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Fictitious

最近文章を書けていなかったので、久しぶりに書こうと思う。
文章を書くことは、私にとって一つの息抜きであると同時に、自己実現欲求を満たすための手段でもある。
このnoteは、"じきまる。"としてではなく、一人の人間として書いたつもりである。
(なので不快に思ってしまいそうな方やガチレスしちゃいそうな方は、ここでそっと閉じてください。)


唐突だが、これを読んでいるあなたにとって、”じきまる。”とはどんな人物だろうか。
ポートレートモデルとしての私。撮影会代表としての私。
仕事相手として?友達として?____
色んな”じきまる。”像があるに違いない。(ないかもしれないけど)

いずれにしても、人はある人のことを、どこか理想の人物像として見てしまうところがあると思う。

私にとって、”じきまる。”とは、自分の自己実現欲求を満たすための一つの手段であり、ゲームのプレイヤーとか分身みたいなものでもあり、自分自身とは切り離して考えている。
辛いことも、嬉しいことも、本当の私では少し勇気が出ないことも、失敗が怖いことも、全部ぜんぶ自分の身代わりとなって経験してくれる存在なのだ。
目一杯のビッグマウスも、大胆不敵な行動だって。

すなわち、皆から見えている”じきまる。”という存在は、私自身の内面的コンプレックスと理想が築き上げた、架空の人物に過ぎないのである。

そんなような位置づけでこれまで”じきまる。”をやってきたわけだが。
最近、どこまでが”じきまる。”で、どこまでが本当の自分なのか、分からなくなってしまう事があった。

それだけでなく、周りからの期待とか、評判とか、結果とか、そんなものを必要以上に意識してしまって。自分は常に強くいなきゃいけない、「お手本」でいなきゃいけない、これをすると皆に迷惑がかかるかもしれない、ダメな影響を与えてしまうかもしれない。
いつしかそんなことばかりを気にしてしまい、何もできないような気分になってしまった。(「周りのことなどお構いなし」だった数年前の自分からすると、これはこれである意味成長なのかもしれないが。)

何が本当に自分の実現したい事、したかった事なのか迷子になり、
無意識のうちに、皆が作り上げる理想の”じきまる。”でいなくちゃいけないと思うようになっていた。____


正直にいうと、私は、皆が思っているほど強くない。
尊敬されるような才能だって持ってないし、特段人格者というわけでもない。
そして言うほどストイックでもない。笑
もちろん綺麗な事ばかりでもない。人間が当たり前に持っている汚い心だって当たり前のように存在している。
___ないことだらけだ。
それが本当の私なのだ。もちろん、そんな自分を見せるはずもないが。

(たまに見えてたらすんません)

だけど、体力と行動力だけは人一倍ある。これだけは”私”が自信を持って言える取り柄だ。
そして皆から見えている”じきまる。”の大部分は、殆どこれによって成り立っているのだと思う。(分からんけど)

ふと振り返ってみると、半年前くらいまでの私は、自分の心の赴くままに、自分が信じた可能性のままに、色んな事に取り組んでいた。____”じきまる。”でいる間は、なんだって出来ちゃうから。(そんな気がしているだけ)
自由で、何事にも捉われず、自分(=本当の私)の信じた道だけを、"じきまる。"として進んできた。
それこそが、私にとって最大限の「自己実現」であった。

だがここのところは少し、自分が何に向かえば良いのか、見失ってしまっていた。
それはきっと、本当の私と、”じきまる。としての私”との境界線が、分からなくなってしまっていたからである。

このnoteがまだほんの少しの人にしか見られていなかった頃の自分は、きっとそんなことはなかった。
「確たる自分」というものがいた。
あの頃の感覚をもう一度味わいたい、戻ってみたい、と思ったりもする____
自由で、何事にも捉われることのなかった自分に。
もちろん、あの頃とは経験も立場も違うので、もう戻ることはできない。だからこそ、時間とはこの世で一番貴重なものだと、改めて感じる。

あの頃の私が書いた文章を、今になって読み返してみる。
そうすると、今の私の中に微かに残っている当時の私が、ほんの少し蘇ってくる。語りかけてくる。
そして、今も同じように____少し先の私が、小っ恥ずかしくも愛おしく思いながら、今この瞬間の私を忘れないように。
この文章を書いている。

この夏は、時間の波に飲まれないよう少し立ち止まってみて。
そして本当の自分と向き合ってみよう。

____そんな夏にしたいと思う、7月も末の夜。

photo:和さん (@Ver_Port)

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