「待つ時間」を再定義して愉快に生きる

前回書いた、「愉快に生きたければ、愉快に生きればいい」ということのチャレンジ報告。

隣町にある人気うどん店に食事に行ったが、混雑を避けて13時半に行っても超満員。

何とか席についたが、私より前に席に案内された人達の料理もまだ来ていないことから、「こりゃかなり待ちそうだ」と推察し、

そういう事もあろうかと想定して持ってきた本を読む。

この本は、図書館から借りたもので明日が返却期限なので、自分の中では期限の迫った課題としてプレッシャーになっていたが、

この店での想像以上の待ち時間のお陰で、絶好の読書タイムにすることができた。

明日返さねばならないという締切効果と、この本をある程度読み進めれば、美味しいうどんが来るというニンジン効果の相乗効果により、30分ほどの待ち時間で普段の倍以上の集中力を発揮でき、思いの外素晴らしい内容を堪能することもできた。

そんな中、ふと、レジの方で大声がしたので目をやると、高齢の男性が「ずいぶん待たされたぞ、昼飯が夕飯になってしまった!」とクレームを言っていた。

それを見てふと、「この人はうどんだけを待つ時間にしてしまったんだな、勿体ない」と思ってしまった。

同じ30分の待ち時間で、私はうどんを待つ代わりに読書することを選択し、そのおかげで、イライラを全く感じることなく、寧ろ得難い読書体験を得る事に成功したことを考えると、

「愉快に生きるとはこういうことかも」と実感。

おまけに、店の人が恐縮して珈琲をサービスしてくれたが、もはや得しかしていない。

「今、自分は何をしようとしているのか?」と自問し、

その時間を再定義することはとても大事だと改めて思う。

うどん屋に行っているから、うどんが来るのを待つ時間だと定義するのは当たり前のことだが、その認識の枠組みをずらすことで、全く違った体験が味わえる。

以前読んだ、内田樹氏の「修行論」という本の中で、「額縁問題」というのがあったが、これがとても印象深く、無意識に応用してみたお陰である。

前回の記事で、「愉快に生きる」ということを決断したお陰で、こんな応用技ができたことは嬉しい。

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