答えばっか追いかけてらぁ

先日、倉庫の片付けをしていたらなんとも懐かしいCDが出てきた。
TSUTAYAでレンタルしたCDを、安く買ったROMに「焼いた」ものだ。もう15年近く前のもの。

当時の私が好きだった音楽。
よく一緒に夜遊びしたあの子が好きだった音楽。
好きでもないのにカラオケで盛り上がるからと覚えた音楽。

「流行」というよりは「スキ」がたくさん詰まっていた。

「Rotterdam」「DMXほか」「B'z」「安室奈美恵」など、大雑把すぎるジャンルやアーティスト名が、油性マジックで直接書き込まれている。よく聴くものは、ご丁寧に全ての曲のタイトルが限られた円の中にびっしりと書き込まれて、ぱっと見 真っ黒になっていた。

懐かしさに震えながら一枚一枚見ていると、「jimaちゃんへ♡」とだけ書かれたものが現れた。
なんだろう、誰からもらったものだろう、何が入っていたっけ?と思いながらプレーヤーに突っ込む。流れてきたのは湘南乃風の「黄金魂」だった。

ああ、わかった、これはA子だ。
ジャパニーズレゲエが大好きで、MINMIやPUSHIMをよく聴いていたA子。
河川敷でFIRE-Bを爆音で流していたらパトカーが来て「お前ら、そのペットボトルでよくないモノ吸ってるな?」と決めつけられて、それが誤解だとわかってからも高圧的に説教されてマジでムカついた、というエピソードを会う人会う人みんなに話していたA子。

深夜のカラオケや居酒屋へ一緒に行った記憶があるけれど、昼間に遊んだ覚えがないということは、「そういう友達」だったのだろうなと思う。

「これ聴いてみて」とA子に渡された気が、しないでも、ない・・・。
大人になってからの記憶なのに、頭の奥の棚に押し込められてしまうものがある。よほど強烈だったり思い入れがなければ、つい最近の出来事でも奥の棚へ行ってしまうから、つまりこのCDは「そういうモノ」なのだろう。
A子の存在を懐かしく思い出しながら、それを聴いてみる。歌詞を検索して読んでみる。
A子はあの頃こんなことを考えていたのではないか、と、勝手に想像を巡らせながら5分33秒を過ごした。


この曲のためだけにCDを作ったA子。それを私にプレゼントしてくれたA子。
持ち物はハローキティで揃えていて、柄物の服が好きで、ミニスカートしか履かなかった。イケメン好きで、話す声はやたら大きくて、そうだ、笑い方は明石家さんまみたいだった。
気が強く、人の意見はほぼ聞かず、どちらかといえばガサツな性格なのにやたらとモテた。ふとした仕草がとても女らしくて、色っぽかった。自分勝手にものを言い、わがままに振る舞ったかと思えば良い塩梅で相手への気遣いを見せる。
そんな、うらやましいくらい、「ずるい女」だった。

いつからか姿を見なくなった。というより、気づいたらいなくなっていた。
数人に、A子のことを聞いた気がする。「引っ越したらしいよ」という誰かの話を信じて、私はそれ以上何もしなかった気がする。
「いけないお薬やってたんだって」とか、「男に騙されて借金がすごいらしいよ」とか、真偽の分からない噂が数回立ってすぐ消えた・・・ような気がする。

私はその頃、過干渉の母と、介護が必要になって数年目の祖母と、3人で実家に住んでいた。
仕事を終え、帰宅するともう外へは出られない。理由はない、「我が家はそういう決まり」だったからだ。
電波も届かない山奥なので、帰宅後は友人とのコミュニケーションもとれなかった。
毎日、家に帰りたくなかった。帰ったら「家での私」にならなければならない。世の中の汚い部分など何も知らず、仕事は順調で、人間関係にも恵まれていて、酒の味など知らず、夜遊びなどしたことがなく、厳格な親に会わせられるようなしっかりした友人しかおらず、勤勉で素直で従順な「家での私」。

夜遊びをするために、「こういう理由があって仕方なく姉の家に泊まることになったんだ」と見え透いた嘘を何度もついていた。週末が来るのがいつも待ち遠しかった。心の中でいつも「早く自由になりたい」と思っていた。

どうしようもない「劣等生」だった学生時代でさえ、親の前では「家での私」を演じていた。私なりに一生懸命やったけどダメだったんだ、という顔をしていた。
ハタチを過ぎてなお、不良になりきる勇気もなく、優等生になろうという気概もなく、中途半端な人格で毎日を過ごしていた。

そんな私とは真逆で、A子はとにかく奔放だった。好きなときに、好きなことを、好きな人間と好きなだけやる。誰かに「それは普通にダメでしょ」と言われると「は?普通とか知らんし」と返すような子だった。
A子はいつも違う子と遊んでいた。キティ柄のハンカチで目頭についたマスカラを拭うたびに見せつけられた、細くてきれいな指先。
それを思い出すと当時の私の芋臭さが記憶の中で際立つ気がして、むず痒い。

私はA子が苦手だった。嫌いじゃないけど、自分からA子を遊びに誘うことはしなかったと思う。
先のことなんて何も考えていない。自分さえよければいいような物言いをする。相手の気持ちなんてまるで尊重しないし、自分の意見が通るまでゴネるし、わがままで、甘え上手で、気が強くて、ガサツで、金遣いが荒くて、誰にも心を許さず、他人を信用しないくせにいつも誰かと居たがる、ずるい女。

A子は「中学生の頃からなんやけどね。たまに家に帰ると、テーブルの上に一万円札が何枚か置かれてるんよ。そんで、お金だけ取ってまたすぐ出て行くんやけど、その時にお兄ちゃんと鉢合わせると、お兄ちゃんにボコボコに殴られるんよ。やけん家には帰りたくない」と言っていた。
世間知らずだった私は「そんなドラマのような家庭があるんだ」と思った。そしてA子にちょっぴり同情した。「この子は自分が多数派にないことを知っているのだ」と思ったら、ほんの少しだけ切なくなった。
でも、助けてあげたいとか、力になりたいとか、そんなことは思わなかった。私たちはもう世間では大人として扱われ、お金だって働けば大なり小なり稼げる年齢で、最後に会ったのがいつだったか思い出せないような両親がたまに置いていく数万円を頼りにして生きていかなくてもいいのに、と思っていた。
「逃げられるのに逃げないんだ」
そんなことを思いながら、私はA子と浅い付き合いをしていた。

A子を見なくなってから今日までに、彼女を思い出したことが一度だけあった。
18歳の頃、はじめて勤めた仕事を辞め、傷心のまま 県外にいる姉を訪ねて旅に出たことを思い出した時だ。
ひとつのことを思い出しながら別のことを思い出すという、妙な体験だった。

傷心旅行の日程を半分も消費しないうちに、実家の母からの電話で帰ることになった。私の再就職先について、親戚から良い話をもらったからすぐに帰ってきなさいという内容の電話だった。
断る勇気が出なかった。「イヤだ」と言えなかった。私は新幹線の中で静かに泣いた。また母の過干渉の犠牲になるのだろうか。これからもずっと親族にいいように使われ続けるのだろうか。どうして私は一人で生きていく決断ができないのだろうか。
博多駅で新幹線を乗り換える時、このままどこかへ消えてしまいたいと思った。でも、そうしたら更に苦しむだろうとも思った。

父を失ってから、私たち姉妹には母しかいなかった。母にとっても、私たちの存在だけが、つらい日々を生きる糧だったと思う。
その関係性が生む苦しみを断ち切れなかった。断ち切ったらどうなるかと考えるだけで苦しかった。私はきっと、母に依存している。これをなくしたら自分を許せずにまた苦しみが増える。

こんな人生、不満だらけなのに、憎んでいるのに、変わりたいのに・・・

「逃げられるのに逃げないんだ」。
あれはA子に対してだけでなく、自分に対しても思っていた言葉だった。
A子がうらやましかった。それと同時に、自分を見ているようで辛かったのだ。

私もA子も、自分につながった鎖を握って離さないでいた。最低な家庭も、毎晩遊ぶだけのつまらない人間関係も、「他に何もない自分」には必要な荷物だった。
苦しくて、憎くて、疎ましくて、黒い気持ちでリュックはパンパンなのに、それでも捨てようとはしなかった。


「何か」になろうとしていた時期があった。
「正解」するまでやり続けなければと思っていた時期があった。
夢を見て、勝手に疲れて、勝手にやさぐれていた時期があった。
誰もわかってくれない、と思いながら、誰にも伝えなかった。ただ深夜の居酒屋で、ファミレスで、カラオケで、世の中が眠っている時間を賑やかに過ごして全てをごまかしていた。
A子が居なくなってからも私は変わらなかったし、変われなかった。A子はもしかしたら、変わるためにこの町から居なくなったのかも知れないのに。


「黄金魂」の歌詞に「自分らしく生きているのか? 答えばっか追いかけて死ぬのか?」という一文があった。

A子、CDありがとう。
私はまだ、存在しない「答え」ばっかり追いかけているかもしれない。

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