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ドラマ『エルピス』の余韻

2023年1月4日にStand.fmにて音声配信したものです。


<以下、文字起こし>

2023年の初の配信はドラマ「エルピス」のことを記録に残しておきたく、お話しようと思います。
「エルピス」、ご覧になりましたか?
去年の12月26日に最終回を迎えたドラマで、もう終わってはいるのですが、この配信のタイトル通り、余韻が、ねぇ。
ずっとエルピスのことを考えてるんですよね。
そのくらいインパクトを残す物語だったんですよね。私には。

私は毎回すごく深く染み込むような感じで受け止めて観ていました。
物語の終わり方も見事なんです。
めでたしめでたし、とかじゃない。
何かが解決したとか、わかりやすさじゃないところで、すっと終わるっていう。

「あなたはどうする?」っていう課題っていうのかな、それを残して、手渡されて終わるっていう、これが物語の力なのかもしれないなって思ったんです。
なんでそんなふうに余韻というか、ずっと考えるようなことが置かれていたのかなと、どういうことからそれを受け取ったのかなって、それを整理したくて、ここに置いていきたいと思います。

最終回が終わるまで、それほど「エルピス」について書かれたものをじっくり読んでいませんでした。あんまり情報が入るのもなって思って。
終わってから、ネット上にあるプロデューサーの方、脚本家の方のインタビューとか記事とか、結構量が多かったんですが、一通り拝見できる範囲は全部読んだんです。
で、どんなものが物語の中に配置されていたのか、それによってこんなことが感じられた、というのを、私なりに、自分の感覚とそれら書かれたものを合わせて感じたものをここに置いていきたいと思います。

ていうことは、ネタバレ必須です。
これから録画でゆっくり見るという方は、これは聞かないほうがいいと思います。一回一回がとっても贅沢な仕掛けがこらされているから、ネタバレされたらアウトです。
「犯人は誰」とか、そういうタイプのネタバレではないのですが、どこに着地するのかがわかって観るのと、「どうなるどうなる?」って観るのとでは全然違うので、これは聞かないようにしてください。


ちなみに、ここから先聞こうとされているあなたは、「見たよ!」っていうことでいいですね?

「見たよ」って方、はい、手を挙げてください。

「エルピス全部見たよ!」 

なるほど、全部観ましたね。
では、復習のようにちょっと振り返りますね。


ざっとあらすじや背景など。

まずはあらすじなど。
これはテレビ局を舞台にした物語でしたね。
佐野亜裕美さんというプロデューサーの方と脚本家の渡辺あやさんっていう方がタッグを組んで、実在の複数の事件から着想を得て6年前から紡ぎ始めた物語です。
6年前にいったん10話まで完成していたといえばいいのかな。
ただ、内容が内容なだけに、すぐにGOがかからない。
どこへ持って行ってもダメだ、みたいな時に、佐野さんがカンテレに転職。
カンテレでなら放送できる、ドラマが作れる、ということで、カンテレで2022年に制作した物語です。
2016年に端を発していて、2018年には10話までできたということらしいですが、2018年当時の時制でやるには、あらゆるものが、コロナ禍があったり、あと「#MeToo運動」とかあってハラスメント関連がより良い方へ動いたのですが、2018年ごろで作っていた物語だから、「そのハラスメントどうなの!?」っていうものが散りばめられていて、話を通すのが難しいところがあったようなんですね。
一応現代に置き換えてもいいんだけれども、あの当時の空気を残したかったというのと、あとは、今はコロナ禍なので「マスクある/なし」とか、パーティション必要とか、コロナ禍の規制みたいなものが、ドラマの筋とは違う形で乗っかってくると。それがノイズというほどではないけど、描きたいことが描きづらいということで、ドラマの設定を2019年かな、そこに置いたみたいなんです。
なので、2019年当時はもうちょっとハラスメント等の規制が(現在より)緩いので、結構ひどいセクハラ、パワハラが展開されてます。
テレビ局内での女子アナとか若手に対するパワハラがひどいっていうのが、1話から目立っていたと思います。
スキャンダルでエースの座から転落したアナウンサー・浅川恵那(長澤まさみ)と仲間たち、岸本卓郎(眞栄田郷敦)とかチェリーさん(三浦透子)たちと、女性連続殺人事件のえん罪疑惑を追う中で、一度は失った“自分の価値”を取り戻していく姿を描く、というのがあらすじとして書かれています。
こう聞くと、まあ社会派のドラマで、連続殺人事件のえん罪の真犯人が明らかにされるのがゴールのような感じですが、そんなところではない、犯人探しのドラマじゃないよ、ってところがまず大きな入り口かなって思います。
3話ぐらいから、「あ、犯人探しじゃないのね」ってなります。

その他のメインキャラクターとしては鈴木亮平さん。
後半出番は少ないんだけれども、最終回の浅川恵那との対決が見事でしたね。
そして、何といっても外せないキーパーソン、村井さんですね。演じるのは岡部たかしさん。この4人で主に話が織りなされていきます。
長澤さんと郷敦くんのダブル主演ですよね。
2人のモノローグで紡ぎ出され、織り込まれていくものを、私たちは見るというかたちになります。

’社会派ドラマ’という立て付け

ひとまずは、社会派ドラマっていうふうには位置付けはなってます。
えん罪事件を扱っているので。あとね、女性差別問題も取り扱っているわけです。
長澤まさみさん演じる浅川恵那というのは女子アナなんですが、これが日本独特の職業、位置付けらしいんです。
海外だと、アンカーとかジャーナリストとかで、「ものをいう自分(個)」としてテレビの前にいるんだけど、(日本では)女子アナっていうのは自分の言葉で語ることを許されないポジションなんですよね。
原稿を読んで「私はこう思います」っていうのは要らないと言われる。
若くて美しい外見を持った外見を持った女性だけが就くことができる職業という、海外にはないかたちで存在するらしいんです。
それ自体が大きな問題をはらんでいて、それが日本の問題を象徴しているのではないか、と、プロデューサーの佐野さんが言っています。

「浅川恵那が他者から評価されるっていうところから脱却して、自分の価値を取り戻していくというのが、エルピスの物語の大きな縦軸になっている」

佐野自身が描きたかったテーマの一つだそうなんです、女子アナを通して日本の女性の差別問題を扱うことが。
冒頭に言ったように、結構なパワハラワードが出るんですよ。
「貧乳が」とか「クズ」とか村井さんが言うわけですよ。
最後はヒーローになる村井さんがね。
もっと抑えたほうがいいかも、という話もあったようなんですが、渡辺あやさんはそれを一蹴したと。

「何でも抑圧して排除して見えないことにすればいいっていうものではない。それはちゃんと置いていかないといけない。不都合な欲望にも置き場所がないといけない。古くからそういう役割を担ってきたのが、文学や芸術だったはずなんです」

「今」を切り出してきちんと置いてみせるみたいな、なかったことにというのではなく、「過激だからやめておこう」というのでもなく、過激なものがそこにあるのだから、そこに置いていこう、と。
すごいなって思いました。

そして、えん罪事件というのも、日本の司法制度は国際社会と比べるとずいぶん遅れているらしいんです。
「人質司法」と言う言葉もあり、弁護士の帯同も許されないし。
えん罪が生み出され、しかもえん罪の裏側に大きな力が働いている。
死刑執行がどんなふうに行われるのか、いつ決定されるのかも一般の国民にはタイミングすら見えない、みたいな闇も描かれていましたね。
このへんが社会派と言われる大きな軸です。

表裏一体、二律背反

「今」の在り方そのまま見せることで、見る側が「受け取るべきもの」を受け取る、と。これがいけない、これがすごい、やばい、ということではなく、そういう事実がある。そこから自分が思うこと、やれること、っていうのを考える材料として提示されたんんだなって思っています。

あとね、ずっと横たわっていて、後半は常に聞こえ続けていたのが、「正義と悪」みたいな、完全な正しさ、完全な悪っていうのはないんだよ、決めつけられないんだよってことだったり、それはちょっとひっくり返せば悪にもなるよ、と。
二律背反とか、表裏一体みたいなことを、「これが正しい」と決めつけるのではなく、常に点検していかなくてはならないってことをずっと言っていたなって思います。
「善と悪」「希望と災い」みたいな、見方を変えればどちらとも言える、その危うさ、脆さみたいなものに向き合うべきだし、気づくべきだし、人とそういう対話をしながら考えていくべきだという話をこのドラマはしていると思います。
そもそもタイトルがそうですよね。
「エルピス」。
古代ギリシャ神話でパンドラの箱っていうのがありますよね。その中からさまざまな災厄が飛び出したと伝えられるパンドラの箱。
その中に唯一残されていたとされているのがエルピスなんですって。
これが「良きことの予測」として「希望」と訳されたり、「悪しきことの予測」として「予兆、予見」と訳されたりするらしいんです。どっちともとれる、まさに表裏一体。
わかりやすくサブタイトルも「希望、あるいは災い」とついています。
だから、この話をずっとするんだよって最初から伝えているということですよね。渡辺あやさんはたとえばコロナもそうだと言っています。
災いなのか、希望なのか。
もちろん最初は災いだけど、これが100年経った時に、あそこであのコロナが大変良いことだったのだ、ということになったり、良い方向へ社会が変わる契機になった、みたいな解釈が100年後主流になっているかもしれない。
起こっている物事を「善」とか「悪」とかいつだって解釈しやすいように振り分けたい、早く決めたいってなるけど、本当はどちらとも言えないんじゃないかなっていうのはずっと感じていて、その「どっちって一言で言い切れないよね」っていう思いをみんなで共有する、そこが大事なんじゃないかということのようです。

芸術や文学が担う役割とは

結果を伝えるのが作品や物語を作る責任ではない、と渡辺さんは言っています。

「自分たちができるのは、せいぜい問題がどういうことなのかということを、ときほぐしてお伝えするまでであって、それをどうしたらいいのかっていうのは、私がわかるわけではない」

それを差し出すということをされているわけですね。
私はそれを差し出されて受け取って、今ずっと余韻の中で、自分の身に置き換えながら考えているわけなんです。
この「エルピス」、表裏一体っていうのは、物事や人間の多面性の話なんだなってことにもつながるなと思います。いろんな人のいろんな面を見せつけられたドラマでしたよね。同じ人の中にある良き心、悪しき心、いろんな側面がリアルに描かれていたなって思います。
善か悪かについては、ドラマの中でも腸内細菌に例えて、わかりやすく説明していたシーンがありましたね。
腸内細菌に善玉菌、悪玉菌があるわけですが、それはこの菌が良い、この菌が悪玉って振り分けられているのではなくて、いろんな菌が多種多様にバランス良く存在していることが、実は腸にとっては理想的である、全部いることが、引きで見たら理想的であると。
悪だから排除っていうことではないと。
そのあたりも人間社会に置き換えながら伝えていたと思います。

人間の多面性もリアルに

人間の多面性で言えば、浅川恵那さんも多面性を持った女性として描かれてましたね。
最後は強い自分の気持ちだったり考えで立ち上がることにはなるんですが、強い女、聡明な女性ってだけではなくて、鈴木亮平さん演じる斉藤正一、元局員で今は政治家秘書、浅川から見たらダークなほうに染まっている、権力に飲み込まれているような男ですが、魅力的な男であることに違いはなく、「この人に惹かれてはだめ」と思いながら魅力に呑み込まれてしまう。
立ち上がったかと思ったら、恋愛のほうの「弱い恵那」としてしばらく過ごしてしまったり、と揺れ動くんですよね。
でもその時に岸本拓郎が頑張っているのを見て、あるいは衝撃的な事実を知って、「あ、このままでいけない」また立ち上がる。
そういうことの繰り返し。
聡明だけど弱くて流されて、でもみんなのことを考えて、っていう、何とは一言では言えない多面性を浅川さんは持っていたと思います。それがリアルでしたね。
そういう人は、テレビ局だけじゃなくて、いろんな組織の中に生きてるよねっていう、あの人っぽいとか自分っぽいとか、重ね合わせられる要素もいっぱいあったのかなと思いました。

ホモソーシャルの頂点に立つ’斉藤’

そして、これは見終わってから、いろんなものを読む中で言葉を知ったんですが、鈴木亮平さん演じる斉藤についてです。
「なんだよ、斉藤」みたいな感じではあるんですが、あの人はホモソーシャルの頂点にいる男で、オム・ファタールなんだそうです。
そう聞いて「なるほど!」と整理されて、すっごいすっきりしたんです。
ホモソーシャル、男づきあいの中で、男が惚れる男。
「もう別格だよな、あいつのやり方、能力」って、男社会の中で認められ、どんどん上に上がっていく力を持っている男って、ホモソーシャルの頂点に君臨している上に、さらにオム・ファタールであると。
女の人にとってすごく魅力的なあるようなやり方を身につけている。
計算づくで迫ってくる。
それに浅川恵那はよれ、よれ、と、飲み込まれていくっていう。
なので、オム・ファタールの物語であるとも言えるらしいんですね。
斉藤のみならず、真犯人の本城章役の瑛太さんもそうですね。
瑛太さんは3話だったかな、いきなり出てきましたよね。
完全に怪しすぎる、ビッグネームの突然の登場。
「ああ、真犯人かな」ってわかりやすいわけですが、真犯人かどうかってことは大事ではなくて、彼に会った瞬間から飲み込まれて動けなくなった浅川恵那がいると。魔力のような魅力で。
殺されてしまった女性たちも飲み込まれていったんじゃないかっていう、そういうオム・ファタールって存在も描いていたんじゃないかと。
男の中で君臨していて、かつオム・ファタール。
女にしか見せない顔で女の人を惹きつけるっていう要素を、鈴木亮平さんがめちゃめちゃうまく演じていたんですよね。
「別に興味ないから」って恵那が無理して突き放したように振る舞うシーンで、斉藤は、「じゃ、なんでベッド買ったの?」って。
あの台詞、やばかったですよね。
あと、「好きな女とうまいもん食いたい。そうじゃないと、こんなしんどい思いして働いている意味なくね?」みたいに言っていて、あれは女の人側からすると、もう、持っていかれますよね。それをわかっている男だと。

ホモソから逸脱した男たちの絆をも描く

さらに、ホモソーシャルをベースにして出来上がっている社会において、トキシック・マスキュリニティというのがあるらしいんです。
「男性優位な社会の中で、有害な男らしさをふりまく」ということらしいんですが、男の人はその社会に存在しないと居場所がないという現実もあるらしいんですよ。
そこは全然私は視点を持っていなかったので、新しい気づきでした。
たとえば、9話かな、拓郎と大門亨さんが取材の中で話し始めて、大門亨が「信じられる人がいるというのがすごく嬉しい」って語ります。
拓郎も自分の中学校の時の、友人を自殺に追い込んでしまった十字架を背負っていて、大門には心を開いてその話をするシーンがありましたね。
「あなたは1人ではない」ってお互いがお互いを支え合うような場面でしたが、ホモソーシャルの社会から逸脱した男2人の絆みたいなものも描かれていたわけで、そういうことまで描いているのか、と驚きました。

あそこは本当に、涙を誘うシーンでしたね。

さらに、シスターフッドもありましたね。
浅川恵那とチェリーさんね。
彼女たちはうっすらではありますが、シフターフッドの物語もあったなと思います。

そして、村井さん。
最後はヒーローになった村井さん。
ただのセクハラおやじかと、2話ぐらいまで「村井さんいなくなってほしい」と思ったあの村井さん。
最後は、また殻に閉じこもろうとする浅川恵那の殻をぶっこわして、本来の自分の言葉で語らなければ、と思わせた村井さん。

あの人、すごかったですね。まさに人間の多面性というか、物語として、最初は「バカ」「クズ」「ボケ」みたいに言いがちな嫌な昭和のおじさんみたいな側面を際立たせといてからの、心の中にふつふつとあって、まだ消えてなかったジャーナリズムみたいなもの、正義とか正しさを追いかけたい気持ちを、最後爆発させてきたっていう変化がすごくおもしろかったですね。
演出は大根仁さんが脚本家の渡辺さんに「何か注文ありますか?」って聞いた時に、「おじさんをかわいく撮ってほしい」って言われたんですって。
その時には大根さんは最終話までの台本を読んでいたから、「ああ、村井のことだな」ってわかったと。
村井さんがめちゃめちゃキーでしたね。村井さんいてくれてよかったって思いましたよね。

信じられることが希望であり、光

で、最後は、結局どこに着地するかっていうと、
「信じられる人がいることが希望であり光である」
「希望とは誰かを信じられること」
と、浅川恵那が最後モノローグで言うんですよね。
これ、脚本家の渡辺さんも語っています。

「信じられることが希望で、これが物語の本質的なテーマです」

プロデューサーの佐野さんもインタビューで語ってらっしゃいます。

「信じられることが希望だって最終話のセリフにどう辿り着いていけるかの、ある種の冒険劇であり、人生という名のロードムービーであるし、再生の物語でもあります」

最後、そこに持って行ったんだと思いました。
最終話で、スタジオで2人きりになった斉藤と浅川の対決がありましたよね。
一番報道したかった、大きな政治の闇みたいなものを斉藤が止めると。
でもそれとの引き換え条件でえん罪事件の真相を報道させてもらうと浅川が提示しました。これはまあ譲歩したといえるわけですよね。
闇を明るみに引き摺り出したかったが、それはできなかったと。
だからってそれが「負け」とか「日和った」というわけではなく、「やれることをやった」と。
そして仲間の「みんなに伝えて!」って言ってた浅川さん、すごいよかったですよね。
「できなかった」ではなく、「やれることをした」とか「信じられる人たちとアクションを起こした」ということの大切さなんだなって。

見ている人たちも、自分の立ち位置で自分の身に置き換えていろいろやれることはあるって思わせるエンディングだったなって思います。
「目の前の人を信じられることが希望」。
これはすっごく頷きました。
私も自分の家族とかのことを置き換えて考えて、気持ちを改めました。

最後まで見て、「何にも解決しなかった」とかSNSなどで言われているようですが、「どっちが正しいのか」ではないんですよね。
正しさに囚われすぎないで、常に「これでよかったのかな」とか視点を移していくという自分の用意とか、点検とかですよね。

「正しいことをするより夢を見よう」
「夢を見て楽しく前へ進もう」
っていうメッセージもありましたね。
それについても「はっきりしない」等の感想もあったようですけど、私にはすごく刺さったんです。
一歩一歩できることから、って思いました。
これは汎用性の高いことだとも思うから、みんなが自分のこととして考えられる要素が置かれたんだなって感じました。

単純に社会派って割り切れないし、犯人探しでもない。
コメディ要素を最後まで散りばめつつ、主題歌とかにも、エンディングの映像も毎回少しずつ変えたりとか、こんなにも手の込んだドラマを久しぶりに観たなって、終わっても、年が明けても、余韻冷めやらぬかたちで記録を残したいと思った次第です。
今月末にはシナリオが出るらしくて、どうやらちょっと違うみたいなんですよ。
初期の熱はこのシナリオにしっかり込められていますって言い方をしていたので、見直しがあって、ソフトに変換されたシーンがあるのかもしれないですよね。
そこはシナリオで味わいたいと思います。

本当に、多角的にいろんな形で「なるほど」ってたくさん思えて、しかも泣けるし笑えるし、しみじみするし、考えさせられるし、で、宝箱のようなドラマでした。

(終わり)

※2月1日からNetflixで配信予定だそうです


参考にした記事・インタビューは以下:


※2022年1月9日追記
 最近見つけた(今年公開された)記事↓


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