ノッカノッカ、遊びの追求、便利の追求

最近「ノッカノッカ」にハマっている。

以前からYoutubeで知ってはいたがアプリで出たのを見つけて始めてみたところハマってしまった。

少しだけネットでコツを調べたらパターンの少なさで理解しやすいため手軽にプレイできる。することもないからやり続けていると大分レートも上がってしまった。

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どれくらいのプレイ人口がいるのかわからないが始めて3日ほどで28位までいくくらいにはやり込んだ。

なぜやり込んでしまうのだろうか。

ノッカノッカはいわばパズルのようなもので、目の前の問題を上手く対処できた楽しみがある。そこに加えて対人であるから、相手を出し抜く面白さがある。

それが5×6のマスで5つの駒だけを扱うシンプルなテーブルゲームである取っつきやすさで享受できるという点がこのゲームの強さだ。

面白さとしては達成感と競争であり、主にドーパミンによる報酬系に起因するものだ。

報酬系は生存の役に立つ。原始時代で食料を取る意欲が湧かなければ生き残れない。それが本来のあり方とは異なるゲームでも発生する。

この点で、ゲームはしばしば生産性がないと言われる。子どもがゲームばかりしていると叱られる。食料の獲得に一切役立たないからだ。

しかしある程度発展した文明では、感情の豊かさは食料の獲得に役立ったりする。実際、ゲームは仕事として成立しているし、あらゆるエンターテインメントは生産性がないのにも関わらず人類の歴史に根付いて廃れない。

現代ではAIの登場により、むしろ感情の豊かさこそが人間を人間たらしめるものであり尊いものであるとされる。食料(と交換できる金銭)を獲得するのはもはや人間の役割ではなくなったとき、自らの存在意義を与えてくれるのが感情だ、と。

感情の豊かさというとき、果たしてどのような感情が好ましいのか。何のために生きているかと問われると、しばしば幸せになるためと答える。ならば幸せになれる感情に支配される時間が長い方が好ましいというのは非常に単純だが、一つの答えとして成立している。

遊びという報酬獲得の擬似ゲームによってただ享楽的に生きることが人間を人間たらしめるあり方なのだろうか。

何か間違っている気がする。しかし、他人に迷惑はかけなければ何一つ罪となるようなこともしていない。それでも生命の尊厳が失われている気がする。感情を持った肉塊になった気がする。

便利とは楽だ。肉体的にも、精神的にも、人間は楽な方を好む。人生は楽になる方向に向かっていくものといっても過言ではない。しかし行き過ぎた便利は人間を人間ではなくしてしまう。

現代では、まだまだ便利は成長していくだろう。それと同時にその終着点も近い。これからの社会が便利が終着したディストピアで肉塊を育てるためのものになるか、便利の追求に疑問を呈するようになるかはまだわからない。

人間は楽しい方がいい。機械的に働くだけの存在でもない。現代では、便利を追求しようと人間は機械になっているように見える。その先は、単なる肉塊だ。人間が人間として生きられる社会は果たして実現されるのだろうか。

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