『昭和芸人の遺言』について ~浅草、東洋館のフォークロア~#0
これから連載するインタビューは2023年4月7日(金)同5月17日(水)の2日間にわたって行われたものを読みやすいように整理をして書いたものです。全3~4回を予定しております。
インタビューをさせて頂いたのは大瀬うたじ師匠です。博識なうたじ師匠ならではですが、とにかく話が横道にそれまくる。師匠の若手時代の話を聞いていたはずがいつの間にか浅草の演芸史に残る貴重な話になっていたり、はたまた某有名落語家さんのゴシップになっていたり。更にその横道からまた別の横道に逸れて元の道がわからなくなる。物語の中にまた物語が始まる、アラビアンナイト「千夜一夜物語」のようなインタビューとなりました。
聞いている分には大変面白いのですが、これを文章で伝えようと思うとややこしく、今まで整理をすることを怠っておりました。
2024年7月6日(土)、うたじ師匠が脳幹出血のため逝去なされました。本当にお元気な師匠で、9月には東洋館で主催の会を開く予定で精力的に活動されていました。私もその会に参加させて頂くはずでした。
こちらの連載は『昭和芸人の遺言』としていますが、師匠が生きている間に公開する予定でした。まさかうたじ師匠がインタビューから約1年でお亡くなりになるとは思ってもいなかったのです。
「またわからないことがあったらうたじ師匠だったらいつでも教えてくれるだろう」と思っていたのですが残念ながらうたじ師匠からお話を聞くことはもうかないません。日常に忙殺された結果、貴重な知識を学び損ねてしまいました。
私が漫才協会に入ったのは約5年前。コロナでパンデミックが起こる前年の夏から入りました。そこから今までに亡くなった師匠方は十数人にのぼります。ひどい時には毎月訃報のメールが届くことがありました。
若手芸人のライブと東洋館の寄席の大きな違いは「不意に観た舞台が師匠の最後の舞台の可能性がある」ということです。もちろん若手芸人のライブでも起こり得ることではありますが「死」によって二度とその芸人さんの舞台を生で観ることが出来なくなるんですね。
私が覚えているのは岸野猛師匠の最後の舞台です。舞台に立っても耳がほとんど聞こえず、言葉もかなりあやふや。それでも時間はきっちり守られる師匠が10分の持ち時間のところを15分やられました。
「あれ?珍しいな」と思っていたところ次の月にお亡くなりになられていました。出てきた瞬間に客席を「ギョッ」とさせる強い力を持った師匠の芸がもう二度と観られないと思うと大変寂しい思いがしたものです。
「耳も聞こえず、お客様の笑い声も聞こえない中で師匠は一体何をやりがいとして舞台に立たれていたのか」そんなことを聞きたかったですが、もうその答えを聞くことは出来ません。
そうやって1人ずつ師匠が亡くなっていき、少しずつ東洋館の風景も変わってきました。その時に「師匠たちが東洋館の風景を作っていたんだ」ということに気が付きました。1人の師匠が亡くなることは1つの文化が失われるということだったんです。
変りゆくのは世の常。しかし、東洋館にいる師匠達が今までどこから来て、なにを求めて舞台に立ち続け、お客様を笑わせてきたのかが記録として残ることはほぼありません。
有名な師匠ならたくさん記録は残ると思うんです。古い言い方ですが浅草の寄席の歴史のA面は残るんですが、B面はなかなか調べても出て来ません。
なら少しでもいいからB面の方を残そうじゃないかと考えたのがインタビューをさせて頂いた発端となります。ひたすら数十年舞台に立ち続けた師匠たちの歴史と文化と魂を残したい。言うならば東洋館に立つ芸人の文化を探求する、東洋館のフォークロアというところでしょうか。
書く方の思いはこういう思いですが気楽に読んで頂ければと思います。なんせ芸人に話を聞いているのでなにが真実か全くわかりません。冗談を生業にして生きてきた人達ですから過去も冗談で上塗りされています。全て話半分で読んで頂ければちょうどいいかなと思います。いや、八割ぐらいは冗談として考えた方がいいかもしれません。話二割で読んでください。
それでは、『昭和芸人の遺言』を始めます。
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