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【びっくり】 現実は自分が想像できること以外のことだけで出来ているのかも知れない。

【びっくり】− 意外なことに驚くこと。

 今ある気持ちを忘れる前に書いておかないといけない。勢いだけの文章になると思うけれど、書き切りはしよう。これは自分のために。
 僕は24年生きていて、10月で25歳になる。理由はよく分からないけれど、気が付くと生まれていて、最初は母親の母乳を飲んで(たぶん)、徐々にミルクや離乳食的なヤツに移り、ご飯を食べて、寝て、起きて、言葉を覚えたり、他の事を知ったり、友達ができたり、誰かを好きになったり、良いことがあったり、嫌なことがあったりして、今こうなっている。
 それらは全て、いつの間にかそうなっていた。 
 その時すでに始まっていたそれが人生だった。
 これは一体なんなのか考えながら生きてきたし、これが一体なんなのか答えを探そうとしてきた。でも、まだほとんどのことが分かっていない。
 まだまだ短くて、浅い、陳腐な時間を過ごしていたなと思うけれど、だからこそ、とあることに薄々気付き始めている。それは、

現実は自分が想像できること以外のことだけで出来ているんじゃないか
ということだ。

 僕は小さい頃から緊張しいで、人前に出たり、自分の意見を強く主張したり、我を通して周りを変えたりという行動には消極的だった僕は「想像の方の世界」を中心にして生きていたことが多い。
 今ぱっと思いつくもので言うと、例えば面接(誰かに会うとかでもいい)。
 これはなんの面接でもいいのだけど、高校入試の面接やバイトの面接を明日に控えているという状況で、僕がよくするのは、自分が言いたいことを紙にまとめて、話す練習をする。だとか、どんな質問が多いか予習しておく。とかではなく、面接をする部屋や椅子の「感じ」や、面接官の「感じ」や、自分の佇まいの「感じ」をただ想像するということだけだった。そして、もちろん想像の中の自分は、実際の自分より遥かに上手に受け答えをこなし、想像の中で発生するハプニング・諸問題に適切な対処をしている。という理想の自分を描くだけの身勝手な想像だった。イメージトレーニングといえば聞こえはいいけれど、僕の想像はそんな実践的なものではなく、あくまでも「想像の中の面接を上手にこなす」というその場限りの達成感を得るだけのものだった。
 その通り。実際に面接の時が来ると、僕が想像していたことは、何一つ、本当に過去一度も何一つ起こらず、僕は突然に幕が開けられて始まった「現実で起こっていること」を前に身体を硬直させることしかできなかった。顔を中心に全身が熱くなり、視界がぐるぐると回り、自分の口から発された言葉が音としてしか聞き取れず、何を言っているのか一切内容が理解できないという状況に陥った。
 僕が昨日想像していた椅子も無い、壁の色も違う、面接官の姿も声も、自分の立ち回りも、何一つとして同じだということが無かった
 そういう物質的なものだけではない。僕が想像していた面接という抽象的な状況、「物事の起こり」そのものが全く違った。
白だと想像していたものが赤だったということでは済まない。
 白だと想像していたものがドアノブやモツ鍋だった。
というレベルに違うのだ。
 何色かであることは確かで、その中でのグラデーションはあるにせよ、それは確実に色(カラー)のどれか、多くても5、6色でそれも僅かな誤差だろうと想像していたものが、ドアノブやモツ鍋だった。という「世界の逆転」に直面するわけだ。
 その時の僕の醜い顔といえば、それ以上に惨めな、雑魚なものはない。
 きっかけは自分でも分からないが、何か、想像(妄想という方がいいのかも)の世界に逃げることで自分を守れると確信した日があったのかも知れない。それか、そもそもクズなのか。
 とにかく、24年の中でそんなことが、しょっちゅうあった。
 でも、それを自分以外の何かのせいにして溜飲を下げるという事は一度もした事がない。それが起こるたび「まただ」とか「やっぱりか」と(見かけだけの)反省をすることができた。面接(比喩として)の渦中にいる時は、我を忘れるほどに「現実で起こっていること」に頭を打たれるわけだが、それから解放されると途端に冷静になり、
アレは一体なんだったんだろう。と思うことがほとんどだった。
 具体例を挙げるとキリがないが、例えば、人が何か「普段しない行動」をとった時や、自分が居ない時間、居ないところで起こった事について、あれこれ想像し「恐らくこうだろう」と確信したとき、必ず「自分が想像したこと以外のこと」だけでそれは出来上がっている。
 僕は、「恐らくこうだろう」と結論づけられるだけの要素をフルで集結させたつもりが、実際にはそれ以外の要素だけで出来上がっていることが「現実には」起こっている。起きていると思ってたのに、起きていると思ったことが全く起きていない。
 その度に僕は「現実ってすごいな……」と実際に口に出して言う。
言わずには居られない。
 そういうことがものすごくたくさんあって、その度にめまいを経験してきた。「現実のすごさ」を経験してしまうのが怖くて、なんとか避けようと、“もがく”つもりではいたけれど、むしろ、もがけばもがくほど「現実のすごさ」に倒されることになった。
現実って……。

 自分が想像/思っていることは現実には起きないんじゃないか? と考えたり、確信したりして、これからは現実に生きよう! みたい決意(仮)したこともあった。でも、やっぱりそう決意したことも忘れて、次の瞬間には「現実に起きたこと」が起きていて、よく分からなくなる。要は覚悟がないのだ。現実に起きたことをただ見る覚悟が。
 回し車の中で走るネズミが永久にどこにも辿り着かないように、そんな事を何度も繰り返してしまった。

 しかし「現実のすごさ」や「そうとは思ってなかった感」は気持ち良いものであると感じる時もある。どうなるか分からないという状況にワクワクする時もある。でも、その分からなさは、未知数ではなく、必ずどれかにはなるという選択肢を知ったうえでの、または起こり得る結果全てを一度ずつは経験したうえでの分からなさなのだ。「自分が思っているどれかにはなる」うえで「分からない」というのと「自分が思っているどれかにすら当てはまらないことが起こるかもしれない分からなさ」では自分の姿勢は大きく違ってくる。それは分かっているのだ。と、言うだけならいくらでもできる。
 では「何が起こるか分からない」に向き合っていくためには、どんな「居かた」が必要だろうか。と考える。そして、少し前に「起こること」について初めて気が付いたことがある。

𓆹チュウ

 去年の冬ごろ、2021年11月くらいに、ふと「起こったことだけが起こった」というワードが思い浮かんだ。
 TVかネットの記事か何かで「おみくじ」の話を見ていた時のことだと思う。いや、ソファに寝転がって天井を見ながら、漠然とおみくじについて考えていた時かも知れない。いずれにせよソファでゆっくりしている時のことだ。

 あなたは初詣に来た。そこであなたはおみくじを引くことにした。100円払い、箱の中に手を入れると、箱にはおみくじは残り2枚しかない。右に1枚、左に1枚。アルバイトの子が追加分のおみくじを入れ忘れていたのだ。そこで、神様の声が聞こえてきた。「残り2枚のうち、1枚は大吉で1枚は大凶だ」さて、どちらか1枚しか引けないあなたは悩むだろう。たくさんのおみくじの山からランダム的に1枚引くのとは違い、あなたはどちらか一方を自分の意思で選択することになる、右か左か。しかも、大吉か大凶か。右に手を触れて指でつまみ持ち上げる。が、寸前で離して左に変える。と思いきややっぱり右を選ぶ。そういう風にして、箱から手を出さない限りは、あなたは自分で好きなように選ぶことができる。さて、どれぐらい時間をかけても構わないが、あなたは確実にどちらか1枚を選ぶことになる。そして、それと同時に、どちらか1枚を選ばないことになる。1枚しか引けない場合は確実にそうなる。引いた1枚が大吉だった場合、あなたは良い気持ちになる。大凶だった場合、あなたは良い気持ちにはならない。だが周りの友達が笑ってくれるかも知れない。結果はどちらでも構わない。大事なのは、あなたはどちらも引くことができたのに、結局どちらかしか引けていない。ということなのだ。箱の中に手を入れている間は自分の意思で好きなように選べたのにも関わらず、おみくじを掴んで箱から出した瞬間、あなたはどちらかしか引けなかった人になる。どちらも引くことができたのに、どちらかしか引けないのだ。

 気が付くとそんなことを考えていて、僕はとても不思議な気持ちになった。なぜ、どちらを選んでも良いのに、誰にも邪魔させず、誰にも強制されず選べるのに、どちらかしか選べないのだろう。
 小学校の時の席替えのくじ引きも思い出した。箱の中には4つに折り畳まれた紙が2枚。黒板を見ると残りの席は一番後ろか教壇の真ん前。一番後ろの席になると隣には仲の良いアイツが。教壇の真ん前になると周りには話した事もない奴が固まっている。僕は残りの2枚を見つめる。絶対に後ろの席を引いて最高の二学期を過ごしたい。そうするためには、自分の手で後ろの席を引き当てるしかない。2分の1の確率で天国か地獄かが分かれる。どっちを引くか。確実にどちらをも引ける状況で僕は1枚選ぶ。紙を開くと鉛筆で書かれているのは「4」。前列のドア側から四番目。僕は自分の意思で教壇の前の席を選ぶことになる。「ああ、違う方を選んでおけばよかった。どちらも選べる状況でなぜ僕は要らない方をわざわざ選んだのだろう」

 僕は本当にそれを自分で選んだのだろうか? それとも「起こったこと」を受けた後に、自分がそれを選んだか選んでないかを決めているのだろうか?

 そんな当たり前のことが分からないのかい。と呆れられるかも知れないが、僕は去年の冬、ソファでゆっくりしながら、生まれて初めてのすごいことに気付いてしまった。
それは、
「起こったことだけが起こった」
ということである。
 パラレル宇宙の話(幾つもの宇宙があって、全ての可能性が分岐して存在している。みたいな)などは置いておくとして「起こったことだけが起こった」というのは「そうではないんじゃないか」と考えてもやっぱり「そうだな」と思う。
 逆に「起こったこと以外が起こっていない」と言うこともできる。なぜならば「起こっていないから」

 そんなことを考えて生活していると、その1ヶ月後くらいに、2021年の年末に何かの偶然である本を読んだ。

時の流れの呪縛から解き放たれたビリー・ピルグリムは、自分の生涯の未来と過去とを往来する、奇妙な時間旅行者になっていた。大富豪の娘と幸福な結婚生活を送り……異星人に誘拐されてトラルファマドール星の動物園に収容され……やがては第二次世界大戦でドイツ軍の捕虜となり、連合軍によるドレスデン無差別爆撃を受けるピリー。時間の迷路の果てに彼が見たものは何か?

 カート・ヴォネガットの『スローターハウス5』だ。
 とても有名な作家の有名な本なので、内容を知っている人もいると思うが、この小説には度々こういう文言が出てくる。
So it goes.(そういうものだ)
この言葉は至る所にあり、およそ100回近くは出てくる。そして、そのほとんどが死に関連する場面で使われる。たとえば、主人公が敵国の捕虜になることに対して、たとえば、空爆を受けて人々が死んでしまうことに対して。自分に降りかかる不幸、身内の死。
 すべての起きたことに対して、主人公は常に「そういうものだ」という姿勢で向き合う。

 1999年に作られた映画 ポール・トーマス・アンダーソンの『マグノリア』でも似たような言葉が出てくる。

SEXを説いてまわるカリスマ青年、余命幾ばくもない人気番組の司会者、ドラッグ中毒の女性に恋してしまった警官…。 その街に住み、それぞれのアメリカン・ライフを送っている一見何のつながりもないように見える彼ら。 そこで起こった偶然と不思議なめぐり合わせ。好むと好まざるとに関わらずやがて彼らは一つになった。その衝撃の出来事によって…。

 ロサンゼルスの住人たちの営みを描いた群像劇で、ある人の行動がある人の行動を生んだり、生まなかったり、何か真実めいたものが浮かび上がってはまた沈んだり。と、たくさんの「起こること」が起こるのだが、それが繋がり、ある程度の形を見せたかと思った終盤に、まさに「想像したこと以外のことで出来た現実」が目の前に現れる。その時に映る言葉がこれだ。

but it did happen(だが、それは起きた)
そして、登場人物の男の子がその現実に対してこう言う。
「あり得る」

𓆏ゲロゲロ

 可能性が無数にあるように見えているし、実際に自分の意思によって何かを選んでいるはずなのに、なぜ起こることは一つなのか。いろいろなことが起こる状態があって、どうなっても良いはずなのに、なぜどうにかしかならないのか。
 いや、そもそも「何が起きてもいいはず」であることを忘れているのだ。
 「起こったこと」に直面した時に身体を硬直させたり、思考を停止させてしまうのは「それが起こってもおかしくない」という自分に都合の悪い可能性を排除したところのみで、小さい貧しい想像をし、自分の見ている世界はすべてコントロール可能だと思い込んでいる、そのどうしようもない頭に問題がある(僕の)。
 ある程度、現実に起こることは限られていて、自分はその選択肢を知り尽くしているという過信。

 そういうものだ。だし
 だが、それは起きた。なのだ。

 「実はそうではなかった」ということにびっくりしていかないとダメなのだ。

✳︎

 2022年の3月4月の2ヶ月間、引っ越しの短期バイトをしていた。社員であるドライバーの横に乗って、主に二人で作業を進めていく。社員は数人いて、ローテーションでチームが組まれていくのだが、その中に一人「こいつ嫌だなぁ」と思う奴がいた。無精髭に長い間染め直してない中途半端な茶髪の、いかにもヤンキーという見た目の奴だった。車内に二人だというのにほとんど会話もせず、言葉遣いも荒く、物の扱い方も雑だった。どうせ同じ時間働くなら、気分よくやりたかった。朝、ホワイトボードのチーム表を見て、そいつと同じ車であることが分かると途端に気分が落ち込んだ。
 事務所の休憩室にはTVがあり、常に電源が入っていてどこかの番組が映されている状態だったのだが、ある日、というより3月11日。どこの番組もそうだったが、東日本大震災から11年という特集をやっていた。そして、丁度津波が押し寄せてきた時刻になり、被災地で黙祷する人々の映像が生中継されていた。
 その時、休憩室には僕と他のアルバイトとヤンキーがいたのだが、ヤンキーはTVには目もくれず、テーブルに足を乗せてスマホゲームをやっていた。人々が黙祷する映像が流れる休憩室の静寂の中、ヤンキーのスマホゲームの音だけが鳴り響いていた。
 僕は「こいつ何も思うことがないんだろうな」と正直、そう思った。

 それから数日後、他のドライバーのトラックに乗ったときに、ヤンキーは岩手県の大船渡市出身で実家や通っていた学校が全て津波で流されている。ということを知った。 
 その事実を僕が知り、僕の態度が変わったから。ということではないのだけれど、その後、ヤンキーのトラックに乗る回数が増えていくにつれて、ヤンキーと深い会話を交わすことが多くなり、ヤンキーの考えなどを聞いているうち「誰よりも情のある熱い人間なんじゃないか」と思い、尊敬さえした。
 3月の末、僕が最終日であることを知ると「ジュース奢ってやるよ」と言い、抹茶ラテを買ってくれた。たかが130円ほどの抹茶ラテだったがとても美味しかったのを覚えている。

 僕がヤンキーに抱いていた思いや決めつけは、全くの思い込みだったのだ。だが、僕は最初、自分の思っていることを「間違いない」と確信し、疑いさえしなかった。

 あなたが見ることができるものに「実際に起こっていること」は、あなたが見えているものと、どれくらい違うのだろう──。

(ちなみに、先程紹介した『スローターハウス5』を休憩中に読んでいる社員がいて、びっくりした)

✳︎

 たとえば、適当にネットを見る、TVを観る、雑誌を読む。
 毎日いろんなことが起きている。最近もいろんなことが起きていた。そして、いろんな「起きたこと」に対して、いろんな人がいろんなことを言っている。そういうのを見たり、読んだりして、なんとなく感想を持ったり、持たなかったりする。もちろん、自分が信頼して積極的に見に行ったり、聞きに行ったりしている人の話は「なるほど」と思う。そういう話はとてもためになる。ためになる話があって、また、どうしようもない話がある。良いと思う出来事があって、悪いと思う出来事がある。理解できる考えがあって、理解できない考えがある。好きな人がいて、嫌いな人がいる。
 でも、もしかしたら、そういうものだって、実は簡単に揺らいでしまい、いつでも逆転してしまうものなのかも知れない。僕はいつも想像に逃げて、想像に依存することで、自分の身に起きたことを、自分の身に起きたこととして捉えて、真剣に向き合うことができなかった。現実は「そう」なっている。と覚悟して、まともに見ることができなかった。でも、どうすればいいかはまだ分からないけど、少しだけ方法を変えれば。いろんな場所で、いろんな人の間で起こり続ける、あらゆる「起こり」に対して「そうじゃない可能性もあるんじゃないか」という見方を身につけることができるかも知れない。「こうだ」と決まっているように見えることを「そうかも知れないけど、そうじゃないかも知れない」というふうな目線で見ることができるかも知れない。たとえ、それで個人的な誰かを助けることはできなかったとしても。

✳︎

 さて、現実は自分が想像できること以外のことで出来ているのかも知れないと、それっぽい題名をつけていろいろ書いたが、別にどこにも着地はしなかった。なぜ画像にエヴァンゲリオンの最終回を使ったのかも分からない。でも、とりあえずは今日、こうしてちゃんと6000文字くらいは書いたので、自分のためにはなった。友達が数人読んでくれたら、それでいい。とりあえずは推敲もしない。現実は自分が想像できること以外のことで出来ているのかも知れないし、そうではないかも知れない。
というか、そういうようなことも含め「自分が思った」とかいうそれ自体、「自分が思っていたほど、自分は思っていなかった」んじゃないかということも疑ってみていいのかもしれない。

 さて、明日は何が起こって、何が起こらないのだろうか。
 少しも想像できない。


 おわり。 渡辺浩平



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