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父が危篤に?一方事業はどうなった?#15

絶賛自己破産申請中です。

いつも記事を見ていただきありがとうございます。

最近、転職したばかりの仕事が忙しく、覚えることいっぱいで、頭がパンクしそうな毎日を送っています。

何に対しても、全力投球で!

これは私のモットーですが、適度に気を抜くことを未だにできていないのは、私の悪いところでもあるでしょうね。

仕事のできる人間は、「適度に力も抜いて、仕事をやっている」印象がありますので、わたしも見習いたいと思う今日この頃です。

さて、今日の記事は、「父の危篤状態だったときの話と、自身の事業の話」をしていきます。

人は亡くなる1週間前から静かになります

父が再入院をして、間もないころの話です。

私は自分の事業の傍ら、毎日、病院に行っては、父に会いに行ってました。
顔を合わすと、そんなに喋る気力がなくとも、「お?来たか?」みたいな感じで、少しばかり会話を交わしていました。

でも、人は弱ると、日に日に元気がなくなり、いつの間にか、「寝顔しか」みなくなる日が増えていくわけです。

ある日を境に、毎日病院に行っても、父はずっと目を閉じ、ただ寝ているだけ。看護師が持ってきた食事も、全然手がついていないのです。

話すことはできないけど、ただ横でずっと父を見て、「今、どんな夢を見ているのかな」と思う自分がいたわけです。

それがとうとう1週間も続きました。

起きる気配もなければ、食事もとる気配もない。

このとき、「もしかして、父も最期を迎えているのかな」と頭の隅っこに決して望んではいないことを思い浮かべる自分がいました。

早朝5時頃、病院から着電が。

事業をやっていたころは、夜型でしたので、いつも寝るのは、決まって明け方でした。

その日も、朝の5時頃、床につこうとすると、見知らぬ電話番号から着信がありました。

恐る恐るとってみると、「〇〇病院です。お父様が呼吸が停止しています。すぐ病院まで来ていただけませんか?」と、私と、母のスマホに連続して電話がありました。

私はまだ就寝中の母を起こし、すぐさま、車で病院に向かいました。

すると、看護師数名に囲まれた父が、穏やかな顔をして、眠っていました。
その後、医師が来て、「ご臨終です。。」と言われました。

享年65歳でした。

まだ早すぎる死。

これからやっと仕事から解放されて、年金ももらい、暮らしていくはずだったのに。。

でも、その一方で、毎日酒を浴びるほど喰らう父の姿を思い出しました。

父は、「好きなお酒を好きなだけ飲んで、結果、亡くなりました」
が、「それが本当に父にとって良い人生だったのか?」「後悔はないのか?」そのことだけ、考えていました。

まあ、若造の私がどれだけ考えても分からないし、父が良いと思ってしたことであるので、きっと後悔はないんだろうと思うようにしました。

その足で葬儀会社へ行き、親戚とも連絡を取る

人が亡くなった瞬間、急激にあわただしくなるものです。

まず、

  • 葬儀会社とコンタクト、通夜や葬儀の日取りを決める。

  • 親戚に亡くなったことを知らせる。

これらをこなし、あっという間に、通夜当日を迎えます。

私の父は兄弟が多く、また私の母も兄弟が多いため、たくさんの人が集まりました。

私は息子として、人生初の喪主を経験しましたが、これだけやることがたくさんあるものなのだなと、たくさん経験をさせていただくことができました。

火葬場で最後のお別れ

2日目の葬儀も、朝からあわただしく、朝早く準備して、葬儀場へ向かいました。

お坊さんが来て、お経を唱え、葬儀に列席してくれた方が、父に最期のお別れの挨拶をしてくれました。

そして、これまた人生初の火葬場まで向かう際の車にも乗りました。
後で知ったことですが、「決まった速度」で火葬場まで向かうらしいですね。

父の遺影を両手に、火葬場まで向かうときは、「本当にここで最期のお別れが近づいているのだな」という実感がしました。

火葬場へ到着。
そして、後方から着いていたバスも続いて到着。

皆で車を降りた後、火葬炉まで向かいます。
向かった後、手続きを済まし、火葬炉で父の遺体を焼却するまで3時間ほどかかると言われ、また葬儀をした建物まで引き返すことになりました。

火葬炉に入ったときの父の表情は一生忘れることはありませんが、最期の最期まで穏やかな顔をしていたなという印象でした。

再度、火葬場へお骨拾いへ

時間が経過し、再度、一同で、お骨拾いのため、火葬場へ向かいました。
火葬炉から出てきた父のお骨は、「細く、ところどころ、黒い粉交じり」でした。

後から聞いた話だと、お腹の辺りに黒い粉が混ざっていると、その部分は、「投薬された証拠」であると教わりました。(本当かどうかはわかりませんが)

皆でお骨を骨壺に入れて、私が持って、また葬儀場まで向かいました。

あれだけ太っていた父が、病気で細くなり、そして今はその姿なく、手元にある骨壺に入っている姿を見ると、再び、涙が止まらなくなりました。

事業は継続中。合間に作業をこなす

通夜や葬儀の合間も、ネットでは商品は売れていきました。

ただ発送するにも、自分ですべてこなさないといけないわけですよね。ですので、合間合間に家に帰っては、梱包作業をこなし、また葬儀場まで戻るという忙しい日々をこなしていました。

売れてうれしいはずですが、父の葬儀と、大部分が赤字で販売しているものが、売れ続けているので、正直、嬉しさはみじんもありませんでした。

儲かっていないのに、このまま販売続ける意味があるのか?

自問自答する日々は、日に日に増していくわけです。

以上です。

今日の記事は、いかがでしたでしょうか。

「絶賛自己破産申請中」というネームで、記事を書いているのだから、その関係した記事を皆さんは読みたがっているということは承知しているのですが、

やはり、「負債を抱えたきっかけは、自身の病気と、父の介護で無収入になったことによる、無謀な起業をしたこと

なので、どうしても、父の話をここでしないわけにはいかなかったのです。

だけど、並行して、事業もこなしている自分の姿もあるので、リアルにお伝えするには、はしょるわけにもいきません。

故に、文章も長くなってしまい、申し訳ありません。

これからも、「正しいお金の知識を身に着けて、自分みたいになるなよ」という情報を発信していきますので、よろしければ、フォローをおねがいします。

次回は、「事業も自分の身体もうそろそろ限界かも。。」というタイトルで、記事を書いていきます。

では!


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