脱獄王・白鳥由栄事件

※ゴールデンカムイのシライシのモデルとなった人物

白鳥由栄

-経緯-
昭和11年6月18日未明、殺人容疑で収監されていた(しらとりよしえ、当時28歳)は、青森刑務所(柳町支所)を脱獄し付近の山中に潜伏した。白鳥の独房を監視していた看守が、不審を抱いて布団をはがすと中には枕などで偽装し白鳥は脱獄した後だった。看守は、大慌てで上司に報告、直ちに青森市内に緊急非常線が張られた。一方、脱獄した白鳥は3日間、山中に潜んでいたが、食べ物を物色しに下山したところを警戒中の警察官に逮捕され再び青森刑務所に収監された。

早速、白鳥の取調べが始まった。その中で白鳥は、「看守達が、゛人殺し゛、゛お前は死刑だ゛などと罵倒され、顔にツバを吐きかけるなどされ激怒した」と脱獄の動機を供述した。また、脱獄の方法は、入浴中に桶から金属のタガを密かに取り外して独房に持ち帰った。さらに、独房のドアにある鍵穴に指を押し付けて、その型に合うよう何日もかけてタガを加工。脱獄決行の当日、看守が15分置きに巡回する隙をついて鍵を開けて脱獄したのだった。同年11月5日、白鳥に無期懲役が確定。その後、宮城刑務所と東京の小菅刑務所に移送された。

-白鳥の生い立ち-
白鳥は、明治40年に青森県で出生。2歳で豆腐屋に養子に出され育った。頑固ではあるが馬鹿正直な性格で仕事は熱心だった。21歳の時、知人に勧められて結婚。3人の子宝に恵まれ貧しいながらも充実した生活を営んでいた。

やがて、出稼ぎのため蟹工船に乗り込んでから不幸が襲ってきた。白鳥は、船内で賭博仲間と知り合い博打にのめり込んだ。蟹漁が終わって家に戻った白鳥は、豆腐屋の稼ぎを全て博打につぎ込んだ。やがて、金が無くなると仲間と2人で青森市内の雑貨商に忍び込んだ。だが、家人に見つかり、もみ合っているうちに牛刀で殺傷。白鳥は、共犯が逮捕されたことを知り自首。その後、青森刑務所に収監されていたのだった。

-エスカレートした脱獄-
戦況が悪化する中、白鳥は小菅刑務所から秋田刑務所へ移送された。秋田刑務所では、脱獄囚が移送されるとあって厳戒体制をとった。白鳥に特別の独房を用意し、手錠をはめたまま一日中正座を強制した。白鳥は、刑務所の処遇に対して怒りを募らせていった。

昭和17年6月15日未明、白鳥は両足を一方の壁、両手は対面の壁に付きながら天井に向かって登り始めた。やがて高さ4メートルの天窓を壊して脱獄。看守や警察官が血眼で行方を追ったが、杳として手掛かりは掴めなかった。

3ヵ月後の9月18日、白鳥は小菅刑務所の小林看守長の官舎を訪ねた。驚く小林看守長に、劣悪な刑務所の処遇について訴えた。白鳥は、実情を知ってもらいたいという一念で脱獄したのだという。その後、白鳥は戦後の映画で有名になった「網走番外地」のモデルになった網走刑務所に移送された。網走刑務所の真冬は零下30℃。独房内でも零下10℃近いのに、看守は白鳥に手錠、足錠を一日中掛けて夏物一枚で独房に放り込んだ。ここで、白鳥の怒りが再燃する。

脱獄を決意した白鳥は、毎日味噌汁を脱獄防止の鉄枠に吐きかけて腐食させた。昭和19年8月26日、ついに鉄枠を取り外し、自身は肩や腕などの関節を外して狭い小窓から脱走したのだった。難攻不落の網走刑務所始まって以来の脱獄者だった。

-4回目の脱獄-
網走刑務所を脱獄した白鳥は、2年余りを山中に潜伏。昭和21年8月14日、人里に下りてきた白鳥は野菜泥棒と間違われて地主ともみ合っているうちに短刀で殺傷。2人目の殺人を犯してしまった。

札幌刑務所に収監された白鳥は、看守4人が1組になって監視するという厳重体制であった。だが昭和22年4月1日、今度は床下から穴を掘って脱獄に成功。昭和23年1月19日、札幌市内をうろついていた白鳥は、警邏中の警官に職務質問を受けた。いつもだと「おい、こらっ」というイメージの警察官が、優しく対応し、タバコまでくれたことに感動した白鳥は、この警官に脱獄した白鳥であることを名乗った。

再び、収監された札幌刑務所で公判が始まった。判決は、地主殺人に対しては殺意は無かったと認められ傷害致死罪で懲役刑だった。これで、死刑は無いと判断した白鳥は、もう脱獄はせず真面目に服役して出所しようと考えた。

-模範囚として出所-
昭和23年8月6日、札幌刑務所から府中刑務所に移送された白鳥は、最初の数年間は荒れていたようだが、その後模範囚となって昭和36年12月21日仮出所した。その後、日雇い労働でなどで暮らしていたが昭和54年2月24日、都内の病院で心筋梗塞を患って死亡。享年71歳だった。

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