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題名を「人生四百五十年の思い出話」とした理由(その1)
人は亡くなると基本的に“あの世”に行きますが、希に“あの世”に行かずに転生する方がいます。
この輪廻転生に関しては、後に触れさせていただくこととして、題名を「人生四百五十年の思い出話」としたのは、私が“あの世”と呼ばれる世界に行かずに今生に転生しているからなのです。今回はそのことについて少しお話をさせていただこうと思います。
私のことをご存知の方は、既に知っている方も多いと思うのですが、私の前世は“雨蛙”でした。それを私が最初に知ったのは、初めて高野山に連れて行かれた時に、私を呼んだ阿闍梨(老師)さまによって自分の前世をみせられたからなのです。
それでは、なぜ“雨蛙”になったのか? というと、その前の過去生から引き継いでいる人生が影響していました。
私が“雨蛙”となる前の人生は、お寺の門前に置き去りにされた“捨て子”から始まっています。
その捨てられた私を拾ってくれたご住職は、とてもお優しい方でして、捨てられていた私を見殺しには出来ず、しかし助けてはみたものの、出家している身なので子育てをした経験は当然ありませんでした。
そこで村の人に相談をし、まだお乳の出る母親がいる家庭を選び、僧侶としての修行が始められる6歳ぐらいまで育ててもらいました。その間、そのご住職は足繁くその家を訪ね、私のことを我が子のように可愛がってくれたのです。
そのときのご住職の教育姿勢というのは、どんなに幼い子どもであっても、一人の人間として扱い、少し前からビジネスマナーの1つとされている「ほう・れん・そう の お・ひ・た・し」を地で行くモノでした。因みに「ほう・れん・そう」というのは、報告・連絡・相談で、「お・ひ・た・し」というのは、怒らない・否定しない・(困ったことがあれば)助ける・指示をするというものです。
私の幼少期は、このご住職や育てていただいた家庭の温かさに包まれて、とても幸せだったように思います。それだからこそ、僧侶の修行が始まってからは「老師の名を汚してはいけない」「育ててくださった方々の恩を忘れてはいけない」という強い思いがあり、一生懸命に修行に励んだのです。その甲斐あって、普通の人よりも早い段階で阿闍梨と呼ばれる地位に就け、老師からお寺を任されるようになりました。
実は、ここからが問題だったのです。
私は老師の教えに従い、少しでも人の役に立つように、困っている人がいれば少しでも楽になるようという思いで、一生懸命に仏の道を歩み人々の救いになればと手助けをしていたつもりでした。しかし、今思えばそこに“魔が差した”のです。
その人のためを思って、いくら一生懸命に頑張っても、その場では良くなったようにみえても、半年もしないうちに、また同じような問題を抱えてやって来るのです。その方々は日々の生活に困っているような人では無く、どちらかと言えば裕福な方々が多いのです。それを見るに付け、「私は何をやっているのだろう。本当にこの人達は助けるのに値するのだろうか?」という疑問に苛まれるようになっていきました。
これは完全な“思い上がり”でしかないのですが、そのときはそれに気付かず、行き着いた考えというのが、「この方々は今が楽になれば良いんだろう。お酒や麻薬を使ってでも感覚を麻痺させ、酔ったような陶酔感にしたることができ、苦しいと思う今を忘れることの出来る場所と時間を与えてあげれば良いんだろう」という思いでした。
その結果、手を出したのがアヘンです。今でいう新興宗教の教祖のような立ち位置で信者を集め、有り難い?説法をし、最後に炊き込める香にアヘンを混ぜ、「仏に祈り、仏に身を任せなさい」と言って障子を閉め、アヘンの中毒患者を作っていったのです。
もちろん、このような悪行が長く続くわけも無く、密告されてアヘンを仕入れていた薬師問屋と共にあえなく“御用”となって、最後は“打ち首”で一生を終えることになったのです。ただし、一般とは違う意味で簡単には死なせてもらえなかったのです。
つづく
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