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17 千の風と現代人の死生観/葬式仏教の世界観④


 平成18年に「千の風になって」という曲がヒットしたことを覚えている人は多いだろう。実はこの曲のヒットは、仏教界にとってかなりの衝撃だった。

 それは、歌詞にこれまでの仏教のあり方を否定しかねない内容があったからだ。特に問題になったのは、次の二つのフレーズだ。

「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません」
「千の風になって、あの大きな空をふきわたっています」

 つまり、お墓に「私」はいないということ、「私」は空を漂っている、ということである。「私」は死んでいるので、〈亡くなってからも存在する人格的な存在〉、つまり霊と考えてよいだろう。

 例えば私の周りでも、こういう歌が流行っている現実に対して、「伝統的な死生観を否定するものだ」「供養の大切さを否定している」などと、批判的な意見を述べている僧侶が少なくなかった。

 さらには、高野山真言宗や浄土真宗本願寺派の教団トップが批判的コメントを出すなど、異例の事態にまで発展している。高野山真言宗の管長だった松長有慶師は「亡くなった人まで利用して、自分の寂しさを癒やされたいと思う現代人の身勝手さ」(朝日新聞大阪版2009年4月4日付)と述べ、浄土真宗本願寺派の門主だった大谷光真師は「自力の修行も他力の救いも関係なく、故人を自然現象に置き換えるだけであっては、物足りない気がいたします」(浄土真宗本願寺派ホームページ/2007年 秋の法要 ご門主法話)と述べている。

 これら二人の教団トップのコメントに共通しているのは、歌詞が情緒的で、その場しのぎに過ぎず、宗教的に浅いのではないのか、という考えであろう。さらにその根底には、仏教の教義に反している、仏教には死者がそのへんを漂っているという考えはないのだという意識があるのではないかと思う。

 一方、一般の僧侶の多くは、死者がお墓にいないという考えが、お墓否定につながるのではないかという恐れを無意識にいだいていたように思えた。事実、檀家からこの歌について質問され、「死者がお墓にいないなら、墓参りしてもしょうがねーな」などと嫌味を言われたなどという話も聞いたことがある。

 教義的にも許しがたい、お墓のあり方を否定するのも許しがたい、ということである。

 ただ、確かに教義的には浄土という存在を無視している歌詞であるが、そもそも、人が死んだら行く場所が「浄土である」と確信している人は少ない。歴史的にも庶民には、山の中、海の向こう、草葉の陰、あるいは我々の近くにいると考えられていた。現代でも、あの世、天国、身近などこかなどと考えられている。もちろん、仏壇に手を合わせる時には仏壇に、お墓に手を合わせる時にはお墓にいると考えられている。

 前述のように日本人は、その時、状況によって、死者は「いる」と思った場所にいると考えている。死者の居場所はとても曖昧である。曖昧であるゆえに、いつでもどこでも死者を感じることができる。

 この歌のように、死者はお墓にいない、空を漂っている、と言われても、別に変わったことを言っているわけではない。むしろ伝統的な霊魂観と共通する部分も大きい。

 万葉集では、死んだ人の霊が、空に登っていくという歌が多く歌われている。

 例えば柿本人麻呂が無くなった時にその妻は次のような歌を歌っている。


直(ただ)に逢はば逢ひもかねてむ石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ


 どうしても夫に逢いたいが、もう逢えないなら、雲を見て夫を偲ぼうという意である。つまり夫である柿本人麻呂の霊は、雲となって漂っていると考えていたということだ。万葉の時代から、日本人はこうした感覚をもっており、ごくごく自然なことであるのだ。

 ちなみに、「そこ(お墓)に私はいません」という歌詞に共感した人が、お墓参りをしないかというと、そうではない。「千の風になって」を聞いているときは、その歌詞に感動し、お墓の前に行くと故人を想う。信仰というのはそういう曖昧さを持っているのだ。人の心や信仰というものは、理屈では割り切れないのである。

 この歌が多くの人に受け入れられたのも、現代人の信仰が浅くなったからでもなく、死生観を持たなくなったからでもない。むしろ日本人の根っこにある感性に訴えかけるものがあったからではないだろうか。

 それは日本人にとっての信仰が、教義的な仏教でなく、感性的な葬式仏教であるからである。身近に死者を感じること、それが葬式仏教の原点なのかもしれない。(続く)

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