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佞武多つれづれ

 我ら津軽衆にとって、夏祭りと言えば佞武多。
 
 武の読み方が、青森と弘前で違う。
 ぶ(bu)と読む青森ねぶたに対し、ぷ(pu)と柔らかいのは弘前ねぷた。
 
 青森と弘前では山車の形が違う。
 大型の張りぼてを乗せたものは、青森の人形ねぶた。
 弘前は、その形から扇ねぷたと言われる。
 
 掛け声も違う。
 リズミカルな「ラッセラーラッセラーラッセラッセラッセラー」は青森だ。
「やぁやどぉ」と優雅なのは弘前で、帰りは「ねぇぷたのもんどりこ」とかけ声が変わる。
 
 当然だが、青森と弘前では、太鼓や笛などのハヤシも別物だ。
 
     *
 
 1948年に青森で生まれてから、青森高校を卒業するまで青森で育った。
 
 隣地との境界に植わっていたポプラの若枝を折り、太鼓のばちに見立てて塀や壁を叩いて叱られた。
「ねぶたが好きだ」と言っても、そのころ跳ねたという記憶はない。
 
 ねぶたは親に連れられて見物に出かけるものであった。
 笛と太鼓の音が聞こえると、早めの夕ご飯も落ち着いて食べていられない。風呂上がりに浴衣を着せられて下駄をはくと、すでに汗びっしょり。うれしくて走り回っては、また叱られた。
 
 弘前大学に入ってからも、ねぶたは夏休みの楽しみだった。
 合宿で弘前に残っていた県外出身の連中も、ねぶた見物に我が家へ押し寄せたものだ。一緒に跳ねながら、「ねぶたはラッセラーと跳ねるものだ」と、初めて体感した。
 
 結婚して子供ができてからも、実家に帰ってねぶたの跳人を楽しんだ。長男の手を引き、長女を肩車して、若いパパは跳ねた跳ねた。
「やろうと思えば何でもできる」と錯覚していた頃だ。
 
     *
 
 子どもたちが幼稚園や学校に入ると、町内の「ねぷたに出たい」というので、祭り期間は弘前で過ごすようになった。
「帰りが遅くなると、子どもたちだけでは心配…」と妻がついて行った。
「一緒に行きましょう」と何度か誘われたが、
「やーやどぉ」という掛け声が恥ずかしくて行かなかった。
 青森ねぶたへの拘りがあったのだろう。
 
 弘前大学病院の周産母子センターで副部長をするようになって、事務職員との付き合いもあり、弘前大学のねぷたに出ることになった。
 ただ歩きながら「やーやどぉ」と叫ぶのは嫌だったので、笛に挑戦した。なかなか難しくて行進用しか覚えられず、祭りを楽しむというのには程遠かった。
 次の日から太鼓に挑戦したが、これも青森の太鼓とは全く逢うものであった。
 しかし、汗をかきながら全身で祭りを楽しむという点では、青森のねぶたで跳ねるのと同じ満足感だ。
 
     *
 
 翌年は7月になると、ねぷたばやしの講習会には毎日出席し、家に帰っても段ボール箱やマットを叩いてはうるさがられた。その甲斐もあって、やっと免許皆伝。
 紅白にビニールテープを巻いた自分専用のバチを手に、念願の大太鼓を思う存分たたくことができた。あまり力が入っていたと見え、
「太鼓に誰かの似顔絵でも書いてあるんじゃないか」と冷やかす悪友もいた。
 
 いわゆる白い巨塔の騒動が起こったころの話である。
 その次の夏には、もう一組のバチを手に入れ、紺色の半纏の色に合わせて、青と白のビニールテープを巻いた。また、手にマメができないよう、軍手の下に自転車用の指先のない手袋をはめ、病棟から持ち出した布バンを念のために巻いた。太鼓仲間との会話も舞い上がる。
「どうも近頃は、正調のねぷたばやしが少なくて…」
「本当に困ったもんだ」
 
    *
 
 1994年4月、ついに白い巨塔を離れて国立弘前病院に転勤。
 ねぷたも、弘前大学から弘前市医師会に替えた。
 太鼓たたきも約束済みだ。
 しかし、7月26日には関節鏡下で右ひざの手術を受け、整形外科病棟に入院中の身となってしまった。当時のメモが残っている。
「今年の夏は、ねぷたの太鼓もなく、梅雨が明けないまま終わってしまうのだろうか。
 8月1日夜、西2病棟の窓から下手くそな太鼓が聞こえてくる」
 
 翌年からは、弘前市医師会のねぷた太鼓責任者だ。
 
 勤務医部会の担当理事となり、夏以外にも医師会活動を続けた。
 青森県医師会勤務医部会の設立10周年記念シンポジウムでのこと。
 シンポジスト依頼書によると、テーマは「青森県における医師不足対策」である。最初のスライドは、弘前医師会ねぷたで太鼓を叩く勇姿。農家の嫁不足対策になぞらえ、「仮称:青森県臨床研修医育成機構」をダメ元で提唱した。
 
 2000年11月、国立国際医療センター転勤。
 弘前市医師会ねぷたの太鼓責任者は若い世代に譲り、私のねぷたは終わった。
 紅白と青白二組のバチには、当時の思い出と汗が染みこんでいる。

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