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【論考】星野智幸氏寄稿「正義に依存するリベラル」を鼓舞する魔法の言葉

作家・星野智幸氏の寄稿文が注目

27日に朝日新聞に掲載された作家、星野智幸氏の論考「言葉を消費されて 「正義」に依存し個を捨てるリベラル」が話題になっています。星野氏はいわゆる左派リベラルの属性の文化人。メディアの取材に応じる場合、保守派、右翼的言説、伝統主義への批判が主です。ご本人には申し訳ありませんが、朝日新聞など左派メディアの御用文化人という色が強い人物でした。

ところが今回の論考では現状のリベラルに対しても危惧した内容です。

現在、左派は「人権・環境・反戦」など非常にエキセントリックになっており、全く異論を許さない雰囲気があります。通常、それは先鋭化と呼ばれています。

でも、⼀度気づいてしまうと、もう知らんぷりはできない。私は、⾃分が社会批評的なこ とを述べているとき、⾃ら世のリベラルな⾔説に合うように、もっといえば美味(おい)し く消費されるように盛りつけて差し出している、という嫌悪感をぬぐえなくなった。 それで理解に⾄ったのである。リベラルな考え⽅の⼈たちは、「正義」に依存しているの だと。  リベラルな考え⽅に理があるかどうか、現状に即して公正かどうかという判断と、リベラ ルな思想は「正義」であって絶対的に正しく否定されることはありえない、という感覚を持 つことは、まったく別の問題である。⾃分を含めリベラル層の多くが、じつは後者を求めて いると私は気づいた

星野氏はこれまで「日本人依存」がカルト化していることについて危惧してきたと。ところが「正義に依存するリベラル」自体がカルト化していたことに気付いたというわけです。

個人的には「今さら?」という思いもあります。そしてリベラル的の尖った言説に価値を与えてきた朝日新聞にこの寄稿が掲載されたことにも驚きました。

リベラルが依存する正義の意味とは

「リベラルな考え⽅の⼈たちは、「正義」に依存」とはどういう意味でしょうか。そもそも「正義」とは立場、視点によって異なるものです。もちろん殺人、誹謗中傷、窃盗、詐欺行為などに「正義」は存在しないとしても。

私は現在のリベラルが依存する正義とは「特定団体・特定民族、一部野党、党派性を同じくする者」を擁護することだと思います。

例えば「冤罪を許さない」という一つの正義があります。冤罪はどんな対象でもあってはならないこと。そして冤罪問題というのは戦後左派の一大テーマでありました。ところがどうでしょう。仮にリベラル左派が憎悪する人物に冤罪が起きた場合、今のリベラルは声を挙げるでしょうか。否です。

発言が「不適切」「差別」と糾弾される場合、いわゆる「キリトリ」をしてまで差別者に仕立て上げられることもありました。

そして次にこう訴えるはず。

「アイツの仕事を奪え。生活の糧を奪え」
と。まるで現在の魔女狩りです。この中には反差別に取り組む社会団体の活動もいます。人権擁護以上に必要以上の社会的制裁を与えることが果たして「リベラル」なのか悩ましい。

私が私淑するⅩユーザー、将鼓氏は過去、noteでこう論じていました。
この中で同氏は不寛容や怒りのガン化と評していました。

恐ろしいことにこの一派は当事者、関係人物でもありません。ところがガン化した面々は自身に1㎜も関係しない問題にただ怒る、制裁を訴える、生活を差し出せ、収入源を無くせ、と。

先の都知事選でColabo問題を追及してきた暇空茜氏を支持した岩下食品・岩下和了社長に対してXでは吊し上げのような罵倒が浴びせられました。リベラルの意に沿わぬならば支持表明ですら攻撃対象になる。もはやリベラル派はここまで不寛容になってしまいました。

正義依存を強めた魔法のフレーズ

ではなぜここまでリベラルは正義依存を強めてしまったのでしょうか。私はある魔法のフレーズが影響していると考えています。それは

「無関心が差別を助長する」

という常套句です。これは主に同和問題で使用されたものが広く左派に共有されています。「見て見ぬふりをするな」というわけですね。一見は綺麗な文言です。しかしある被差別対象に対して関心を持った結果、批判的な結論を得る可能性もあります。この場合、運動体側の主張、方針に沿った「関心の持ちよう」が正解。それ以外は差別者というわけです。

ところがこのフレーズの真意は「見て見ぬふりをするな」ではありません。

左派内における一種の集団的自衛権なんです。「俺たちの憎悪を共有せよ、そして共に参戦せよ」という一種の戦意高揚用語といえます。

何もしなかった場合、自身が「差別者」と言われかねない。だから無関係でも参戦してしまう。そして「仕事を奪え」「家族も許すな」と攻撃を始めるでしょう。

こうした場合、「人権擁護」あるいは「反戦」「環境」といった大義がつくもの。激しい攻撃であっても「正義」という認識を持ちます。そして恐ろしいことに異常な連帯感を生みます。特に社会的な属性がない人、いわゆる「無敵の人」が加わったらもう目も当てられない。

正義依存のリベラルたちの多くは「そもそも自分たちがなぜ怒っているのか」「事実関係は何か」を説明することはできないでしょう。それでも仲間のピンチだ! として「正義」を信じて闘うしかない。激しく攻撃をすればするほど善行を行ったと錯覚してしまう。

これが正義依存の正体です。

ただ正義依存のみなさんこれだけは覚えておきましょう。人権、平和、環境、こういった分野で尖った意見を尊重しマスコミ、野党の扇動もあり世のリベラル派は先鋭化を進みました。

鉛筆で考えみましょう。鉛筆の芯は丸くなると削られます。そうです、尖り続けなければご自分が削られてしまうでしょう。すなわち「排除」。正義に依存した結果の悲劇ですね。



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