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沼の底のバカボンのパパに会いに行こう。

ここ数日、文章を書けずにいた。画面を開いては数文字書いて、下書き保存、下書き保存、下書き保存、下書き保存…。下書き保存の山を積み上げた。
書きたい事はあるような気がするのに筆(指?)が進まない。少し進めると、違うこれじゃないそうじゃないとどこからか声が聞こえる気がする。

私がこんな事を書いて何になるのだ。何の役にも立たないだろう。ただの自己満足をまき散らしてる公害じゃないのか。そんな声まで聞こえてくる。
ああ、また始まった。自分がいかに駄目で役立たずで薄っぺらい世界のゴミであるかという話だ。この沼には幾度となくはまっているから分かる。親から何度もされている説教を聞き流すような気持ちで、自分の声を聞いている。流れるプールに流されるようにただ身を任せている。

言わせたいように言わせておけばいいのだ。そのうち飽きて黙る。何事も続けるのには体力がいる。何かを責めたりダメ出ししたりするのも、いつまでもは続かない。そんなにダメな自分が嫌なら、思う存分責めたらいい。疲れるまで責めたらいい、と内なる自分を見つめる。

まるでイヤイヤ期の子どもだ。何を差し出しても何を提案しても、とにかく何もかもがイヤなのだ。私は一応母親なので、イヤイヤ期の子どもの扱いを少しは知っている。

何も言わずにただただ「そうなんだね。」と話を聞くしかない。こういう時の子どもは、抱きしめることさえも許してくれない。湧き上がる衝動がおさまるまでただ待つ。暴れたいだけ暴れるのをただ側で見つめる。どんなあなたも否定しない。私は側にいるよ。という気持ちを込めて見つめる。


そんなイヤイヤ期な自分を見つめる。暴れたいだけ暴れたらいい。好きなだけ吐いたらいい。どんなに暴れて汚くて常識はずれで狂っていても、ただずっと側にいる。それだけは死ぬまで出来る。


一生そばにいるから、一生そばにいて~~♪という菅田将暉の歌声が聞こえてくる。
菅田将暉は好きだけど、誰か他者に対して「一生そばにいて」だなんて思えないし気持ち悪いと思ってしまう。夫や子どもに対してもそう思わない。私のことを嫌いになったら仕方ないと思う。無理やり一生そばにいてくれるな。

ずっと一緒にいるのが素敵とか永遠の愛が素晴らしいとか、それが全てだなんて思うなよと毒づく自分がいる。

刹那に宿る友情や愛もある。永遠の愛とはまた違う愛しさと切なさがある、それも大切にしたいと思う。



今この記事を書いているということは、私はイヤイヤ沼から抜け出したということだ。沼から上がった私はシャワーを浴びてスッキリしている。やりたかったのに手を付けずに投げ出したことを進めている。あんなに書けなかった文章を今書いている。これでいいのだ、と思う。


自分の中に飼っているアニメキャラや著名人が何人かいる。(みんな飼ってると思うのだけど、どうだろう??)
沼の底まで行くと、バカボンのパパがサッと現れてくれる。これでいいのだ、賛成の反対なのだ。と感情の読めないあの豆粒みたいな瞳で言ってくる。
なんかよく分からないけれど、そうかこれでいいのかと思わせてくれる説得力は時代を超えて健在だ。

ありがとう、バカボンのパパ。名前もろくに知らないあなたに何度助けられたことか…。豆粒みたいな目とか言ってごめん…。


沼にはまるのも、これでいいのだの一部だと思う。ずぶずぶに浸かってしまおう。そうしたい自分がいるのを認めてしまおう。真っ黒に闇の一部になりたい自分がいるのを。

人間として生きる醍醐味は、内なる闇を抱きしめてからが本番じゃないか。


読んでくれてありがとう♡ 燃え尽きて死ぬまでの燃費代にします🙏