見出し画像

命の関守石

 広辞苑によると、関守石(せきもりいし)とは「茶庭の岐路に蕨縄(わらびなわ)で十文字に結わえて据えた石。それから先へ行くな、という意」とある。
 この関守石は、止め石、留め石、関石(せきいし)、極石(きめいし)、踏止石(ふみとめいし)とも呼ばれるそうだ。

関守石

  医者になって半世紀。
 はじめの3分の2は産科医として飛びまわり、そのあとは老人医療
にも携わってきた。
「揺り籠から墓場まで」を実践する人生行路であった、と振りかえれば……。
取り上げも看取りも遣りし爺医なれば「命の関守石」とも言ふべし
(医師脳)
 産科医だった頃は〈出生証明書〉を随分と書いたが、どれくらいの数
だったかは覚えていない。
「おめでとう」と「ありがとう」の遣り取りは、分娩室での緊張を癒すものとして記憶にある。産科医をしてよかった、と晴れがましくも思ったものだ。
 介護老人保健施設(老健)施設長になってからは、〈死亡診断書〉を書く機会がふえた。そのほとんどは「老衰死」の診断である。
「おかげで天寿を全うさせることができました」という遺族の言葉に、正直なところ肩の荷がおりる。
〈慶〉が減り〈弔〉の増えたる慶弔欄「絶滅危惧種」にならむかヒトも

〈魂の痛み〉

「延命治療は望まない。でも痛みだけは取ってほしい」と妻や子供らに繰り返してきた。いざという時つらい選択をさせなくて済むように、との気遣いのつもりだ。
「私は痒いのもイヤだな」と妻は笑う。これが我が家の正月であった。
 コロナ禍で子どもたちの帰省もならず、老夫婦だけの正月は……。
「ありがとう」を笑顔でくりかへす妻に対(む)き小声でかへす「ありがとう」と
愚痴言はず感謝の日々を経しのちは「ありがとう」と告げむ縦(たとへ)惚けても
感謝のむた心穏やかな老いの日の早く来たれと凡夫の吾は
 2002年にWHOは、4種類の痛み(身体的苦痛、精神的苦痛、 社会的苦痛、スピリチュアルペイン)を提唱した。
 スピリチュアルペインとは?
「魂の痛み」「死の恐怖」「生きる意味を失うつらさ」など様々な言葉で置き換えられる。が何ともピンと来ない。
 看護師で僧侶の玉置妙憂師は、それを「問われても答えられないものだ」と応える。さらに「人間の力では解決できないこと」がスピリチュアルペインだとも。
 一昔前のこと……。
常ならぬツナギの下着を着せられし翁の眼は何もかたらず
 ナースに経緯を聞く。
「何度も胃ろうを抜くので家族と相談して……」という返事。それから肺炎のため二度の入退院を経て施設での看取りとなる。
「やっと楽になれましたね」と、 思わず穏やかな死に顔へ声をかけた。 〇臨終にて欣求浄土を十念し死因欄には老衰と記す
 スピリチュアルペインは家族にも起こりうる。親を心配するあまり、認知症や老衰の姿を受け入れられずに悩む。逆にそれを医療側や介護側にクレームとして転嫁したがる家族の話もよく聞く。
 食欲は本能だから生きるために 食べる。本能が衰えたら(人間を含む)動物たちは老衰としての死を受け入れてきた。
 しかし現代の日本では、親の老衰に医療処置を求める子 どもが少なくない。自分自身は延命治療を望まないのに、である。
 名著『大往生したけりゃ医療とかかわるな』の中村仁一氏は「オレが食べ物に手を出さなくなっても決して口のなかへ押し込むような真似はするな」と激しい。食欲があれば(両腕がマヒしていようと)犬食いでもするはず。
 私にその時が来たら……試しに、鰻と鮨を並べてみてくれ!(それも特上のやつを) 

〈平穏死を考える〉

 有名な教科書『ハリソン内科』から……。
「命を終えようとしているから食べないのであり、食べないから死ぬのではない。これを理解できれば、家族や介護する人は不安(悩み)を和らげられる」――。
死の近き生き物なれば食べぬなり逆にあらずとあらためて知れ
 十年前「平穏死」なる言葉が生まれた。石飛幸三著『平穏死という選択』によれば、きっかけは黒田和夫弁護士との会話だったらしい。
「尊厳死、安楽死という言葉はあるが、石飛先生が考えておられるのはそのどちらとも違います。肉体的にも精神的にも苦痛がなく、穏やかに亡くなるということで言うと『平穏死』ですかね」
 米国では多くの医学会が〈必要性に疑問のある医療行為〉をリストアップした。チュージング・ワイズリー(賢い選択)キャンペーンだ。それによると、アメリカ老年医学会 は「進行期認知症患者に経管栄養を推奨しない」と提言している。
 日本の場合、2014年度の診療報酬改定で〈胃ろう造設術〉の診療報酬点数が引き下げられた。この前後で胃ろう造設件数の推移をみると、92232件(2011年)から45096件(2016年)へと半減し、その後は5万件台を推移している。だが(胃ろう造設の代わりに)経鼻胃管や中心静脈栄養が選択されているらしい。
「医は算術なり」とは言いすぎか ……。
 コロナ禍のおり、2023年の正月は書庫の棚卸をした。10年ぶりに長尾和弘著『平穏死という親孝行』を読んだ。
「平穏死という言葉が広まり、高齢者本人が強く願って準備していても、子どもが誤った思い込みを『親孝行だ』と勘違いして、親の平穏死を邪魔しているケースが実にたくさんあるのです」の件に納得。
「親孝行したいときには親は無し」と言う。親のある方には、ぜひ一読をお勧めしたい。

〈畳の上で死なむ〉

 西行法師は「願はくは花のしたにて春死なむその如月の望月の頃」と詠み、その願いはかなったらしい。僧侶として、お釈迦様の亡くなった頃に自分の命も終えたいと考えたのだろう。
 今の世なら「ピンピンコロリ」と言うところか。多くの老人が願う「ピンピンコロリ」にも気がかりな点がある。
「自宅で死んだら警察が来て大変なことになる」と世間が騒ぐ〈検死〉だ。この検死という語は(同じ読みの)検視と検案・解剖を包括する、というから実際ややこしい。
『在宅医療が日本を変える』のなかで、中野一司氏は「在宅医療は検死を減らす」と強く主張する。主治医が定期的に訪問診療をしている場合でさえ(自宅で冷たくなった患者さんを見つけて動転した)家族が救急車を呼んだら、救急隊から連絡を受けた警察も「すわ、不審死か?」と飛んで来るはず。そんな〈大変なこと〉を避けるため、中野氏は「まず私へ連絡するように」と初診時から家族へ助言しているそうだ。
 ちなみに「病院で死ぬのは勿体ない」という言がある。費用の面から試算すると、一人分の入院費で2~3人が在宅医療を受けられる。
 しかし勿体ないのは〈お金〉ではなく、本人や家族の〈気持ち〉こそが大切なのだ。
「自宅で最期を迎えられずに勿体ない」という素朴な気持ちを尊重したいものである。
 〈看取りの質〉を考えてみよう。
「家で死にたい」とは
「死ぬまで家で生きたい」という願いの表現であり、そのポイントは「家で」にある。
「死にたい」のではなく
「生きたい」のだ。
わが家にて最期を迎ふるが願ひなり妻とつくりし庭をめでつつ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?