復路時代に突入したからこそ、リソースを三位一体で循環させていきたい。
人生100年時代と言われるが、
だとすれば、私は丁度その折り返し地点を過ぎたことになる。
人生の往路と復路とでは、それまでの景色の見え方や体験することも
変わってくるものかもしれない。
1月に父が亡くなり、身近な人間の死を経験することで、
人間には寿命があることをよりリアルに感じ、自分ももう復路に
入ってしまったんだなと感じるようになった。
ただ、父の死については、
晩年に私なりに寄り添うことができたこと、
年齢的にも亡くなり方にしても大往生だったと思えたこと、
死に顔がとても立派であったこと、
葬儀に参列した方々がとても父の事を尊敬し慕っていたこと、
などから、悲しさよりも納得感や誇らしさの方が大きい。
以前は、親の死に対するイメージは、深い悲しみや「次は自分の番だ」
という死への不安しかないと思っていたが、
とても幸運なことに、生前の父に対し自分なりにやれることがやれ、
「間に合わせることができた」という納得感が持てたため、
ちゃんと父の死を受け入れることができたし、今後の自分の人生にも
前向きに向き合えれそうだという自信を持てている。
父のお陰で、確かに自分の死生観が肯定的に変化したようだ。
これは父からもらった最大の財産ではないかと思っている。
死生観が前向きになることで、毎日が充実してくる。
最近私が意識しているのは、
「自分が持っている、時間とエネルギー(体力や精神力、関係性)、資金などのリソースを何に変換していくか?」
ということだ。
いずれも、凡人な一個人である私の人生においては、有限なものである。
特に時間については、「平均寿命」とか「健康寿命」いう要素があるので、エネルギーと資金よりもより有限性を意識しなければならないだろう。
ただ、人生の往路時代だった頃の私は、
主に資金というリソースの方に意識が向きがちであった。
その節約のために、時間とエネルギーを犠牲にするようなことも平気で行っていたのだ。
復路時代では、そこを改める必要があると痛感している。
時間とエネルギー(他者との関係性も含む)と資金。
人が社会で生きていく上で、この3つは不可欠だが、
これらはトレードオフや他者との奪い合いの関係ではなく、
相互に循環し拡大していくものにしていきたい。
自分の持ち時間内で、どういうエネルギーを投入して、
どういう成果(エネルギーや資金)を得ていくか?
そして、得られたリソースをさらにどう使って循環拡大させていくか?
そう考えると、人生の制限時間内でどのように自分で納得いくリソースの使い方ができるかを愉しむゲームのようなものに思えてくる。
また、普通に考えると、自分の所持時間は減っていくわけだが、
エネルギーの循環のさせ方や資金の使い方によっては、時間がボーナス的に加算されたり、エネルギーの質が変わってくる場合があるかもしれない。
寿命というのは、長さよりも質や密度が大事だと考えるようになった。
だからこそ、これらリソースを三位一体で循環させて自他の時間の質や密度を高めていきたいと思うし、それが私の仕事のコアになっていくのではないかとも思う。