明治のはなし(あきつしま)10
1876年(明治9年)
冷たい風が吹き抜ける2月のある日、朝鮮半島の歴史が大きく変わろうとしていた。日本と朝鮮の間で「日朝修好条規」(江華島条約)が結ばれたこの瞬間、長きにわたる朝鮮の鎖国がついに終焉を迎えた。
朝鮮との交渉—条約の陰に隠された駆け引き この条約締結の背景には、日本と朝鮮の間で緊張が続いていた。前年の江華島事件での軍事的な衝突をきっかけに、日本政府は朝鮮に対し強引な開国交渉を進めていた。条約締結の代表として派遣されたのは、若き外交官・黒田清隆であった。黒田は軍人としての経験を持ちながらも、冷静な外交官としての手腕を発揮し、朝鮮の要人たちとの交渉を粘り強く進めた。
朝鮮側も、内部では改革派と保守派が激しく対立していた。大院君の失脚後、権力を握った閔妃は、慎重ながらも日本との交渉を進める必要があると判断し、条約締結を容認した。こうして、朝鮮は釜山に続いて新たに二港を開港し、日本の領事裁判権を認めることとなった。さらには漢城(ソウル)に日本公使館が設置され、両国の外交関係が確立された。
この条約は一見すると朝鮮にとって不利なものであったが、朝鮮もまた外圧の中で近代化を模索せざるを得ない状況に立たされていたのだ。
3月28日、「廃刀令」が告げられた。すなわち帯刀の禁止である。かつて日本の象徴であった刀は、武士の魂とも言われた。しかし、この命令によって、一般市民が刀を帯びることが禁じられ、武士たちの時代は正式に幕を閉じることとなった。
この決定は、旧武士階級にとっては大きな衝撃だった。維新後の改革によって武士はすでに特権を失っていたが、刀を帯びることができなくなるという事実は、彼らにとってアイデンティティそのものを奪われるような出来事だった。特に旧薩摩藩の武士たちは反発し、西南戦争へと繋がる反乱の火種となっていく。
一方、若い世代の中には新たな時代の流れを受け入れ、自らの手で新しい日本を築こうとする者も現れた。廃刀令の影響を最も受けた青年たちの中には、剣ではなく、知識と技術をもって国を支えることを誓う者が多くいた。東京の一角で法律を学ぶ若者たちは、ヨーロッパの憲法を手に、これからの日本の未来を夢見ていた。
その年の春、天皇は元老院に対して重要な命令を発した。それは、国権に関する憲法草案を起草することであった。明治政府は、すでに西洋の制度を取り入れるべく改革を進めていたが、国を統治するための基礎として憲法が不可欠であることを認識していた。特に欧米視察を終えた岩倉具視らは、強力な中央集権体制と立憲君主制を目指し、各国の憲法を研究することが急務であると主張した。
若き政治家・伊藤博文は、この時、ドイツのプロイセン憲法を参考にしつつ、日本独自の憲法を作り上げるべく精力的に動き始めた。伊藤は「憲法は、国民の自由と権利を保障しつつも、国家の統一と安定を図るために必要なもの」と考え、元老院の有力者たちと協議を重ねた。
憲法起草の裏には、天皇制をいかに維持しつつも、近代的な立憲君主制を導入するかという複雑な問題があった。西洋のモデルをそのまま導入することに抵抗を示す保守派も多く、特に神道や皇室をどのように扱うかが焦点となった。これらの議論が続く中で、憲法草案の起草は伊藤博文を中心に井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎らによって徐々に作成されていった。