は、三宮から地下鉄に一駅分乗らねばならず、神戸市民にとっては不便この上ないが、北野町からは歩いて行ける。しばしば東京に出向かねばならない人には、北野町に住むという選択肢には、確かに利便性がある。北野町からなら、神戸の中心的繁華街三宮も徒歩圏内である。その便利な場所にかなり安く住めるというのだ。

つくり手が「ちゃんと生活できる場所」でこそ、文化の未来は拓かれる

菱田もまた、言う。

“平野の湊山温泉界隈には、最近美術家とか好んで住み出しているみたいですね。面白いなと思うのは、神戸ってなんかそういう感じになってきてんのかなって。美術家もいれば写真家もいれば食のアーティストもいる。ローカル・エコノミーの感覚を持ってる人たちがどんどん増えていってる感覚がぼくはちょっとしてて”

”家賃も安いし、神戸はそういう人らがちゃんと生活できる場所になっている気がしますよ”と小泉は答えた。(『芝居小屋戦記』P186)

平野の湊山温泉界隈からなら、三宮まで自転車で通える。さまざまなジャンルのアーティストが「住む」ことが出来る場の存在は、さまざまなジャンルのアートが成立する絶対条件である。立派な小屋があっても、そこで躍動する演劇人がいなければ、それは無用の長物、宝の持ち腐れだ。

以前、神戸市の職員から、神戸を「本の街」にする施策について相談を受けたことがある。惜しまれながら閉店した海文堂書店を市の援助で復活させるという案も持っていたほど本好き、書店好きである神戸市長の意を受けての相談であったと思う。ぼくの答えは、「迂遠に聞こえるかもしれないが、住む場所としての神戸の魅了をアピールして、作家を呼び寄せることから始めてはいかがでしょう?」というものだった。

ぼくがその頃住吉川の畔の旧谷崎潤一郎邸のすぐそばに住んでいたからかもしれないし、子どもの頃に近くに筒井康隆が住んでいたこともそのような提案の理由かもしれない。いずれにせよ兎に角、神戸は住みやすい土地である。極端な寒暖差もないし、台風などの災害も多くはない。山も海も近く、交通の便もよい。先述の小泉に、東京から来たクリエイターも言ったという。「東急ハンズと山に歩いて行けるのは珍しい街だ」(同P187)。

今や原稿のやり取りも、ネット上で完結する時代である。出版社が東京に集中しているからといって、作家も皆東京に住んでいる必要は無い。近くに作家が住んでいて、たまに図書館などで講演会など開けば、関心を持ってくれる人も増え、本を読む層も少しずつ広がっていくのではないか、というのが提案の趣旨だった。

政治・経済・行政・文化、すべての分野での東京一極集中の弊害が叫ばれて久しい。コロナ禍は、その弊害を更に鮮明にした。さまざまなジャンルで、さまざまな工夫と英断で、禍を転じて未来を拓く道を探って欲しいと思う。


↑丸善ジュンク堂『書標』9月号「著者が語る」コーナーに菱田信也さんが登場。

つづく

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福嶋 聡 (ふくしま ・あきら)

1959年、兵庫県生まれ。京都大学文学部哲学科卒業。1982年ジュンク堂書店入社。神戸店(6年)、京都店(10年)、仙台店(店長)、池袋本店(副店長) 、大阪本店(店長)を経て、2009年7月より難波店店長。

1975年から1987年まで、劇団神戸にて俳優・演出家として活躍。1988年から2000年まで、神戸市高等学校演劇研究会秋期コンクールの講師を勤める。日本出版学会会員。 著書:『書店人の仕事』(三一書房、1991年)、『書店人の心』(三一書房、1997年)、『劇場としての書店』(新評論、2002年) 『希望の書店論』(人文書院、2007年)、『紙の本は、滅びない』(ポプラ新書、2014年)、 『書店と民主主義』(人文書院、2016年)、『書物の時間 書店店長の想いと行動 特定非営利活動法人共同保存図書館・多摩 第25回多摩デポ講座(2016・2・27)より (多摩デポブックレット)』(共同保存図書館・多摩)

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