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1 葬式仏教の光と影/葬式仏教の研究

仏教は生きるための教え?

「葬式仏教」、この言葉を聞いて、皆さんはどういう思いを持つだろうか?

 ほとんどの人は、葬式仏教という言葉によいイメージを持っていない。
「仏教は、本来、すべきことをせずに葬式ばかりやっている」
「仏教は、葬式で金儲けばかりしている」
「葬式仏教は、仏教の堕落した姿だ」
 そんなことを思い浮かべる人がほとんどでは無いだろうか。この「葬式仏教」という言葉が使われる時、必ずそこには仏教を揶揄するニュアンスが含まれている。そして必ず、こうした言葉が付け加えられる。
「仏教は本来、生きるための教えである。葬式や先祖供養は、本来の仏教には無いのだ」と。

 それは確かにその通りである。
 しかし私は、そんなに簡単に、葬式仏教を否定していいのかという、思いを持っている。
 例えば、こう考えてみたらどうだろうか。
 ある日、突然、日本中のお寺が「仏教は本来、生きるための教えを説く宗教だから、今日から葬式や法事は一切やりません」と言い始めたとしたら、どうだろうか。
 困る人が出てくるのは間違いないだろう。葬式をしてもらいたいのに、してもらえないのである。場合によっては、怒り始める人も出てくるだろう。「そんな無責任なことでいいのか」と。
 中には、「お坊さんを呼ばなくていいなら、そっちのほうがいい」と、それを歓迎する人もいるかもしれない。お寺が葬式をやらないなら、他の宗教で葬式をやればいいと考える人もいるだろう。
 でも、大多数の人は、やはり仏教が葬式をやらないと困るのである。既に葬式仏教は、この社会に無くてはならない存在になっているのである。
 誤解をして欲しくないのは、「仏教が葬式仏教で、何が悪い!」ということが言いたいわけじゃ無い。

葬式仏教の光と影

 私が言いたいのは、次の二点である。
 ひとつは、葬式仏教にもいいところはあるということだ。いや、むしろ、とても素晴らしい宗教だと言っても過言では無いだろう。亡くなった家族や知人を大切に想い、その後も、亡くなった人への想いとともに暮らし続けるという日本人の宗教観は、葬式仏教によって育まれてきたのは間違いない。
 もうひとつは、その一方で現代の葬式仏教は、現代社会との間に大きなズレを生じており、それが人々に大きなストレスを与えているということである。
 現代の葬式仏教には、こうした光の部分と影の部分があるのである。

 今回、このNOTEに「葬式仏教の研究」を書こうと思ったのは、葬式仏教という問題を、社会の側から一方的に仏教を批判したり、仏教側から一方的に教義論で反論したり、ということではなく、感情論ではなく、冷静に葬式仏教を考えるきっかけにしてもらいたかったからである。
 社会側から仏教を批判する気持ちはよくわかる。ただその批判は、「坊主丸儲け」などのイメージが先行し、批判の矛先がお金の問題に終始してしまいがちである。
 また僧侶がそれに反論する気持ちもよくわかる。ただその反論は、「本来の仏教は」と教義論で押し切ろうとするだけで、一般の側の声を聞こうとする姿勢が見られない。僧侶に教義で説明されたら、気持ちで納得していなくても、受け入れざるを得ないのである。
 仏教は教えに基づく宗教であるのは間違いないが、同時に、社会的な存在でもある。社会との対話をしようとしない宗教に、未来はないのである。

 筆者は、寺院の運営コンサルティングの会社、株式会社寺院デザインの代表を務めている。同社は、これまで十三年にわたって、様々なお寺の悩みを聞き、様々なお寺の運営のサポートをしてきた。
 その中で前述の問題意識に基づいて、葬式仏教価値向上委員会という団体をつくり、意識ある僧侶の方々と、これからの時代の葬式仏教はどうあるべきかという問題を議論し続けてきた。この委員会には、これまでのべ1000人近くの人が参加している。仏教界にも、社会の声を聞き、仏教と社会とのズレを何とかして無くしていこうとする僧侶が増えつつあるのである。

人の営みとしての葬式仏教

 これまで仏教は、教えを中心に語られてきた。書店の仏教書コーナーには、思想書とでも言うべき本がならんでいる。お釈迦さまの教えの本だったり、親鸞や道元についての本だったり、といった具合だ。
 しかしそれは、あくまで知識人の仏教である。ほとんどの人は、そうした教えについて興味を持たない。
 ただそれでも日本人のほとんどは仏教徒である。よくわからないけど仏壇の前で手をあわせ、お墓の前で手をあわせる。家族が亡くなれば葬式をあげ、一年が過ぎたら一周忌を行う。観光でお寺に行けば、賽銭をあげて、何か願い事をする。場合によっては、困った時だけお寺で手をあわせて、仏様にお願いをする。今も昔も、仏教徒のほとんどは、そうした素朴で、非論理的で、ぐちゃぐちゃしていて、自分の欲望すら信仰で解決しようとする人たちばかりだ。ご都合主義で仏教とつきあっている。ひいき目に見てもお行儀のいいものではない。
 しかしそこには、生き生きとした人生と、幸せに生きていきたいという願いと祈りがつまっていることを忘れてはならない。教えを学び、清らかな宗教的生活をすることだけが宗教ではない。日々生活しながら、亡くなった人の安らぎを願い、日々の暮らしの安寧を祈るのも信仰である。
 この「葬式仏教の研究」では、そうした人の営みとしての葬式仏教について考えてみる予定である。


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