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本の風景「わたしを離さないで」カズオ・イシグロ(2005年)

ドリー誕生


1997年、一匹の「羊」の誕生が世界中に衝撃を与えた。それは、哺乳類の体細胞から作られた「クローン羊」で「ドリー」と名づけられた。その後、世界各国が次々に哺乳類のクローンを作った。その視線は、暗黙のうちに「人間」にも向いており、世界が深刻な議論に巻き込まれた。「人が人を作る」。それは人類の究極の夢であった。イギリスの作家メアリー・シェリーは『フランケンシュタイン』を悲劇的に描いた。SFでは宇宙開発にクローン人間が活躍する。しかし一方、「神は自分のかたちに人を創造された。」(『創世記1・27』)と聖書は語る。それは触れてはならない「最後の一線」だった。

『わたしを離さないで』

  キャシーの生まれ育った「ヘールシャム」はイギリスのとある田舎の、小高い丘と木々に囲まれ、外部からは厳しく閉ざされた「施設」だった。そこでは幼児から18歳までの男女が共に暮らし、「保護官」と呼ばれる教師たちによって教育を受けている。特に詩作とアートは重要視された。誰もが「秘密の小箱」を持ち、その都度の大切な思い出の品をそこに仕舞う。ヘールシャムではセックスも自由で、キャシーも何回か試みた。また、将来のことも語り合った。その時、ふとそれを聞いた保護官が突然語りだす。「あなた方の人生はもう決まっています。いずれ臓器提供が始まります。あなた方はそのために創られた存在で、、、将来は決定済です。」
大人になってヘールシャムを出たキャシーは、恋人のトミーと、すでに閉鎖されたヘールシャム当時の経営者を探し当て、その秘密を訪ねる。保護官たちは、キャシーたち臓器提供クローンの人権を守るために立ち上がった人たちだった。社会は、はじめは歓迎した。しかし彼らが学び、賢くなることに危惧を抱きはじめ、遂に、社会は彼らを拒否したのだった。
仲間たちは何回目かの提供を終え、死に向かう。そして、キャシーも「行くべきところへ向かって出発した」。

カズオ・イシグロ

カズオ・イシグロ 氏


 カズオ・イシグロ(1954年~)は長崎で生まれ、5歳の時家族と共にイギリスに渡った。その後、イギリスの国籍を取得、イギリス人として成長する。1982年『遠い山なみの光』が王立文学協会賞を受賞し、本格的な作家活動を開始する。この作品は、原爆が投下された長崎が舞台となっており、長崎がそうであったように、誰もが傷つきながら、光が見えない未来に向かって歩き出そうとする、そうした世界だった。それは「根底にあるのは、世界を不条理とみる見方」(池澤夏樹)であった。1989年『日の名残り』でイギリスの最も栄誉あるフッカー賞を受賞し、2017年にはノーベル文学賞に輝いた。スウェーデンアカデミーは「イシグロは私たちが過去とどう折り合いをつけるか、個人、共同体、社会としてどう生き延びるために何を忘却するか探し求めている」と語った。

不条理


 死亡した人から提供された臓器を患者に移植する。しかし、提供者(ドナー)は常に不足し、治療を受けられる患者は限られる。ここに海外での「臓器売買」が注目され「臓器ブローカー」が暗躍し、多額の金銭が交差する。深刻なドナー不足がもたらす現況である。『わたしを離さないで』は、まさにこの現実を予見した、人間のクローン、提供者の物語で、「製造された」人間の不条理が語られる。「提供」という決定された未来に向かって生きていかなければならない不条理がそこにはある。しかし彼らは微かな希望も捨てない。作中の人物たちは、不条理の中の「薄明」を歩こうとしている。(大石重範)

(地域情報誌cocogane 2024年10月号掲載)

[関連リンク]
地域情報誌cocogane(毎月25日発行、NPO法人クロスメディアしまだ発行)


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