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あきつしま 21

106 後水尾天皇

1611年3月27日、政仁(ことひと)親王が第108代・御水尾天皇として即位しました。御水尾天皇は後陽成天皇の第三皇子であり、母は関白太政大臣・豊臣秀吉の猶子で後陽成女御の近衛前子(さきこ)です。

1612年、徳川家康は禁教令を発令し、キリスト教の取り締まりを強化しました。

1613年6月16日には江戸幕府が「公家衆法度」および「勅許紫衣法度」を制定し、公家の統制を強化しました。

1614年には方広寺鍾銘事件が発生しました。この事件は、鐘銘に刻まれた『国家安康』『君臣豊楽』の文字が問題視され、徳川家と豊臣家の対立が再燃するきっかけとなりました。これにより、「大阪冬の陣」が勃発しました。
大阪冬の陣では豊臣家と徳川家の間で激しい戦いが繰り広げられましたが、決着はつかず、

1615年に再び「大阪夏の陣」が起こりました。この戦いで豊臣氏は滅び、日本は完全に徳川家の支配下に入りました。
同年7月17日には、徳川幕府が「武家諸法度」と「禁中並公家諸法度」を公布し、武士や公家の規範を定めました。この法令により、徳川家の統治体制はさらに強固なものとなりました。
立花宗成は2代将軍徳川秀忠の軍師参謀として活躍しました。宗成の戦略と知恵は、徳川幕府の安定と発展に大きく貢献しました。

1616年4月17日、徳川家康が逝去しました。

1617年8月26日、後陽成院も47歳で崩御しました。

1619年9月15日、徳川秀忠が上洛し、政務を執り行いました。

1620年6月18日には徳川和子(まさこ)が女御として入内し、徳川家と皇室の関係はさらに深まりました。
この年、立花宗成は柳川藩10万石の領主となり、旧領への復帰を果たしました。宗成は54歳になり、徳川家光の相伴衆(しょうばんしゅう)としても仕えることになりました。

1623年、徳川家光が三代将軍に就任しました。
同年11月19日には興子(おきこ)内親王が誕生しました。

1626年10月25日には二条城への行幸が行われ、徳川秀忠と家光が上洛し、天皇に拝謁しました。

1627年、紫衣事件が発生しました。紫衣とは勅許によって着用が許される紫色の法衣や袈裟のことであり、この事件は幕府と朝廷の間に緊張を生みました。
また、この年には吉田光由が『塵劫記』(面積の求め方、ピタゴラスの定理)を著しました。

1629年11月8日には御水尾天皇が幕府に通告せずに興子内親王に譲位しました。これにより、徳川幕府の支配はさらに強化され、日本は安定した時代へと進んでいきました。
立花宗成はその中で柳川藩の領主として、また徳川家光の相伴衆として、日本の安定と発展に寄与しました。

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後水尾天皇の御世、ヌルハチは女真族を統一しました。
そして、女真族のヌルハチは瀋陽を首都として後金を建国し、「金」を意味する愛新と、先祖が住んでいた覚羅(ぎょろ)を組み合わせて愛新覚羅を姓としました。

おなじころ、朝鮮は第2回の回答兼刷還使を派遣しました。

このころ、イギリスでは、国内での宗教弾圧から逃れたキリスト教徒がメイフラワー号に乗り、インディアンが住んでいるアメリカ大陸に移住しました。

そのころ、第3回の回答兼刷還使も派遣されました。

1626年にはヌルハチが亡くなり、ホンタイジがハンとなりました。

●大名とは一万石以上の領地を持つ者で、当時は一人の人間が一年間で食べる米の量を、およそ一石とされていました。
この頃から、皮革業を生業した人々を穢多(えた)、刑罰などによって賤民に落とされた人々を非人と呼ぶようになりました。

107 明正天皇

1629年11月8日、わずか5歳の興子内親王が即位し、第109代・明正天皇として即位しました。明正天皇は後水尾天皇の第2皇女であり、母は徳川秀忠の娘・徳川和子です。女子の即位は男子の不在(夭逝)によるものであり、奈良時代の称徳天皇以来859年ぶりとなる女性天皇の誕生でした。

1633年3月12日には紹仁(つぐひと)親王が生まれました。

翌年、徳川家光は上洛し、天皇との面会や政治的な会議を行いました。

1635年、家光は日本船の海外渡航と日本人の出国・帰国を禁止し、朱印船貿易を停止するという厳しい政策を実施しました。

1636年に第4回「回答使兼刷還使」が「朝鮮通信使」に改められました。

1637年、天草四郎時貞(15歳)を総大将に立てた島原・天草一揆(島原の乱)が勃発しました。この乱は、厳しい年貢と宗教弾圧に耐えかねた農民やキリシタンが立ち上がった大規模な反乱でした。
立花宗成は松平信綱を補佐として出陣し、71歳という高齢にもかかわらず、幕府軍の一翼を担いました。
幕府は12万人の軍勢を投入し、この乱を鎮圧しました。この結果、幕府はオランダと明以外の外国船の入港を禁じる政策を強化しました。

1638年11月16日には、良仁(ながひと)親王が誕生しました。
一方で、立花宗成は家督を養子の立花忠茂に譲り、長きにわたる武将としての役割を終えました。

1639年、家光はポルトガル船の来航を禁止する命令を出し、これによって「鎖国」が本格的に始まりました。

1640年、「寛永の大飢饉」がこの年から寛永20年にかけて発生し、多くの人々が苦しむこととなりました。

1641年、幕府はオランダ商館を平戸から出島に移しました。これにより、貿易と交流は出島を中心に行われるようになり、幕府の統制下での貿易が進められました。

1642年11月25日に立花宗成は江戸柳原の藩邸で76歳でこの世を去りました。宗成の死後、柳川市内にある三柱神社には、道雪、誾千代、宗成が祭神として祀られています。

1643年の10月3日、21歳の明正天皇は11歳の紹仁(つぐひと)親王に譲位しました。

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明正天皇の御世、ホンタイジは、モンゴル人や中国人から「女真」族と呼ばれていたものを「満洲」族と改めました。彼は瀋陽で満洲、蒙古、漢の三族に推戴されて皇帝に即位し、国号を清としました。

1月31日、清は朝鮮に侵攻しました。ホンタイジは李朝の仁祖に、北方蛮族と蔑んでいた胡服を着させ、三回拝跪九回叩頭の礼を行わせました。
この年、清の太宗ホンタイジが亡くなり、6歳の順治帝が即位しました。
また、第5回朝鮮通信使が日光東照宮の落成祝賀に出席しました。

●中和門院(近衛前子:豊臣秀吉の猶子)は、「女帝の儀は苦しかるまじき、左様にも候わば、女一宮(幼名)に御位預けられ、若宮御誕生の上、御譲位あるべき事」。

明正天皇は5歳で践祚、称徳天皇以来859年ぶりの女帝となりました。
「明正」の諡号は元明・元正の2人に由来します。

寛永20年(1643年)9月1日、将軍徳川家光は4か条からなる黒印状を新院となる明正天皇に送付しました。
(第1条)、官位など朝廷に関する一切の関与の禁止および新院御所での見物催物の
独自開催の禁止。
(第2条)、血族は年始の挨拶のみ対面を許し他の者は摂関・皇族と言えども対面は不可。
(第3条)、行事のために公家が新院御所に参上する必要がある場合には新院の伝奏に
届け出て表口より退出すること。
(第4条)両親の下への行幸は可、新帝と実妹の女二宮の在所への行幸は両親いずれかの
同行で可、新院のみの行幸は不可、行幸の際には必ず院付の公家が2名同行すること。
などが命じられました。

108 後光明天皇

1643年10月3日、11歳の紹仁(つぐひと)親王が第110代・後光明天皇として即位しました。後光明天皇は後水尾天皇の第四皇子であり、母は園光子(みつこ)です。

1651年、徳川家光が死去し、家綱が10歳で4代将軍となりました。

1654年9月20日、後光明天皇が痘瘡により崩御しました。享年22歳です。

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後光明天皇の御世、清の太宗ホンタイジが亡くなり、6歳の順治帝が即位しました。
また、第5回朝鮮通信使が日光東照宮の落成祝賀に出席しました。
同じ頃、明の最後の皇帝崇禎帝が自殺し、明が滅亡しました。
清の順治帝は都を瀋陽から北京へ遷都しました。

109 後西天皇

1654年11月28日、22歳の良仁(かたひと)親王が第111代・後西天皇として即位しました。後西天皇は後水尾天皇の第八皇子であり、母は櫛笥隆子(くしげたかこ)です。また、この年には識仁(さとひと)親王が生まれました。

1657年の1月18日から20日にかけて、明暦の大火が起こり、江戸の大半が焼けました。

1663年1月26日、後西天皇は10歳の識仁親王に譲位しました。

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後西天皇の御世、第6回朝鮮通信使が派遣されました。
おなじ頃、清の順治帝は鄭成功(国姓爺)の北伐軍を跳ね返し、中国をほぼ統一しました。1661年に順治帝が崩御し、8歳の康熙帝が即位しました。

●後西天皇の第2皇子である幸仁親王は「世襲親王家」有栖川宮の第3代当主となりました。(初代は高松宮と称していたが3代の時に有栖川宮に改称しました)

明治時代、幕府政治を廃絶し、天皇を君主とする国家体制が築かれました。この新しい国家体制の中で、歴代の天皇の権威を高めるために、特に院号で呼ばれていた歴代の帝に天皇号をおくることが決まりました。

この中で、後西院は「後西院天皇」と称されることになりました。しかし、大正14年に、天皇の称号についての一定の方針が見直されました。それまでは「~天皇」や「~院天皇」といった称号が一定しておらず、統一性に欠けていました。これを是正するために、すべての天皇の称号から「院」の字を廃し、より一貫性のある形に統一することが決定されました。
その結果、後西院は「後西天皇」と改称されました。

この改称は、歴代天皇の尊厳を保ち、明治以降の新しい国家体制における天皇の地位を明確にするためのものでした。この決定は、歴代天皇の存在を現代の国民により明確に示すこととなり、天皇の権威と伝統を一層深く理解されるようになったのです。

110 霊元天皇

1663年1月26日、10歳の識仁(さとひと)親王は第112代・霊元天皇として即位しました。霊元天皇は後水尾天皇の第十九皇子であり、母は園国子(くにこ)です。識仁親王は後水尾院が58歳の時に生まれた皇子です。

1669年、アイヌの人々の間でサケの漁業権を巡る争いが起きました。この争いは、やがて和人(和人、すなわち本州などに住む日本人)との戦争へと発展しました。後に「シャクシャインの戦い」と呼ばれるこの戦いは、アイヌの指導者シャクシャインと和人の間で激しく繰り広げられました。

1671年、江戸の町では堀越海老蔵という若者が、芝居の道に足を踏み入れたのです。彼は12歳で役者としての道を歩み始めました。

1673年には、三井高利が江戸の呉服店「越後屋」を開業しました。
同年、14歳になった堀越海老蔵が初舞台を踏むことになりました。

1675年9月3日には朝仁(あさひと)親王が生まれました。
この年、堀越海老蔵は16歳になると、市川團十郎の名を名乗るようになりました。

1680年8月19日、後水尾院が85歳で崩御しました。
その後、館林藩主であった徳川綱吉が、江戸幕府の第5代将軍に就任しました。
綱吉は、それまでの武断政治から文治政治への転換を図り、朱子学を重視する政策を推進しました。

この時代、市川團十郎もまた、その名を輝かせていました。團十郎は『遊女論』で不破伴衛門を演じ、この役が大当たりしました。団十郎の演技は観客を魅了し、江戸の演劇界に新しい風を吹き込みました。

1683年、この年の2月には、五宮朝仁(あさひと)親王の立太子礼が行われました。この儀式は、貞和4年の直仁親王(北朝崇光天皇の皇太弟、南朝方によって廃位)以来、実に335年ぶりのことでした。

1685年2月22日、後西院が49歳で崩御しました。
徳川綱吉は「生類憐みの令」を発布しました。この法令は、動物の生命を尊重し、保護することを目的としており、特に犬の保護に力を入れたことで知られています。この政策は江戸の町に大きな影響を与え、人々の生活にも変化をもたらしました。

同じ時期、市川團十郎は『金平六条通』で坂田金平を演じ、その演技が江戸の観客に絶大な人気を博しました。團十郎の名は瞬く間に広がり、市川宗家の基礎が築かれました。彼の演技は、江戸時代の演劇文化の発展に大いに貢献し、多くの人々に愛されました。

1687年3月21日には、朝仁親王への譲位が行われました。これに伴い、霊元天皇は長年中断していた即位式と共に行う大嘗祭を幕府に強く要望しました。
貞享4年4月には即位式が盛大に執り行われ、さらに11月16日には200年以上廃絶していた大嘗祭の儀式が復活しました。

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霊元天皇の御世、清の康熙帝は16歳の時に親政を始めました。
おなじ頃、第7回朝鮮通信使が派遣されました。

●霊元天皇は朝儀の復活を目指し、まず天和3年に約340年ぶりに皇太子朝仁親王の立太子の礼を復興させました。貞享元年には、天皇は皇太子への譲位と大嘗祭の復興を希望し、幕府と交渉を開始しました。朝廷と不仲であった幕府は、皇位継承にかかる予算を前回(霊元天皇の即位時)と同額にすることを条件に再興を認めました。
貞享4年、天皇の譲位により皇太子が即位し(東山天皇)、大嘗祭は221年ぶりに斎行されました。
次代の中御門天皇の皇位継承時には、大嘗祭は行われませんでした。これは霊元上皇の在位中の勅約によるものでした。
続く桜町天皇の皇位継承時も、当初は幕府側からの申し出を朝廷側が辞退していましたが、やがて朝廷側から新嘗祭の復興の申し出がありました。これを契機に朝幕間の交渉が行われ、元文3年、皇位継承から3年を経て大嘗祭が再び斎行されました。
以降、代替わりの度に大嘗祭が途切れることなく斎行されるようになりました。

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