見出し画像

Wiki ”ウクライナ軍事組織( UVO )” から全コピぺ (日本語版とロシア語版)


”ウクライナ軍事組織” (UVO)

Wikipediaにこんな記述を見つけた。
Google 等の検索エンジンでは引っ掛からず
duckduckgo で見つけた。

現在の日本でタブーな事がさらっと書いてあり、
消されたり書き換えられたりすることが今後もありえるので
全コピぺしておいた。

折角なのでChrome機械翻訳したロシア語版のも
日本語版の後ろに付け加える。が
珍しくロシア語版より日本語版の方が長い。

日本語版で
活動期間 1920年8月3日 - 1929年2月3日
(本文では、”民族主義組織”の項以下に、
それ以降1950年代のバンデラの暗殺まで記述がある)

ロシア語版では
創立年月日1920年.終了していない。
つまり、名や形は変えていても
現在も続いているという扱いという事だろう。


(前回、バンデラについては何度も読み、
今回のUVO の内容が理解しやすかった)



ウクライナ軍事組織(Wiki日本語版)


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ウクライナ軍事組織 Українська Військова Організація

ウクライナ軍事組織の構成員の一部。
写真右端の人物は、この組織の指導者、
イェヴヘーン・コノヴァーレツ(1921年撮影)

活動期間 1920年8月3日 - 1929年2月3日
活動目的 ウクライナ民族主義英語版
    大ウクライナ主義ウクライナ語版
    反共主義
    反ユダヤ主義
    反ソ連感情
    反ロシア感情
    反ポーランド感情
指導者 イェヴヘーン・コノヴァーレツ
本部 プラハ
前身 シーチ銃兵隊
ウクライナ・ハリチナ軍ウクライナ語版
後継 ウクライナ民族主義者組織

ウクライナ軍事組織(ウクライナぐんじそしき、Українська Військова Організація, УВО, ウクラインスカ・ビースコヴァ・オルハニザーツィア)とは、1920年8月3日チェコスロヴァキアプラハにて設立・結成された、ウクライナ・ハリチナ軍ウクライナ語版)の将校率いるウクライナ人の地下組織である。1918年10月18日イェヴヘーン・オメリャーノヴィチ・ペトルーシェヴィチウクライナ語版)を議長とするウクライナ国民評議会がリヴィウで設立され、西ウクライナ人民共和国(Західноукраїнська Народна Республіка)の樹立が宣言された[1]ウクライナ人民共和国軍の大佐、イェヴヘーン・ミハイロヴィチ・コノヴァーレツ(Євген Михайлович Коновалець)がこの組織団体の議長に選出された。

この組織団体は、自分たちの活動範囲について、当初はウクライナ国内におけるすべての土地(ルーマニアやチェコスロヴァキアを含む)に拡大することが計画されたが、実際の活動地域は、1919年以来ポーランドの統治下にあった東ハリチナ地方に限定された。この組織団体の活動は、妨害行為 (放火、電話および電信通信の損害)、爆破、財産の「収用」、政治家の暗殺であった[2]。1922年の春、イェヴヘーン・コノヴァーレツはベルリンに向かい、ドイツの防諜機関である「アプヴェーア」のフリードリヒ・ゲンプドイツ語版)と会談した。彼らは「ウクライナ軍事組織が諜報活動で収集した情報について、ドイツの諜報機関に全て教える」との契約を書面で交わした。これと引き換えに、アプヴェーアはウクライナ軍事組織に対して金銭を提供した[3]。コノヴァーレツとその仲間たちの目的は、外国に亡命中のウクライナ人の民族主義勢力を団結させ、共通の敵であるソ連と戦うことにあった[3]

1929年1月28日から2月3日にかけて、第一回ウクライナ民族主義者国際会議がオーストリアで開催され、イェヴヘーン・コノヴァーレツがこの組織の議長に選出された[1][3]。この会議を経て、ウクライナ人の民族主義者による共同統一組織「ウクライナ民族主義者組織」(Організація Українських Націоналістів)が結成された。「ウクライナ軍事組織」は「ウクライナ民族主義者組織」に統合されることとなり、イェヴヘーン・コノヴァーレツは1938年5月に暗殺されるまで組織の指導者を務めた[3][4][5]

ウクライナの国内外に存在する民族主義組織とウクライナ軍事組織とを統合した彼らは、ウクライナを占領する外国に対する地下闘争を開始した[6]。1929年に発刊されたウクライナ軍事組織の小冊子には「テロリズムは自衛手段であるだけでなく、扇動の一形態でもあり、望むか否かに関係なく、敵味方の双方に等しく影響を与えるだろう」と記述されている[7]

背景

1919年ポーランド・ウクライナ戦争の終結により、ポーランドは西ウクライナ人民共和国が主張していた領土の大部分を接収し、その残りの領土はソ連に接収された。

研究者の多くは、1920年代初頭のウクライナの民族主義組織の結成について、「1917年から1921年にかけてのウクライナ革命の敗北、ウクライナの国家資格の喪失、他の国々(ソ連、ポーランド、チェコスロヴァキア、ルーマニア)によるウクライナ民族の土地の分割に対する、ウクライナ社会における痛みを伴う反応として出現した」と考えている[8][9]

ウクライナ人民共和国軍大佐のイェヴヘーン・コノヴァーレツは、ポーランドとチェコスロヴァキアの領土内にて、ウクライナ人で構成された軍事部隊を編成し始めた。しかし、1920年11月、ウクライナ革命は崩壊し、ポーランドとロシアの間で休戦協定が締結された。ウクライナの国家資格は喪失し、ウクライナ西部の土地は、ポーランド、チェコスロヴァキア、ルーマニアに分割されることになる[5]

1920年7月30日シーチ銃兵隊による会議がプラハで開催され、8月3日[1]、「ウクライナ軍事組織」が設立され、コノヴァーレツはこの組織の指導者となった。「ウクライナの土地に、ウクライナ人のための国家を建設する」との目標が掲げられた。この組織団体の活動は、軍事規律の導入と個人テロリズム[3]、将来の民族解放革命の利益に向けた妨害活動、諜報活動、破壊活動、ウクライナの国民国家復活のプロパガンダ、統一中央政府の確立にあった[5]1920年9月、ウクライナ軍事組織の初期の臨時機関がリヴィウで設立された。1921年7月20日、コノヴァーレツはリヴィウに戻り、ウクライナ陸軍士官学校の統率者となり、ウクライナ軍事組織の機関は再編された[3]

ウクライナ軍事組織は、元々はイェヴヘーン・オメリャーノヴィチ・ペトルーシェヴィチウクライナ語版)が統率しており、のちにイェヴヘーン・コノヴァーレツもこの組織に加入したが、両者の間で意見の激しい対立が生じ、関係が破綻したという[1]。組織の結成者には、アンドリイ・アタナソヴィチ・メルヌィクウクライナ語版)、ロマン・キリロヴィチ・スシュコウクライナ語版)、オメリャン・セーニクウクライナ語版)がいる[3]

ウクライナ軍事組織の構成員によれば、この組織の政治的目標は「『ウクライナを統一し、独立国家を建設する』という究極の目標を掲げ、ウクライナ国民の革命への情熱を高めるよう推進することである」という[9]。組織が最初に出した公式文書では以下のように宣言している。「闘争は終わっていない!我々ウクライナ軍事組織は、闘争を継続する。キエフとリヴィウにおける敗北は終わりではなく、単なる一事件であり、ウクライナ国家に向けての革命への道における失敗の一つに過ぎない。我々の勝利は近いのだ」[2]

第一次世界大戦の戦勝国は、トマス・ウッドロウ・ウィルソン(Thomas Woodrow Wilson)が1918年1月8日に提唱した「十四か条の平和原則」のうちの「民族自決の権利」を引き合いに出したが、西ウクライナ人民共和国に関しては、これは何の意味もなさなかった。フランスはドイツの復活を防ぐために、ドイツの東国境にポーランド国家を創設しようと考えた。パリ講和会議に出席したハリチナのウクライナ人は、ポーランドとの紛争に対して公正な解決を求めたが、この要求は無視された。ハリチナの石油に関心を示していたイギリスは、当初はウクライナを支持していた。しかし、デイヴィッド・ロイド・ジョージ(David Lloyd George)が選挙で敗北すると、イギリスはハリチナに対して関心を示さなくなった[10]1919年6月25日、戦勝国協商大使評議会は、「ボリシェヴィキの一団から国民を守る」ため、ハリチナの東部を占領するポーランドの権利を承認した。協商大使評議会は、ハリチナをポーランドに編入することには同意しなかったが、住民の権利の尊重とハリチナ東部における自治権の付与を条件に、ハリチナの統治権を認めた[10]。ドイツもまた、ウィルソンの唱えた原則が「自分たちには当てはまらない」ことを即座に悟った[11]。ポーランド当局は、ウクライナ人の利益を無視してハリチナを自国の領土に編入した。しかし、国際世論を考慮する形で、ポーランドは「ウクライナ人やその他の少数民族の権利を尊重する用意がある」と宣言し、この義務は憲法によって正式に保証された。1923年、ポーランド政府がこの地域に自治権を与え、行政機関においてウクライナ語を導入し、ウクライナ人のための大学を開設する趣旨を再度確約したのち、協商大使評議会は、ハリチナ東部に対するポーランドの主権を認めた。これはウクライナ人の誇りを傷付けるものであった[10]。ポーランド政府は西ウクライナ人民共和国の利益を認めず、その一方で、ソ連との戦争に役立つ可能性のあるセメン・ペトリューラ(Семен Петлюра)が指導者を務めていた「ウクライナ人民共和国」(Українська Народня Республіка)の政府を支持した[10]1924年、政府においてウクライナ語の使用は法律で禁止された。ウクライナにおける学校はポーランド人のための学校に変えられ、ウクライナ人はリヴィウ大学への入学を許可されなかった[10]

組織

1920年8月3日に創設・結成されたウクライナ軍事組織は、イェヴヘーン・コノヴァーレツが運営委員会を統率し、1922年にはベルリンに組織を移転した。彼らの活動は、ポーランドの政府要人に対するテロリズム、将来の民族解放革命の利益のための妨害活動、偵察、破壊活動、国民国家・ウクライナの復活に向けたプロパガンダ、民族の融和であった[5]

組織においては、人事部、諜報部、戦闘部、宣伝政治部が創設された。ウクライナ人民共和国陸軍の「ソートニク」(Сотник, 「百人隊長」)、オスィップ・オレクスィーヨヴィチ・ドゥミンウクライナ語版)は諜報部門に就いていた[12]1923年以降はユリアン・ミコライヨヴィチ・ホロヴィンスキーウクライナ語版)が、1930年以降はリハルド・ヤリーウクライナ語版)が就いた[9]

ウクライナ軍事組織の構成員たちは、組織の司令官と厳格な軍事規則に従った。1922年の終わりまでに、ハリチナに13の支部が設立され、これらは郡や地方の下部組織に分けられた[3]

コノヴァーレツがベルリンに向かったのち、アンドリイ・アタナソヴィチ・メルヌィクウクライナ語版)がウクライナ軍事組織の支部を統率することになった。メルヌィクは、リヴィウにおけるギリシア・カトリック教区の大司教であったアンドレイ・シェプティツキーウクライナ語版)と良好な関係を築いた[13]

1923年1月中旬、会議のため、プラハに集まったウクライナ軍事組織の5つの下部組織の代表者は、「ウクライナ軍事同盟」(Український Військовий Союз)の創設を発表し、外国に亡命中のウクライナ人の兵士を団結させるために努力する単一の国家組織である趣旨を宣言した。1926年11月、ウクライナ人民共和国軍の元兵士たちによる組織連合が結成された。ドイツ、フランス、ポーランド、ブルガリア、チェコスロヴァキア、ひいてはアメリカとカナダでも同様の組織が設立された[3]

活動

この組織団体は、本質的には軍事組織であり、反ポーランドの蜂起に向けて、退役軍人やチェコスロヴァキアで抑留されたウクライナ人民共和国と西ウクライナ人民共和国の軍人の秘密訓練をハリチナにて実施し、ポーランド国家の不安定化を目的としたテロリズムにも関与した。ウクライナ軍事組織は西ウクライナの政党から資金援助を受け、亡命中のウクライナ人民共和国および西ウクライナ人民共和国政府との関係を維持した。1923年、協商大使評議会が東ハリチナに対するポーランドの主権を認めると、ウクライナ軍事組織の構成員の多くは組織から脱退した。これにより、この組織は財政的基盤を失い、新たな資金源を探すことを余儀なくされた[10]。ウクライナ軍事組織の支部が設立された西側諸国(ポーランドとチェコスロヴァキア)における階級における矛盾の悪化も、反社会主義勢力と反共主義勢力の強化に繋がった。目標と目的の統一により、ウクライナ民族主義者と多くの国々の資本主義政党や政府との協力が促進され、広範な財政支援を受ける機会を得られた。緊急の「勧告」と高等教育機関からの資金援助を受けて、リヴィウでは月刊雑誌『文学科学紀要ウクライナ語版)』の発行が再開された。ドミートロ・イワーノヴィチ・ドンツォフウクライナ語版)が同誌の編集長に任命され、コノヴァーレツ自身も編集委員の一人になった[3]。この2年後、ウクライナ軍事組織からの資金援助を受けて、新聞『Наш час』(『我々の時代』)がリヴィウで創刊された。

1921年7月、リヴィウに到着したコノヴァーレツは、ウクライナ軍事組織の機関を再組織した。コノヴァーレツはペトリューラの命令とポーランド当局からの承認を得て、ソ連邦ウクライナ共和国の領土への侵攻に向けて軍隊の準備を始めた[3]。コノヴァーレツがリヴィウに到着するまでに、セメン・ペトリューラ率いるウクライナ人民共和国の亡命政府は、「ボリシェヴィキに対する全国的な蜂起」を組織する目的で、ソ連邦ウクライナ共和国の領土に侵攻する準備を進めていた[3]。「反乱軍本部」はユーリイ・ヨスィポヴィチ・テュテョニクウクライナ語版)が率いていた。コノヴァーレツはテュテョニクに対し、人的資源やロマン・キリロヴィチ・スシュコウクライナ語版)が率いるウクライナ軍事組織の偵察部門がすでに入手可能であったソ連の領土の状況に関する諜報情報の提供を申し出た。「反乱軍本部」は二つの部隊を形成し、そのうちの1つは、ミハイロ・ダニロヴィチ・スィドレンスキーウクライナ語版)による指揮のもと、880名を数え、10月27日から28日の夜にかけてズブルフ川を渡り、テルノーピリの北からソ連邦ウクライナ共和国の領土に侵入した。ヴォロディミル・アナニーヨヴィチ・ヤンチェンコウクライナ語版)の指揮下にある990人を擁する第二部隊はリウネ方面から侵攻した[3]。ポーランドとフランスは、ペトリューラとテュテョニクに対して「反乱が成功した暁には正規軍をウクライナに派遣する用意がある」と保証した[3]。しかし、この蜂起はソ連軍に鎮圧された[3]

ソ連は、1921年3月にウクライナとポーランドの間で締結された平和条約の条項を引き合いに出しつつ、ポーランドに強く抗議した。ポーランド当局は、セメン・ペトリューラによるソ連邦ウクライナ共和国に対する敵対的な活動への支援を拒否した[3]。その後まもなく、ペトリューラはポーランドを離れ、パリに移住した。1926年5月、ペトリューラはサムイル・イサーコヴィチ・シュワルツボルトロシア語版)に射殺された。ペトリューラは、内戦中のウクライナに住んでいたユダヤ人に対する虐殺について責任を負っていた[14]。パリの陪審は、シュワルツボルトに無罪判決を下した[3][1]

歴史家のオレスト・ミロスラーヴォヴィチ・スブテルヌイウクライナ語版)は、「コノヴァーレツは、とくにポーランドにとっての敵国であるドイツとリトアニアとの接触を確立し、金銭および政治的支援を求めた」と書いた[15]1922年の春、コノヴァーレツはベルリンに向かい、ドイツの防諜機関である「アプヴェーア」(Abwehr)のフリードリッヒ・ゲンプドイツ語版)と会談した。コノヴァーレツは「ウクライナ軍事組織が諜報活動で収集した情報について、ドイツの諜報機関に全て教える」との契約を書面で交わした。これと引き換えに、アプヴェーアはウクライナ軍事組織に対し、毎月9000ライヒスマルク(Reichsmark)を報酬として送った[3]。アプヴェーアからの要請に伴い、ウクライナ軍事組織は活動の拠点をウクライナの西部に移した。

アンドレイ・シェプティツキーはコノヴァーレツに対し、ドイツに細心の注意を払いつつ、ドイツとの接触を求めるよう助言した[12]。アプヴェーアとの連絡の確立に貢献したリハルド・ヤリーは局長補佐官となった[12]。ウクライナ社会および「西側の民主主義諸国」からの支持を失っていたことで、コノヴァーレツはヴェルサイユ体制を変えようとしていた西ヨーロッパ唯一の国にしてポーランドの敵国でもあったドイツに支援を求めることにした。アドルフ・ヒトラー(Adolf Hilter)が権力を掌握する前の話であった[10]。1922年、コノヴァーレツはドイツからの援助を受けることを決定した。当時のドイツは、ハリチナにて、軍事諜報活動、破壊活動、妨害行為を行っていたウクライナ軍事組織との接触に対して興味を持っていた[1]

1925年の時点で、ウクライナ軍事組織の諜報活動の拠点はダンツィヒにあった。ドイツの秘密警察はコノヴァーレツに対し、バルカン半島、小協商(1921年、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィア、ルーマニアの間で結ばれた同盟)、スイス、ポーランド、バルト三国の秘密警察に所属するウクライナ軍事組織の構成員の数を拡大させるように、との指示を出した[10]1928年、ウクライナ軍事組織とドイツの諜報機関との関係を示す証拠を入手したポーランド当局の抗議により、ウクライナ軍事組織に対する資金提供は数年間停止されることになった[16]1922年から1928年にかけて、ウクライナ軍事組織は200万マルク以上のお金を受け取った[12]

オレスト・ミロスラーヴォヴィチ・スブテルヌイによれば、ウクライナ軍事組織組織の会員数について「約2000人はいた」という。また、「ウクライナの東部と西部、双方のウクライナ亡命政府と繋がっており、西ウクライナの政党から秘密裏に資金援助を受けていた」という[3]

テロリズム

ポーランド第二共和国に住んでいた民族の構成図。ウクライナ人はオレンジ色

1921年の時点で、ポーランドの人口2700万人のうち、約3分の1はウクライナ人、ユダヤ人、ドイツ人、ベラルーシ人、それ以外の民族で構成されていた。ウクライナ人は約500万人であり、全体の15%であった[10]。ウクライナ人の多くは、オーストリア=ハンガリー帝国の領土である東ハリチナか、「東小ポーランド」(ポーランド人がこのように呼んでいた地域)に住んでいた[10]。これらのハリチナ・ウクライナ人はギリシア・カトリック教会の信者であった[10]1919年6月25日、戦勝国協商大使評議会は、「ボリシェヴィキの一団から国民を守る」ため、ハリチナの東部を占領するポーランドの権利を承認した。協商大使評議会は、ハリチナをポーランドに編入することには同意しなかったが、住民の権利の尊重とハリチナ東部における自治権の付与を条件に、ハリチナの統治権を認めた。1919年から1923年にかけて、ウクライナ人はポーランド国家の承認を拒否した。急進的なウクライナ人は、1921年の国勢調査と1922年の下院議会選挙を妨害し、ポーランド人や組織団体に対して破壊活動やテロリズムを決行した[2][10]

コノヴァーレツは、自分たちの現在の任務について、以下のように述べた。「ポーランドが我が祖国と講和条約を結んだ今、我々は、ポーランドとの闘争の旗を掲げざるを得ない状況にある。戦わなければ、我々は祖国のみならず、捕虜収容所においても影響力を失うことになる。捕虜収容所にいる我々の仲間たちの一人一人が、ピウスツキによる東ハリチナとヴォルィーニの占領に対する復讐の炎を燃やしている。しかし、ボリシェヴィキは依然として我々の不倶戴天の敵である。ポーランド人がそれを強要してくる限り、我々はポーランド人に立ち向かわねばならない」[3]

1923年3月14日、ハリチナがポーランドに併合されることが決まると、ウクライナ軍事組織は混乱状態に陥った[3]。西ウクライナはポーランドに、トランスカルパティア(ザカルパッチャ州)はチェコスロヴァキアに、ブコヴィナ地方はルーマニアの占領下に置かれた[5][17]

ウクライナ軍事組織は、ポーランドに対してテロリズムや妨害行為、破壊行為に訴えた。1922年の夏から秋にかけて、彼らはポーランドの地主の不動産や農場に対して2300件の放火に関与した[3]。彼らは、暴力とテロリズムについて、それ自体が目的であるとは考えていなかったが、この手段を通じて民族解放闘争を展開している、と確信していた。テロリズムの目的は、ウクライナ人に抵抗の可能性を確信させ、ウクライナ社会を「絶え間ない革命の騒乱」または「永続的な革命」の状態に保つことであった[10]。ポーランドに対するウクライナ軍事組織のテロリズムは、妨害行為(放火、電話や電信通信の損害)、組織的爆破行為、財産の「収用」、政治家の暗殺であった[2]。ポーランド当局は、これらのテロリズムについて、ウクライナ軍事組織だけでなく、西ウクライナ共産党ロシア語版)の党員たちも非難した[3]。西ウクライナ共産党は、1938年ヨシフ・スターリン(Иосиф Сталин)の命令で解散させられた[10]

これらのテロリズムに対して、ポーランドは、昨日の「友人」であるペトリューラとコノヴァーレツ、その共犯者の仕業である、と確信し、報復手段に出た。1922年末、平和主義的な抗議運動の最中、ポーランド警察は、これに参加したウクライナ人・約二万人を拘束した。ポーランドがウクライナに対して実行した組織的且つ絶え間ない逮捕により、ウクライナ軍事組織は機能不全状態に陥った。組織の諜報部隊はかろうじて生き残った[3]

1922年10月14日スィディル・アントーノヴィチ・トウェルドフリブウクライナ語版)が、ウクライナ軍事組織の過激派の手で撃たれた。トウェルドフリブはこの翌日に死亡した[18]

1921年9月25日ステパン・フェダクウクライナ語版[3]ユゼフ・ピウスツキの暗殺を試みるも、未遂に終わった[1]。この暗殺を監督したのはイェヴヘーン・コノヴァーレツであった[5]。1921年9月25日、ピウスツキはリヴィウに到着した。この日の午後9時、ピウスツキとカジミェシュ・グラボウスキーが車に乗り込んだとき、群衆の中に紛れ込んでいたステパン・フェダクが二発の銃弾を発砲した。リヴィウ郡知事のカジミェシュ・グラボフスキポーランド語版)が被弾し、負傷した。銃弾はグラボウスキーに命中したが、ピウスツキには当たらず、無傷であった[19]。ウクライナ軍事組織によれば、グラボフスキとピウスツキは、1920年4月22日にペトリューラと締結した協定に違反したのだ、という(ポーランドとソ連の戦争開始前夜の1920年4月22日の夜、ポーランドにて秘密協定が結ばれた[1])。このテロリズムを受けて、ポーランド当局はウクライナ軍事組織に対して宣戦布告した。組織は本部をベルリンに移さなければならなくなり[1]、コノヴァーレツもポーランドを出国した[2]1924年9月5日スタニスワフ・ヴォイチェホフスキポーランド語版)が暗殺されかけるが、これは失敗に終わった。1926年10月19日には、リヴィウ学区の教育長、スタニスワフ・ソビンスキポーランド語版)が射殺された[9]

ポーランド当局は、ウクライナ人の利益を無視してハリチナを自国の領土に編入した。しかし、国際世論を考慮する形で、ポーランドは「ウクライナ人やその他の少数民族の権利を尊重する用意がある」と宣言し、この義務は憲法によって正式に保証された。1923年、ポーランド政府がこの地域に自治権を与え、行政機関においてウクライナ語を導入し、ウクライナ人のための大学を開設する趣旨を再度確約すると、協商大使評議会は、ハリチナ東部に対するポーランドの主権を認めた[10][9]。ハリチナがポーランドに併合されることが決まると、ウクライナ軍事組織は混乱状態に陥った[3]

1923年の夏、コノヴァーレツはハリチナの組織の幹部をプラハに集めて会議を開き、国際情勢について報告した。コノヴァーレツによれば、ベルリンに滞在中、独立国家ウクライナの樹立を目指す民族主義者を支援するため、ドイツ政府の関係者およびドイツ陸軍参謀本部と協定を結んだという。ドイツ軍の将軍によれば、ヴェルサイユ条約の重荷を下ろすため、来たるべき戦争の準備をしており、近い将来、ソ連とポーランドに対して侵攻する計画を立てている趣旨を知らされた。コノヴァーレツは、ソ連とポーランドへの侵攻を実行する唯一の国としてドイツに重点を置く必要性について問題提起した。コノヴァーレツは、「ドイツは、ウクライナの民族主義者が敵国との戦いで積極的に協力してくれるのであれば、ウクライナの民族主義者を喜んで支援しよう、と約束してくれた」と結論付けた。ウクライナ軍事組織の全兵力をドイツ軍の司令部とドイツの諜報機関に委ねることを約束し、その指導のもと、ウクライナ民族主義者の地下組織の活動が実行されることになった[3]。諜報員、テロリスト、破壊工作員を育成するため、ウクライナの民族主義者を訓練するための特別な制度が導入された。1923年、ミュンヘンにて、アブヴェーアの諜報講座が導入された。1928年には、ドイツの諜報機関に有利な破壊活動に従事するウクライナ民族主義者を訓練するための本部がグダニスクに創設された[3]。1923年の初冬にダンツィヒで開かれたウクライナ軍事組織の会議で、委員会をベルリンに、地域支部をリヴィウに一時的に設置することが決まった。同時に、ウクライナ軍事組織と西ウクライナ人民共和国の前指導部との繋がりは止まった。

ハリチナがポーランドに併合される話が決まると、西ウクライナ人民共和国政府は、その国際的地位を失った。 西ウクライナ人民共和国の指導者、イェヴヘーン・オメリャーノヴィチ・ペトルーシェヴィチは、ソ連邦ウクライナ共和国からの資金援助を頼りに、ポーランドとの戦争を継続したいと考えていた[12][16]。ソ連当局はペトルーシェヴィチに対して援助を約束したが、ペトルーシェヴィチがソ連に従属すること、コノヴァーレツを組織の指導部から外すことを条件とした。これはウクライナ軍事組織の内部危機に繋がり、その危機は2年に亘って続いた。最終的に、ペトルーシェヴィチの支持者であったウクライナ・ハリチナ軍ウクライナ語版)の元将校は、ウクライナ軍事組織から追放された。1926年5月14日オスィップ・オレクスィーヨヴィチ・ドゥミンウクライナ語版)らが「西ウクライナ人民革命組織ウクライナ語版)」を結成した。ウクライナ国家の独立を目指す目的で結成されたが、1929年に活動を停止した。

1923年以降、ウクライナ軍事組織とリトアニアの間で協力関係が確立されるようになる。協力関係の構築の仕掛け人は、1920年から1921年にかけてリトアニアの外務大臣を務めたユオザス・プリツキス英語版)であった。リトアニアとポーランドは1926年まで戦争状態にあり、1938年になってから外交関係が確立された。リトアニアの政治家は、ウクライナ軍事組織と協力すれば、ヴィリニュス地方英語版)の自国への復帰が早まるだろう、と信じていた。リトアニア政府が出した公式声明の中で、彼らは西ウクライナの独立を繰り返し強調した。リトアニアは、ロシア帝国からの独立を宣言したのち、ヴィリニュス地方は自国の領土である趣旨を主張した。これに対し、ポーランドは、ポーランド語話者の住民の自決権を主張した。その後、戦間期を通じて、ヴィリニュス地方における主権はポーランドとリトアニアの間における領土問題として争われた(→ヴィリニュス問題ロシア語版))。

1925年以来、カウナスにはウクライナ軍事組織の常駐施設があり、「Левника」(「レヴニカ」)との暗号名を使っていた。リトアニアでは、民族主義雑誌『スルマ』や、反ポーランド、反ソ連の内容を含む小冊子が発行された。ウクライナ軍事組織の過激派は、リトアニアが発行した文書を隠して活動し(コノヴァーレツもリトアニアの旅券を持っていた)、ポーランド軍に関する情報をリトアニア軍の司令部に提供した。1925年、ダンツィヒにいたコノヴァーレツの仲間は、ポーランド海軍の配備に関する情報をリトアニアに提供し、リトアニアがドイツから購入した潜水艦二隻のリトアニアへの輸送を手伝った。1926年、リトアニア軍は、ウクライナ軍事組織からポーランドとリトアニアの国境に軍隊を配備する情報を受け取った。この情報により、ポーランドがリトアニアに軍事侵攻する計画が明らかになった。同時に、コノヴァーレツはイギリスとドイツにポーランドの腹積もりについて伝え、軍事衝突は回避された。リトアニアにおけるコノヴァーレツの代理人はオスィップ・レビュークウクライナ語版)であった。彼はリトアニアの外務省と連絡を取り続け、リトアニア当局とウクライナ軍事組織の仲介人としての役割を果たした。彼はリトアニア政府から3ヵ月毎に約2000ドルを受け取った[12]

1924年から1925年にかけて、ウクライナ軍事組織の地域委員会は、「ポーランドの財産の収用」を強化した。「収用」を実行するにあたり、ユリアン・ミコライヨヴィチ・ホロヴィンスキーウクライナ語版)は「飛行旅団ウクライナ語版)」を創設し、郵便馬車、郵便局、銀行を攻撃し始めた。1925年4月28日、リヴィウにある郵便局が襲撃され、当時としては巨額の10万ズウォティが過激派の手に渡った。ポーランド警察が「飛行旅団」の取り締まりに成功したのは、1925年末のことであった[2]1928年11月1日、西ウクライナ人民共和国創設10周年を記念する集会の群衆に紛れて、ウクライナ軍事組織の過激派が警察に発砲し、騒ぎが起こった。11月1日から11月2日の夜にかけて、ポーランドにある記念碑「リヴィウの擁護者」の近くで爆弾が爆発した。1928年12月、ウクライナ軍事組織は、ポーランドの新聞『スロボ・ポルスケ』の編集局で爆弾テロを組織した。彼らは1929年の春に開催された展覧会「タルヒ・フスホードニ」(Тарги Всходне)でも爆弾を起爆させた[19]

民族主義組織

ウクライナ民族主義者組織の紋章


イェヴヘーン・コノヴァーレツ

1922年ウクライナ民族青年団ウクライナ語版)が結成された。1925年11月、チェコスロヴァキアで開かれた会議にて、ウクライナ民族主義者組織連盟ウクライナ語版)の結成が発表された。ミコラ・オレストヴィチ・スチボルスキーウクライナ語版)がこの結成に関わった。他に、ウクライナ民族主義青年同盟ウクライナ語版)、ウクライナ民族同盟ウクライナ語版)、「ウクライナ解放朋友同盟」(Об’єднання друзів звільнення України)も結成された[3]

コノヴァーレツは1928年にカナダを訪問し、ウクライナ軍事組織の支部が設立された[4]。コノヴァーレツは、ポーランド、チェコスロヴァキア、ルーマニア、リトアニア、アメリカ、カナダにいる組織の代表者とも連絡を取り合った[4]

コノヴァーレツはアンドレイ・シェプティツキーウクライナ語版)に宛てた手紙の中で、「ドイツの友人たちは、ウクライナ民族主義者組織が謀略的なテロ組織である限り、ウクライナの大義のための広範な政治的行動について考えるのは無意味である、と教えてくれている。テロリズムは目的ではなく、あくまで手段でなければならない。成功すれば大衆の服従を促せるが、失敗すればそれもままならなくなる。大衆は政治の主体ではなく、あらゆる手段で屈従させねばならぬ対象であり、屈従した大衆は手中に収められ、自らの政治目的のために利用されなければならない」「ドイツほど、この問題の解決に関心を持っている国はなく、ドイツを除いて、この問題を解決できる国家はない」「ウクライナ問題全体の解決のために戦っている我が組織は、ドイツ側の政治的要因と調和して行動し、ドイツの政策を模倣する必要がある」と書き残している[20]

イェヴヘーン・コノヴァーレツとその仲間たちの目的は、外国に亡命中のウクライナ人の民族主義勢力を団結させ、共通の敵であるソ連と戦うことにあった。1929年1月28日から2月3日にかけて、第一回ウクライナ民族主義者国際会議がオーストリアで開催され、コノヴァーレツがこの組織の議長に選出された[1][3]。ウクライナ人の民族主義者による共同統一組織が結成され、「ウクライナ軍事組織」は「ウクライナ民族主義者組織」(Організація Українських Націоналістів)に合併された。独立組織であったウクライナ軍事組織は、名目上は自律的な軍事関連機関であり、ウクライナ民族主義者組織の一部門として再編成される形となった[2]。1929年、ウクライナ民族主義者組織は、ウクライナの国内外に存在する民族主義組織とウクライナ軍事組織とを統合し、ウクライナを占領する外国に対する地下闘争を開始した[6]1929年に発刊されたウクライナ軍事組織の小冊子には「テロリズムは自衛手段であるだけでなく、扇動の一形態でもあり、望むか否かに関係なく、敵味方の双方に等しく影響を与えるだろう」と記述されている[7]

ウクライナ民族主義者組織による会議では、「活動について、特定の領土のみに限定するのではなく、ウクライナの全地域およびウクライナ人が住む土地を占領するよう努める。『ウクライナ国家の主権政策』を追求し、ウクライナの全政党および階級集団に反対する」と宣言された[3]。軍事政策の分野においては、ウクライナ民族主義者組織は「権利のために、粘り強く精力的に戦う準備ができている武装した人民による軍事力こそが、ウクライナを侵略者から解放し、ウクライナ国家の樹立を可能にできるのだ」と考えていた[3]

1929年以降、ウクライナ民族主義者組織は、ポーランド、チェコスロヴァキア、ルーマニアにて、ドイツの諜報機関と協力し、活動していた。アドルフ・ヒトラーがドイツの宰相に就任し、権力を掌握すると、ドイツの諜報機関との協力関係はさらに強化された[1]1930年代初頭、コノヴァーレツはヒトラーと二度対面している。一度目は1931年[4]、二度目は1932年9月であり[1]、いずれもヒトラーが権力を掌握する前のことであった。ヒトラーは、コノヴァーレツの仲間に対し、ライプツィヒにあるナチス党訓練所で講座を受講してはどうか、と勧めた[1]1931年にコノヴァーレツがヒトラーと会談した際、ウクライナ民族主義者組織の活動について、ヒトラーは「ソ連に対してのみ実行し、ポーランドに対する攻撃を止めてくれるなら、あらゆる支援を実施する」と約束した[3][4]

ステパン・バンデーラ

1932年11月30日、ウクライナ民族主義者組織の一部の構成員が、ホロドクポーランド語版英語版) (当時はポーランド領グルデク・ヤギェロンスキ) にある郵便局にて強盗事件ポーランド語版)を起こした。この強盗事件では、襲撃犯二名を含めて、計四名が犠牲となった。地域委員会の指導者、ボフダン=イワン・コールデュクウクライナ語版)はこの事件の責任を取る形で役職を解任された。ステパン・アンドリーヨヴィチ・バンデーラ(Степан Андрійович Бандера)がウクライナ民族主義者組織の指導者に就任すると、彼らの軍事行動の性質は変化した。「収用」は止まり、ポーランド政府の要人、地元の共産主義者、左翼および親ソ連派の人物、ソ連の外交官に対する懲罰の意味を込めた行動とテロリズム攻撃に重点が置かれるようになった。バンデーラは、「『収用』は労力の無駄遣いであり、ポーランド警察は強盗行為を非難することにより、ウクライナ民族主義者組織の信用を毀損する機会を与えてしまっている」という事実を考慮し、収用行為の放棄を決定した[21]

1933年10月21日、リヴィウのソ連総領事館で働いていた書記官(その正体はソ連の諜報員であった)、アンドレイ・マイロフロシア語版)が、ウクライナ民族主義者組織の構成員の一人、ミコラ・セメノヴィチ・レミックウクライナ語版)の手で暗殺されたウクライナ語版)。レミックはマイロフに二発の銃弾を浴びせて殺害した。1933年6月3日から6月6日にかけて、ウクライナ民族主義者組織の会議がベルリンで開催された。この会議で、ステパン・バンデーラが組織の地域執行部の指導者に選出されるとともに、リヴィウのソ連の外交官を暗殺する決定が下された[22]。暗殺を完了したミコラ・レミックは、無抵抗の状態でポーランド警察に逮捕された。1933年10月30日、レミックはリヴィウ地方裁判所で死刑判決を受けるも、のちに終身刑に変更された。当時のポーランドの法律では、20歳未満の者に対しては死刑を宣告できなかった。1939年9月、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、それに伴って生じた混乱に乗じてレミックは脱走した。のちに彼はゲシュタポに逮捕され、1941年10月に射殺された。

ソ連の外交官の暗殺の動機となったのは、1932年から1933年にかけて、ウクライナ全土を襲った大規模な飢餓「ホロドモール」(Голодомор)に対し、世界が関心を示さなかったことが大きい[22]。アンドレイ・マイロフ暗殺事件は、この飢餓に対する象徴的な報復行為として注目され、ソ連とポーランドの間の緊張状態の高まりに繋がった[23]。ステパン・バンデーラは「ボリシェヴィズムは、ウクライナ国家を破壊し、ウクライナ国民を奴隷化する制度であり、ウクライナ民族主義者組織はボリシェヴィズムと戦っているのだ」と語った[22]

1934年1月26日ドイツとポーランドは条約を結んだ。この条約の締結後、ウクライナ民族主義者組織に対するドイツの支援は縮小された。コノヴァーレツはリトアニアの諜報機関との関係を強化することにした。リトアニア当局は、ウクライナ民族主義者組織に虚偽の書類(旅券や許可証)を提供した[1]1936年の諜報情報によれば、コノヴァーレツはルーマニアが占領していたブコヴィナ(Bukovina)に、反ソ連の破壊活動の拠点を設置しようとしたという。戦争が起こった場合、ウクライナ民族主義者組織は、ヨーロッパ諸国、ソ連、ポーランドにて、ウクライナ国民に蜂起を促す手筈であったという[1]。ドイツとポーランドによる条約締結後、アプヴェーアはウクライナ民族主義者組織による反ポーランド活動を抑制し、その矛先を「ボリシェヴィズムに対して」向けるよう促した[24]1933年12月の時点で、コノヴァーレツはステパン・バンデーラに対し、「反ポーランド活動を止めるように」との指令を出していた。

1934年6月15日午後3時40分、ポーランドの内務大臣、ブロニスワフ・ピェラツキポーランド語版)が銃で撃たれて殺された。ピェラツキ殺害の実行犯は、ウクライナ民族主義者組織の会員の一人、フルィホーリイ・マツェイコウクライナ語版)であった[25]。ポーランドはハリチナを併合し、同化・統合するつもりであった。「ハリチナ」の名前は「東小ポーランド」に変更された[25]。ステパン・バンデーラは、ブロニスワフ・ピェラツキの暗殺も主導した[26]1935年11月8日に始まった裁判では「ステパン・バンデーラはウクライナ民族主義者組織の地域指導者として、ピェラツキ大臣を殺すよう指令を下し、その暗殺計画全体を指揮した」ことが明らかになった[25]。ブロニスワフ・ピェラツキの暗殺は、1933年4月末にベルリンで開催された特別会議の場で決定された[27]。ステパン・バンデーラはポーランドの法廷で死刑を宣告されたが、のちに終身刑に減刑された。1939年、ポーランドに侵攻し、占領したドイツ軍により、バンデーラは刑務所から釈放された[3]。ピエラツキーの暗殺は、ポーランドに、テロリストの政治亡命の禁止を含めたテロ行為に対する国際制裁を導入する提案を国際連盟で演説する理由を与えることになった。コノヴァーレツはポーランドにおけるテロ攻撃を禁止しようとしたが、すでに逮捕されたバンデーラの命令はしばらく機能し続けた。

1930年代、ウクライナ民族主義者組織は、60件を超える暗殺を組織した[10]。ウクライナ民族主義者組織の構成員の中には、民族間の融和を主張するポーランド人やウクライナ人に対しても牙を剥く者がおり、民族同士の融和や妥協を主張したポーランドの政治家や一般のウクライナ人が、ウクライナ軍事組織の構成員の手で殺された。1931年8月にはタデウシュ・ホウフコポーランド語版)が、1934年7月にはイワン・バビイウクライナ語版[3]が殺された[10]。ポーランド当局はウクライナ人のテロリストたちを処刑した[10]

ウクライナにおける急進主義の台頭の原因については、ポーランドによるウクライナ人に対する差別、ソ連邦においてウクライナ人が辿った悲劇的な運命、合法的な闘争手段、身勝手な利益のためにウクライナ人を無視し、自らも危機に陥った「西側の民主主義国」に対する失望、これらすべての要因が重なり、急進的なウクライナ人は外部からの助けを待つのではなく、状況を打開するために過激な手段を採用するに至った[10]

アンドレイ・マイロフの暗殺事件を受けて、国家統合政治総局ロシア語版)の議長、ヴャチェスラーフ・ルドルフォヴィチ・メンジンスキー(Вячеслав Рудольфович Менжинский)は、ウクライナ民族主義者の指導者を無力化する措置を命じた[5]



その後

1938年5月23日、イェヴヘーン・コノヴァーレツは、内務人民委員部の秘密諜報員、パーヴェル・アナトーリエヴィチ・スドプラートフ(Павел Анатольевич Судоплатов)の手で暗殺された。スドプラートフは、ウクライナ民族主義者組織の一員を装い、ヨーロッパのさまざまな都市でウクライナ民族主義者組織の代表者と会った。スドプラートフは、コノヴァーレツとの信頼関係を徐々に築いていった。スドプラートフは「ウクライナ民族主義者組織の司令官を無力する」との任務を受けており、コノヴァーレツの殺害を実行に移した。スドプラートフは、チョコレートに目がないコノヴァーレツに、チョコレートが入った箱に偽装した爆弾を手渡した。この30分後、ロッテルダムの中心街で爆弾が起爆し、コノヴァーレツの身体は吹き飛んだ[28]

コノヴァーレツが殺されたのち、ウクライナ民族主義者組織の指導部は、「新たな戦いに備えよ」「クレムリンを恐れるな」と鼓舞したうえで、以下のような声明を発表した。

我々は今、諸君に次のことを訴えたい。我々の元を永久に去った
偉大な男の指揮下で戦う名誉の持ち主であるという事実にふさわしい存在であれ。
彼の意志を、その生き様と血によって神聖化されたものとするのだ。
勝利に終わるか、破滅するか。これが諸君の心に刻まれる規範となるであろう!
血に輝く伝統を脈々と引き継ぐのだ。指導者は墓の向こう側から、
目的の高潔さと神聖さを守ってくれているのだ!
彼の声が墓から聞こえてくる:
この戦いが勝利となり、勝利が復讐とならんことを!
我らが指導者、イェヴヘーン・コノヴァーレツに栄光あれ!
主権ある統一国家ウクライナ万歳!ウクライナ民族革命万歳!
ウクライナ民族主義者組織万歳![29]

1938年10月、アンドリイ・メルヌィクがウクライナ民族主義者組織の議長に就任した。

1940年2月、ウクライナ民族主義者組織は、メルヌィク派とバンデーラ派に分裂した[5][17]

1958年5月25日、ステパン・バンデーラはコノヴァーレツの墓の前で演説を行い、「ウクライナは、その地政学的な位置ゆえに、独自の軍隊と生存競争によってのみ、国家の独立を獲得し、維持できるのです」「解放闘争はまだ終わっていません」「敵は我々の指導者を殺害することにより、この運動を停めるだけでなく、完全に破壊できると考えた。しかしながら、ボリシェヴィキは、指導者は殺せても、ウクライナ民族主義者組織を解体し、その闘争を止めることには失敗した。その活力と強さの源は大衆であり、そこから民族解放闘争とその活動的要因が絶え間なく更新され、強化され続けるのです」と述べた[30]

1959年10月15日、ステパン・バンデーラは、КГБの諜報員、ボグダン・ニコラーエヴィチ・メンジンスキー(Богдан Николаевич Сташинский)の手で暗殺された[31]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o В. К. БЫЛИНИН, В. И. КОРОТАЕВ. “В. К. Былинин, В. И. Коротаев портрет лидера оун в интерьере иностранных разведок”. Refdb. 2018年10月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月27日閲覧。

  2. ^ a b c d e f gНариси з історії політичного терору і тероризму в Україні XIX—XX ст. Інститут історії України НАН України, 2002. Розділ 9. — Гл. 2. (Киричук Ю. А.) - Місце тероризму у визвольній боротьбі УВО−ОУН” (PDF). Histans. 2014年3月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年10月11日閲覧。

  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai Войцеховский А.А., Ткаченко Г.С.. “Украинская антисоветская эмиграция. УВО-ОУН”. История национального движения Украины 1800-1920ые годы.. 2014年12月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月28日閲覧。

  4. ^ a b c d e Войцеховский А.А. “Полковник Евгений Коновалец”. История национального движения Украины 1800-1920ые годы.. 2014年12月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月28日閲覧。

  5. ^ a b c d e f g h Вячесла́в Бори́сович Румя́нцев. “Коновалец Евген”. ХРОНОС. 2023年7月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月28日閲覧。

  6. ^ a b Людмила Рюміна (2016年8月19日). “Полковник Євген Коновалець”. Бібліотека. Книга. Читач.... 2017年5月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月1日閲覧。

  7. ^ a b Alexander J., Motyl (Spring 1985). “Ukrainian Nationalist Political Violence in Inter-War Poland, 1921-1939”. East European Quarterly 19 (1): 47, 52–53. "The UVO and the OUN did not consider violence and terrorism as ends in themselves. Rather they saw them as means of activating Ukrainian masses...of leading them to the revolution that would remove foreign rule and usher in a Ukrainian state. (「ウクライナ軍事組織とウクライナ民族主義者組織にとって、暴力やテロリズムは目的ではなかった。彼らはこのいずれも、ウクライナの大衆を活気づける手段、すなわち、自国が外国人の支配下に置かれている状態から脱却し、国民国家・ウクライナを樹立する革命へと導く手段である、とみなしていた」)"

  8. ^ Георгій КАСЬЯНОВ (2003年). “ДО ПИТАННЯ ПРО ІДЕОЛОГІЮ ОРГАНІЗАЦІЇ УКРАЇНСЬКИХ НАЦІОНАЛІСТІВ (ОУН) - АНАЛІТИЧНИЙ ОГЛЯД”. ІЗБОРНИК. 2004年9月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年10月11日閲覧。

  9. ^ a b c d eМЕЧ І ТРИЗУБ. НОТАТКИ ДО ІСТОРІЇ СЛУЖБИ БЕЗПЕКИ ОРГАНІЗАЦІЇ УКРАЇНСЬКИХ НАЦІОНАЛІСТІВ” (PDF). Меморіал. 2005年2月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年10月11日閲覧。

  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s Александр Карпец (2012年8月24日). “Национальная борьба в Западной Украине - краткий курс ОУН-УПА. Часть 2: 1914 - 1940”. Хвиля. АРГУМЕНТ. 2019年3月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年10月19日閲覧。

  11. ^President Woodrow Wilson's 14 Points (1918)”. The U.S. National Archives and Records Administration. 2023年10月19日閲覧。

  12. ^ a b c d e f Мирослава Бердник. Пешки в чужой игре. Тайная история украинского национализма. Litres, 2015. ISBN 5-457-72377-1

  13. ^ Сергій Грабовський (2005年7月30日). ““Країна Інкогніта”: Митрополит Андрей Шептицький.”. Радіо Свобода. 2023年10月19日閲覧。

  14. ^Еврейские погромы 1918-1921гг.”. Старые Газеты. 2023年4月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月31日閲覧。

  15. ^ Субтельний О. Україна. Історія. — К., 1993, с. 544. Цит. по ист.: БЕЗ ПРАВА НА РЕАБИЛИТАЦИЮ (Сборник публикаций и документов, раскрывающих антинародную фашистскую сущность украинского национализма и его апологетов). Киев, 2006

  16. ^ a b Гогун Александр «Между Гитлером и Сталиным. Украинские повстанцы». СпБ.: НПИД «Нева». 2004. ISBN 978-5-7654-3809-1

  17. ^ a b Кость Бондаренко (2013年7月2日). “Історія, якої не знаємо чи не хочемо знати”. Народний Оглядач. 2014年12月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月28日閲覧。

  18. ^Інтегральний український націоналізм”. Укрстор. 2016年11月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年10月22日閲覧。

  19. ^ a b Александр Степанченко. “Истоки украинского терроризма”. InfoResist. 2018年12月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年10月22日閲覧。

  20. ^ Цит. по: Мирослава Бердник. Пешки в чужой игре. Тайная история украинского национализма. Litres, 2015. ISBN 5-457-72377-1

  21. ^ НАЦІОНАЛЬНА АКАДЕМІЯ НАУК УКРАЇНИ, ІНСТИТУТ ІСТОРІЇ УКРАЇНИ. “політичний ТЕРОР І ТЕРОРИЗМ В УКРАЇНІ - Х ІХ -Х Х ст. ІСТОРИЧНІ НАРИСИ”. 2015年5月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年10月22日閲覧。

  22. ^ a b c Петро Мірчук. “V ЧАСТИНА: РОЗДІЛ 4 - КОНФЕРЕНЦІЯ ОУН В БЕРЛІНІ В ЧЕРВНІ 1933”. Нарис історії ОУН. Перший том: 1920-1939.. 2008年11月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月29日閲覧。

  23. ^ David L. Ransel, Bożena Shallcross. Polish Encounters, Russian Identity. Indiana University Press, 2005. P. 182.

  24. ^ Войцеховский А. А., Ткаченко Г. С. Украинский фашизм (теория и практика украинского интегрального национализма в документах и фактах). Киев: «Солюкс», 2004

  25. ^ a b c Ігор МЕЛЬНИК (2014年6月15日). “Вбивство міністра Перацького”. Збруч. 2018年10月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月28日閲覧。

  26. ^ Вячесла́в Бори́сович Румя́нцев. “Степан Бандера”. ХРОНОС. 2023年7月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月29日閲覧。

  27. ^ Петро Мірчук. Нарис історії Організації Українських Націоналістів. Перший том: 1920—1939. — Мюнхен — Лондон — Нью-Йорк: Українське видавництво, 1968. — С. 382.

  28. ^ Па́вел Анато́льевич Судопла́тов. “Спецоперации”. Агентура.Ру. 2000年11月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年8月28日閲覧。

  29. ^Відозва Проводу Українських Націоналістів з нагоди смерти полк. Євгена Коновальця.”. Українська Повстанська Армія. 2005年1月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月1日閲覧。

  30. ^ Степан Бандера. “НАД МОГИЛОЮ ЄВГЕНА КОНОВАЛЬЦЯ”. 2007年10月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月1日閲覧。

  31. ^ Сергій Кот, Олександр Кучерук, Юрій Черченко (2017年7月11日). “Вельмишановний товаришу Олег! Листування Олега Ольжича та Євгена Коновальця”. Історична Правда. 2017年7月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年9月1日閲覧。

資料


カテゴリ:

最終更新 2023年11月25日 (土) 07:03




ロシア語版 Wiki では

ウクライナの軍事組織


ウクライナの軍事組織
組織の種類: 民兵組織
設立
創立年月日: 1920年

ウクライナ軍事組織ウクライナ軍事組織 (UVO) (ウクライナ 軍事組織) は、 1920 年8 月 3 日にチェコスロバキア領土でUPR 軍ウクライナ ガリシア軍の元将校によって設立された地下国家主義組織です。この組織はウクライナ人民共和国の元大統領エフゲニー・ペトルシェビッチが率い、1921年半ばにはウクライナ人民共和国軍エフゲン・コノヴァレツ大佐が加わり、その後1938年に亡くなるまでウクライナ軍管区を率いた。 1922 年、UVO は約 1,500 ~ 2,000 人で構成されていました。

当初、UVOの活動をウクライナのすべての民族の土地(ウクライナSSRの一部であった地域、ルーマニア、チェコスロバキアを含む)に拡大することが計画されていましたが、すぐにUVOの活動は主に東ガリシアの領土に限定されました。 1919 年 以来ポーランドの管理下にありました。組織のトップマネジメントと組織部門は近隣諸国、ドイツチェコスロバキアオーストリアにありました。ポーランド領土におけるUVOの活動は、主に妨害行為(放火、電話や電信通信への損害)、組織的爆発、財産の「収用」、政治的暗殺に限定された[1]。さらに、UVOの支持者は共産主義者、左翼思想の人々、そして一般に国家主義イデオロギーを共有しない一般のウクライナ人に対して報復を行った。当初は無党派の性格を宣言していたこの組織の活動は、時間が経つにつれて、階級志向が顕著な国家主義的な政治組織の特徴を獲得していきました[2]

1922 年から 1923 年にかけて、UVO はドイツ諜報機関との積極的な協力を開始しました。ドイツに移住したコノヴァレツは、アブヴェーアの長であるゲンプ大佐に彼の組織をドイツの軍事情報の完全な処分に移管するという正式な約束を与えた[2]

1929年、 UVOに基づいてウクライナ民族主義者組織が設立され、創設者らによれば、それは合法的な政治部門となるはずだった。しかし、この試みは失敗に終わりました。1929 年に OUN に来た若い世代の国家主義者たちが、OUN を UVO の拡張版に変えてしまいました。 OUN のプラハ会議 (1932 年) で、UVO の新しい地位は、ZUZ における OUN の CE (地域執行部) の軍事問題の参考として決定されました。両組織の正式な合併は 1930 年代半ばまでに最終的に完了し、その結果 UVO は独立した組織から名目上は自律的な軍事参照機関、つまり OUN の一部門に再編成されました。

作成

ほぼすべての研究者は、1920年代初頭のウクライナ民族主義組織の出現は、1917年から1921年のウクライナ革命の敗北に対するウクライナ社会の一部の痛みを伴う反応であったことに同意している。 、ウクライナ国家の清算と他の国家(ソ連、ポーランド、チェコスロバキア、ルーマニア)間のウクライナ民族の土地の分割[3] [4] [5]

ウクライナの軍事組織は、1920年7月下旬から8月上旬にプラハで開催されたUPR軍ウクライナ・ガリシア軍の元将校による会議で創設された。ここでは、旧UPRWUNRの指導者間の意見の相違を排除し、ウクライナ全土の融和という考えを確立すること を目的とした多くの決定が下された。

UVO は元WUNR大統領 エフゲニー・ペトルシェビッチが率い、1921 年の春には UPR 軍大佐エフゲニー・コノヴァレツが彼に加わった。しかし、すぐに両指導者の間に深刻な意見の相違が生じ、関係は破綻した[6]

組織の主な中核は、UPR総局 時代の武装組織であるSich Riflemen Siege Corpsの士官幹部とWUNR軍の元職長で構成されていた。包囲軍団のコノヴァレツ大佐の元同志であるアンドレイ・メルニク、ヴァシリー・クチャブスキー、ロマン・スシュコオメリヤン・セニクらがUVOの創設に積極的に参加した[2]。

UVOのメンバー自身によると、この組織の主な政治的目標は「独自の民族的で独立した統一国家を創設するという究極の目標を持って、ウクライナ国民の全体的な革命の爆発という考えを促進すること」であった[5] 。 ]。組織の最初の公式文書は、「我々は負けていない!」と宣言した。戦争は終わっていない!私たちウクライナ軍事組織はそれを継続します。キエフとリヴォフでの敗北は終わりではなく、単なるエピソードであり、ウクライナ国家革命の道における失敗の一つにすぎない。勝利はその先にある」[1]

この組織の設立は、ヨーロッパとウクライナの土地の状況によって促進されました。ウクライナではパルチザン戦争が続き、ガリシア東部の運命の問題は国際レベルではまだ解決策を見つけていませんでした(1919年6月25日、協商大使評議会は、「ボリシェヴィキ・ギャングから国民を守る」ためにガリシア東部を占領するポーランドの権利を認めたが、ポーランドにはそれを含めなかった[7])、そして2つのウクライナ亡命政府(UNRとWUNR)は別々に行動したにもかかわらず、 、ウクライナの独立国家の実現への希望はまだ残っていました。

ガバナンスと構造

当初、この組織はリヴォフから運営され、その後ベルリンウィーンから運営されました。

1920年9月、「UVOの初期理事会」(M.マッチク、I.ナヴロツキー、Y.ポリャンスキー、 V.ツェレヴィッチ、Y.チジ)が臨時統治機関としてリヴィウに創設された。ここ(1921年7月)は、コノバレツ大佐とオトマルシュタイン参謀長が率いるUVOの統治機関である「初期チーム」(ウクライナ語: Nachalna Komanda )に再編成された[2]

組織人事部、諜報部、戦闘部、宣伝政治部(参照部)がUVOの初期司令部の構造内に創設された。 UVO の特別な場所は、USSオシップ・ドゥミン[8]の元百人隊長(1923 年以降 - ユ・ゴロビンスキー、1930 年以降 -リコ・ヤリー[5] ) が率いる諜報情報部門によって占められていました。

ガリシアの UVO の隊員は、違法な状況に置かれていたため、厳格な軍規に拘束され、指揮官に無条件に従いました。 1922 年末までに、ガリシアには 13 の UVO 地区が創設され、助産師に分けられました[2]最も低い戦術レベルは、いわゆる「ファイブ」で、そのメンバーは自分の指揮官しか知らないことになっていました[5]

コノバレッツが去り、UVOのリーダーシップがベルリンに移った後(1921年末)、地域チームはアンドレイ・メルニクの指導の下、リヴィウに留まった(1924年4月、メルニクはポーランド警察に逮捕され、懲役4年の判決を受けた)刑務所に収監され、出所後は政治から離れ、アンドレイ・シェプティツキーの財産管理者となった。

OUNの創設(1929年)に伴い、ほとんどの指導者はUVOとOUNの組織内での役職を組み合わせるようになった。たとえば、ステパン・バンデラは1933年にOUNの地域指揮者であり、同時にUVOの地域司令官でもあった。 E. コノヴァレツは、同時にOUN ProvodおよびUVO の初期チームの責任者でした。

UVOの展示会はさまざまな名称でウクライナ国外でも開催された - チェコスロバキア(ウクライナ語: ホームチーム)、ベルリン(ウクライナ語: ザコルドンナヤ・デレガツィヤUVO)、リトアニアのダンツィヒ(ウクライナ語: リトアニア・ウクライナパートナーシップ下のウクライナ人のグルトク)。海外ではアメリカやカナダでもUVO細胞が誕生し、政治的・財政的にUVOを支えた。博覧会では、海外での UVO 会員の合法化、開催国の当局との関係維持、武器や文書の輸送、UVO 会員向けの訓練の組織化などが行われました。

活動

UVOは本質的に軍事組織であり、反ポーランド蜂起のためにガリシアで退役軍人やチェコスロバキアで抑留されたUPRとWUNR軍の軍人の秘密訓練に従事し、ポーランド国家の不安定化を目的としたテロ行為も行った。 UVOは西ウクライナの政党から資金援助を受け、亡命中のUPRおよびWUNR政府との関係を維持した。 1923年に協商が東ガリシアに対するポーランドの主権を認めた後、UVOのメンバーの多くが脱退し、組織自体も財政的支援を失い、新たな資金源を探すことを余儀なくされた[7]

UVO の存在の最初の日から、彼女の参加により多数の印刷出版物が出版されました。正式なオルガンはスルマでした (ウクライナ語)ロシア語)」、ナショナリスト雑誌「ロズブドヴァ・ナツィ」も発行されました (ウクライナ語)ロシア語)』と青年誌『ユナク』。 1922 年に、教育機関からの資金によりリヴォフで「文学科学紀要」の発行が再開されました。その資金調達には出版社側の多くの義務が条件となっていた。右翼的見解で知られる広報担当のドミトリー・ドンツォフが編集長に任命され、コノヴァレツ自身も編集委員に任命された[ 2]。 2 年後、新聞「Our Hour」が UVO の資金援助を受けてリヴィウで創刊されました。

ソビエト・ウクライナ

コノバレツ大佐が1921年7月にリヴォフに到着するまでに、UPR移民政府(シモン・ペトリューラ)はすでに「ボリシェヴィキに対する全国的な蜂起」を組織する目的で、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国領土への侵攻の準備を進めていた。 「反乱軍本部」はUPR将軍ユーリ・チュトゥニクが率いていた。コノヴァレツはチュチュニクに人的資源と、ロマン・スシュコ率いるUVOの偵察部門がすでに入手可能だったソビエト領土の状況に関する諜報情報の提供を申し出た。 「反乱軍本部」は2つのグループを形成した。そのうちの1つは、UPRパーリヤ大佐の指揮の下、880名を数え、10月27日から28日の夜にかけてズブルフ川を渡り、テルノーピリ地域の北からウクライナ・ソビエト社会主義共和国の領土に侵入した。ホーネット・ヤンチェンコ将軍の指揮下にある990人を擁する第2グループはリウネ方向から侵攻した。その中にはアタマン・チュチュニク氏と、ウクライナでの権力掌握後に省庁やその他の行政機構の整備を命じられた軍人・民間人の大規模なグループも含まれていた。ポーランドとフランス政府はペトリュラとチュチュニクに対し、最初の成功の場合には正規軍をウクライナに派遣する用意があると保証した。ウクライナ・ソビエト社会主義共和国領土での偵察やその他の破壊活動を組織するため、UVOの情報部長R・スシュコとUVOのユ・オトマルシュタイン参謀長が侵攻分遣隊の一員として国境を越えた。しかしすでに11月に、ヴィタリー・プリマコフグリゴリー・コトフスキーの指揮下のソ連軍は、ジトーミール地方の「解放襲撃」の参加者に壊滅的な敗北を与えた[2]

ソ連政府は、1921年3月にRSFSRウクライナ・ソビエト連邦ポーランドの間で締結された平和条約の条項を引用して、ポーランドに強く抗議した。この点で、ポーランド指導部はペトリウラ氏がウクライナ・ソビエト社会主義共和国に対する敵対的な活動を支援することを拒否した。この直後、ペトリューラはポーランドを離れパリに移りましたが、1926年5月にペトリューラ主義者に殺された親族の復讐をしていたサムイル・シュヴァルツブルドによって殺害されました。その後、パリの陪審はシュワルツブルドに無罪判決を下した[2]

アブヴェーアとの協力

アンドレイ・メルニクをガリシアのUVO長官に任命したコノバレツもポーランドを離れ、UVOの指導部をベルリンに移した。 UGCCのメトロポリタン、アンドレイ・シェプティツキーは当初からUVOの創設と活動を認識していたが、個人的な会合の際、コノバレーに対しドイツに細心の注意を払い、ドイツのサークルとの接触を求めるよう助言した[8]。 1922 年の春、コノバレッツはアブヴェア長官ゲンプ大佐と交渉し、資金と引き換えに UVO が収集したポーランド軍に関する諜報情報をドイツ諜報機関に転送するという書面による約束を与えた。ドイツの情報によると、月々の支払い額は9,000ライヒスマルクに達したという。アプヴェーアは「少数民族の支援による戦争準備局」を創設し、また特別基金を設立し、UVO、後にOUNを含むドイツ国外のさまざまな組織に資金提供した。コノバレッツの右腕であり、コノバレッツとドイツ軍参謀本部との連絡確立に貢献した元シックライフル士官リコ・ヤリー(「カルパット」)は、「局」長官補佐となった[8]

アプヴェーアの要請により、UVOの活動の中心地は西ウクライナの土地に移された。コノヴァレツはUVOの新たな任務を次のように定義した。「ポーランドがソビエト・ウクライナと平和条約を締結した今、状況は我々にポーランドに対する闘争の旗を掲げさせざるを得ない。そうでなければ、我が国は祖国だけでなく、捕虜収容所でも影響力を失っていただろう。そこでは我が国の兵士一人一人が、ピルスドス人による東ガリシアとヴォルィーニの占領に対する復讐の火を燃やしていた。しかし、ボルシェヴィズムは依然として我々の致命的な敵である。ポーランド人自身が我々にそうするよう強制する限り、我々はポーランド人と戦うつもりだ」[2]

1925年、ドイツの秘密警察はコノバレツに対し、バルカン半島、小協商諸国、スイス、ポーランド、バルト三国など、さまざまな国の秘密警察に所属する部下の数を増やすよう指示した。組織はこのタスクを完了することで別の報酬を受け取りました[6]

1928年、UVOとドイツ諜報機関との関係の証拠を受け取ったポーランド当局による外交的抗議により、UVOへの資金提供は数年間停止された[9]。 1922 年から 1928 年までの期間、UVO はそのサービスと引き換えに 200 万マルク以上を受け取りました[8]

ポーランド

第二ポーランド共和国の民族構成。ウクライナ人はオレンジ色で示されています。

1921年、ポーランドの人口2,700万人のうち、ウクライナ人は約500万人、つまり15%を占めていた。ウクライナ人の大多数(300万人、そのほとんどがギリシャ・カトリック教徒)はガリシア、つまり旧オーストリア=ハンガリー帝国の東部ガリシア、あるいはポーランド人が呼んだ東部小ポーランドに住んでいた。UVO/OUN の地下活動の主要拠点となったのはこの地域 (西ウクライナの土地)でした。ヴォリン、ポレジー、ホルム地域には約200万人のウクライナ人が住んでいたが、ソビエト・ロシアとの戦争後にポーランドに移された。彼らは「国家意識がはるかに低く、政治的、社会経済的、文化的に発達していない」と考えられていた[7]
ポーランド領土におけるUVOの行為は、主に妨害行為(放火、電話や電信通信への損害)、組織的爆発、財産の「収用」、政治的暗殺に限定された[1]
1921 年から 1922 年にかけて、UVO のメンバーは積極的なプロパガンダ活動に従事し、国勢調査、税金の支払い、ポーランド軍への徴兵、セイムと上院の選挙といったポーランド政府の活動を妨害するようウクライナ国民を扇動した[1] ] [7]
1921年11月25日のUVOの最初で最も反響の大きかったテロ行為は、コノヴァレツの親戚であるウクライナ民族主義者ステパン・フェダクによる、リヴォフ知事K.グラボフスキーとJ.ピルスツキー元帥に対する試みであったが、ウクライナ民族主義者によれば、失敗に終わった。 、ソビエトロシアとの和平署名によって、実際には1920年4月22日付のペトリウラとの条件合意に違反しました。その結果、ポーランド当局はUVOに対して開戦を宣言し、組織の指導者を緊急にベルリンに移さなければならなかった。コノバレートもポーランドを出国した[1]
1922年中、ガリシアの土地では数多くの妨害行為や妨害行為が記録されており、そのうち38件は鉄道輸送に関するものであった。軍の倉庫が放火され、電話や電信通信が被害を受け、憲兵隊が攻撃された。テルノーピリ地区のUVO過激派分遣隊の襲撃は広く反響を呼び、ポーランドの農場やポーランド入植者の家を破壊、放火し、ポーランドの警察官や憲兵を殺害した。 1922年には合計2,300件の放火事件がポーランドの土地、農場、その他のポーランドの財産に対して行われ、うち20件は「ポーランド人の共犯者」、10件は「警察官とその代理人」、7件は「ポーランド軍」に対するものと記録されている。男性たちよ。」 1922年10月15日、 ポーランド人との平和共存を主張したウクライナ穀物生産者党の党首で、ウクライナの詩人でジャーナリストのシドール・トヴェルドクリブがUVOの過激派によって殺害された。ウクライナ国民に対する弾圧が続いている間、約2万人が拘束された[1]。ポーランドの治安当局はUVOのメンバーであるM.ジンキフスキーの逮捕に成功し、彼の証言によりガリシアにおける組織の武装勢力のほぼ全員を逮捕することが可能となり、1923年のUVOの活動は事実上麻痺した。
1923年3月14日、協商大使評議会は、西ウクライナをポーランドの統治下から離脱することを決定した(同地域に自治権を与え、行政機関にウクライナ語を導入し、ウクライナの大学を開設するというポーランド政府の約束に応えて[7]。 5]、これはUVOの階級に混乱をもたらし、ガリシアの組織細胞の崩壊と諜報能力の喪失の脅威を引き起こし、ドイツ諜報機関による資金提供の停止につながる可能性がありました。これに関連して、1923年の夏、コノヴァレツはプラハでガリシア地下組織の指導者会議を招集し、そこで国際情勢について報告した。この報告書の本質は、ウクライナ領土の奪取をめぐるソ連とポーランドとの戦いにおいて、ウクライナ民族主義地下組織が頼れる本当の軍隊を探す必要性に集約された。コノワレツ氏は聴衆に対し、ウクライナ民族主義者がウクライナ独立国家樹立計画の実行を支援するため、ドイツ指導部およびドイツ陸軍参謀本部と合意を結んだと語った。この点で、ソ連とポーランドに対する侵略を実行する唯一の国としてドイツに焦点を当て、敵との戦いにおいてドイツ側として積極的に参加する必要があると述べられた。コノバレッツの報告書は、「UVOは完全にドイツ諜報機関の影響下にあり、ポーランド、ソ連ウクライナ、その他の国々にある諜報機関、宣伝手段、テロ要員、戦闘部隊を自由に使える状態にしている」と述べた[2]
1923年、ウクライナ民族主義者向けのアブヴェーア諜報講座がミュンヘンで組織された。 1924 年に別の同様のセンターが設立されました。ドイツ諜報機関に有利な破壊活動を行うウクライナ国家主義者のための3番目の訓練センターが1928年にダンツィヒに開設された[2]
1923 年の冬の初めにダンツィヒで開催された UVO 会議では、UVO を再組織し、初期チームをベルリンに、地域チームをリヴォフに一時的に置くことが決定されました。同時に、UVOと西ウクライナ人民共和国の前指導部との交流はついに停止された。協商大使評議会の決定後、亡命西ウクライナ人民共和国政府は国際的地位を失った。西ウクライナ人民共和国の前大統領ペトルシェヴィチは、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国からの資金援助に頼ってポーランドとの戦いを継続したいと考えていた[8] [9])。ソ連当局は援助を約束したが、そのためにUVOペトルシェビッチを完全に従属させ、コノヴァレツを指導部から外すよう要求した。これは UVO の内部危機を引き起こし、それはほぼ 2 年間続きました。結局、ペトルシェビッチの支持者である元UGA役員はUVOから追放された。 1926 年 5 月 14 日、彼らは独自の西ウクライナ国家革命組織 (WUNRO) を設立しましたが、すぐに荒廃してしまいました。
カナダ人の歴史家オレスト・サブテルニーは著書の中でこう書いています。歴史」、「この組織は、おおよその数によれば会員数が2,000人で、東部と西部の両方のウクライナ移民政府とつながりがあり、西ウクライナの政党から秘密裏に資金援助を受けていた。」 1923年、東ガリシアのポーランド併合の合法性が国際的に認められたことによりUVOの立場が劇的に変化したとき、「コノバレートは主にポーランドの敵であるドイツとリトアニアといった外国への財政的・政治的援助を求めた」[10]
1923年以来、UVOとリトアニアの諜報機関との間につながりが確立され、リトアニアはポーランドが占領したビルナ地域領有権を主張した。この協力の発案者はジュオザス・プリキス(1920~1921年 - リトアニア外務大臣)でした。 1925年以来、コードネーム「レヴニカ」の下、コブノ(カウナス)にUVOの常駐施設があった。リトアニアでは民族主義雑誌「スルマ」や反ポーランド、反ソ連の内容を含むパンフレットが発行された。 UVO過激派はリトアニアの文書を隠して活動し(コノヴァレツ自身もリトアニアのパスポートを持っていた)、ポーランド軍に関する情報をリトアニア軍司令部に提供した。 1925年、ダンツィヒのコノバレッツの人々はポーランド海軍の配備に関する情報をリトアニア人に提供し、ドイツから購入した潜水艦2隻のリトアニアへの移送を促進した。 1926年、リトアニア軍はUVOからポーランド・リトアニア国境へのポーランド軍配備に関する情報を受け取り、そのおかげでリトアニア領土への侵攻計画が明らかになった。同時に、エフゲニー・コノヴァレツはイギリスとドイツの政府にポーランドの意図について警告し、軍事衝突は回避された。リトアニアにおけるコノバレッツの代表はオシップ・レビュク(「バルトビッチ」)で、彼は地元外務省との連絡を維持し、リトアニア政府から四半期ごとに約2,000米ドルを受け取った[8]
1924年9月5日、リヴォフでポーランド大統領S・ヴォイチェホフスキに対するテロ攻撃未遂事件が発生し、その準備はウクライナ軍管区の地域司令官ユリアン・ゴロビンスキーと地域組織の戦闘補佐官によって行われた。オメリヤン・セニク[1]
1924年から1925年にかけて、ポーランドのUVO細胞は「ポーランドの財産の収用」を強化した。 「収用」を実行するために、ゴロビンスキーは「空飛ぶ旅団」を創設し、郵便馬車、郵便局、銀行を攻撃し始めた。 1925年4月28日、リヴィウの主要郵便局が襲撃され、当時としては巨額の10万ズロチが過激派の手に渡った。ポーランド警察が「飛行旅団」を粛清することに成功したのは1925年末までであった[1]
1926年10月19日、ポーランドの学校学芸員ヤン・ソビンスキーがリヴィウで殺害された。殺人はこの地域のUVOの軍事補佐官ローマン・シュヘヴィチによって犯されたが、ポーランド警察はUVOの他の2人の過激派を逮捕し、後に絞首刑を宣告された(死刑は10年と15年の懲役に置き換えられた)[1]
1928 年 11 月 1 日、UVO 過激派は、 ZUNR宣言 10 周年を記念するデモの群衆に混じって警察に発砲し、警察への反発を引き起こした。 11月1日から2日の夜、ポーランドの「リヴィウの擁護者」記念碑の近くで爆​​弾が爆発した。 1928年12月、UVOはポーランドの新聞「スロボ・ポルスケ」の編集局で爆弾テロを組織し、1929年春にはリヴィウの見本市「タルギ・ウィショドネ」に数発の爆弾を仕掛けた[1]

UVO と OUN

1920年代、ウクライナ民族主義者を団結させる組織はUVOだけではなかった。 1922年、チェコスロバキアに「ウクライナ国民青年グループ」が誕生した。すぐに、同じタイプの他の組織が設立されました。技師ニコライ・スティボルスキーが率いる「ウクライナ民族主義者の軍団」です(1925年に、ウクライナ国民協会ウクライナ解放同盟ウクライナ・ファシスト同盟などの組織を統合しました) 。 )、リボフでは「ウクライナ民族主義青年同盟」(SUNM、1926年)、フランスでは「ウクライナ国民同盟」(UNS)、米国では「ウクライナ友人同盟」[2]

1923年1月中旬、ウクライナ軍移民の5つのグループの代表者がプラハで会合し、「ウクライナ軍事同盟」(UVS)の創設を発表した。UVSは、ウクライナ軍のすべての移民グループの団結を目指す単一の国家組織であると宣言した。 。 1926 年 11 月に、これは UPR 軍の元軍人組織連合に置き換えられました。すぐに、ヨーロッパの多くの国 (ドイツ、フランス、ポーランド、ブルガリア、チェコスロバキア)、アメリカ、カナダでも同様の組織が設立されました[2]

1920年代の終わりまでに、ウクライナ移民民族主義者界では、異質な勢力を一つの合法的な政治組織に統合する傾向があったが、その創設者によれば、その組織は「軍事行動」ではなく、主な役割を与えるべきであったという。これとテロを拒否することなく、大衆とのイデオロギー活動を行うこと。 1927 年 7 月に、ウクライナ国家主義組織連合が設立されました。 1927年から1928年に開催されたウクライナ民族主義者の会議(ベルリンとプラハ)は、ウクライナ民族主義者の第一回大会(集会)創設の組織的前提条件となった。 (ウクライナ語)ロシア語)(1929 年 2 月 28 日 - 1 月 3 日) UVO および上記の協会に基づくウクライナ民族主義者の組織。 OUN の主導組織は、E. コノヴァレツが率いるウクライナ民族主義者総督府(PUN) となった。大会では「ウクライナの独立公会議権力のために!」というスローガンが掲げられた。[十一]

議会の決定によれば、UVOは正式な組織的独立性と印刷機関「スルマ」を保持した。その瞬間から、すべての「戦闘活動」(テロ活動)は、「純粋に政治的な組織としてのOUNの評判を傷つけないよう」、UVOとその初期チームのためにのみ実行されることになった[5] 。 。

OUN の地位は、プラハで開催された OUN-UVO 指導者会議 (1930 年 6 月) で確認されました。コノバレッツは、UVOがOUNの武装分遣隊であり続け、OUNから正式に独立すると決定した[5](実際、UVOとOUNは同じ人物によって率いられていた)。

コノヴァレツ氏は、シェプティツキー首都圏に宛てた手紙の中で、ウクライナ民族主義者組織の設立に賛成する次のような主張を述べた。「対ソ連聖戦の準備は加速度的に進むだろう。私たちもこのキャンペーンに備えなければなりません。ドイツの友人たちは、UVOが単なる陰謀的テロ組織であり続ける限り、ウクライナ問題における広範な政治的行動を考えるのは無意味であると私たちに説得している。ドイツ人の主張によれば、テロは目的ではなく、手段であり、試みが成功すれば大衆の征服に貢献し、失敗すれば大衆を敗者から追い出す手段であるべきである。大衆は政治の主体ではなく、あらゆる手段を使って征服されなければならない対象であり、征服された後はそれを手に取り、自らの政治的目的のために利用しなければならない。したがって、ここから最初の結論は、UVOを大衆のための闘争とその政策のためにテロリストだけでなくあらゆる手段を使用できる組織に変える必要があるということである。ウクライナ問題は全体として捉えられるべきだ。ドイツほどこの問題の解決に関心を持っている国はありません。さらに、ドイツ以外にこの問題を解決できる国家はない。そしてドイツはこの問題を今日ではなく明日解決するだろう。したがって、ここから第二の結論が導き出される。すなわち、ウクライナ問題全体の解決のために戦うウクライナ組織は、ドイツの関連する政治的要因と完全に調和して行動し、ドイツの政策の足跡をたどらなければならない...」[ 12]

しかし、ポーランドでウクライナ民族主義者のための合法的な政治組織をOUNの形で組織しようとするコノバレツの試みは失敗に終わり、1929年にOUNに来た若い世代の民族主義者たちがOUNをUVOの拡大版に変えた。彼らはあらゆる法的行為を「国家の裏切り」の兆候とみなした[1]

1930 年代の初めは、UVO-OUN の新たなテロ行為によって特徴づけられました。ZUZのOUN地域執行部(KE)は、ウクライナ民族主義者見送り隊の指示を無視して、テロの道をどんどん進めた。これは 1930 年春の地域 OUN 会議で述べられました。同時に、ユー・ゴロビンスキーの死後、UVOの諜報部門は新しい「諜報・通信補佐官」リチャード・イェーリーによって率いられた[5]

UVO-OUNのメンバーのための訓練システムでは、最初の場所は戦闘訓練であり、体系的、個人的および集団的に実施されました。可能な限り、理論的な授業に実践的な授業(手榴弾の射撃や投擲)が追加されました。 1930 年後半、広範な反ポーランド破壊活動が始まり、政府機関への攻撃とポーランド財産の放火がガリシアの村々を席巻しました。 UVO はこれらの行為に対して責任を負いました。 「収用」行為と政治的殺人は新たな勢いで続いた。 1931 年 8 月 29 日、トルスカヴェッツで、 「ポーランドとウクライナの妥協」 [1] の支持者であるセイム大使T. ゴウフコが殺害されました。 UVO-OUNの論理に基づいて、「妥協」条件で「大衆の革命的爆発」を達成することには問題があるため、この殺人は正当化された。さらに恐怖は拡大するばかりだった。ポーランド人だけでなく、ウクライナの公人や一般国民も犠牲者となった。

OUN のプラハ会議 (1932 年) では、ZUZ における OUN CE の軍事問題の参考として UVO の新しい地位が決定されました。現在、UVOは戦闘部門と人事部門で構成されており、必要に応じて独自の諜報構造を構築しました。

両組織の最終的な正式な合併は1930 年代半ばまでに完了し、その結果 UVO は独立組織から名目上は自律的な軍事参照機関、つまり OUN の一部門に再編成されました[1]

UVO-OUN と S. バンデラ

1932年11月末、ゴロドクの郵便局に対するOUN-UVO過激派による攻撃が失敗に終わった後、OUNの地域指導者B.コルデュクは国外に逃亡し、彼の代わりに「精力的で決断力のある」S.バンデラが就任した[ 1]

バンデラがCE OUNの指導者に就任したことにより、その軍事行動の性質は変化した。収用は停止され、ポーランド国家政府の代表者だけでなく、地元の共産主義者、左翼および親ソビエトの人物、ソビエト外交官に対する懲罰的行動とテロ攻撃に重点が置かれた[13]。 1933年6月3日、ベルリンでOUN委員会のメンバーも参加したウクライナ民族主義者の別れの会議で、大規模な飢餓に対する抗議として、リヴォフのソ連領事の暗殺未遂を組織する決定がなされた。 1932年から1933年にかけてのウクライナ・ソビエト連邦。 1933年10月21日、リヴォフのソ連領事館に来て領事暗殺未遂を起こした若き国家主義者ニコライ・レミックが、ソ連外交官A・P・マイロフを射殺した。

OUN委員会にとって最も悲惨な結果をもたらしたもう一つの注目を集めた犯罪は、ポーランド内務大臣ブロニスワフ・ペラツキー殺害であった[14]。 OUN の公式史によれば、ワルシャワでの政治的暗殺の決定は、1933 年 4 月末にベルリンで開かれた特別会議でなされた。この会議には、PUN のコノヴァレツ、リコ・ヤリ、ヤロスラフ・バラノフスキー、および PUN のステパン・バンデラが出席した。地域ガイド代理としての CE OUN [15]。しかし、1934年の政治的殺人はOUNの若者、主にバンデラの主導で実行されたが、PUNの長としてのコノバレッツはこれを阻止できなかったという意見もある。

ペラツキ殺害はポーランドに、テロリストへの政治亡命の禁止を含むテロに対する国際制裁を導入する提案を国際連盟で演説する理由を与えた[16]。この状況下、コノバレツはポーランド領土へのテロ攻撃を禁止しようとしたが、すでに逮捕されたバンデラの命令はしばらく機能し続けた[17]。ウクライナの体育館リボフ・I・バビイの館長殺害は、ウクライナのガリシア社会に広範な反響を引き起こし、すべての法的当事者がこれを非難した。これらの犯罪に続いて大量逮捕が行われた結果、ガリシアのOUN地域指導部全員が投獄され、多くの草の根組織が消滅した[13] [17]。しかしこの時までに、UVO は実際には OUN の組織の中に消えており、ウクライナ民族主義運動のさらなる歴史は通常、もっぱらウクライナ民族主義者組織と関連付けられています。

リボフのソビエト総領事館でのテロ攻撃の後、OGPUの議長で あるV.R.メンジンスキーは、ウクライナ民族主義者のテロ行為を無力化するための行動計画の策定を命じた。 1938年5月23日、エフゲニー・コノヴァレツは、ソビエト・ウクライナからのOUN活動家を装って組織に紹介された NKVD将校パーベル・スドプラトフによってロッテルダムで粛清された。

注記


  1. XIX-XX世紀のウクライナにおける政治テロとテロリズムの歴史を描いた図。ウクライナ歴史研究所、ウクライナ NAS、2002 年。セクション 9. - 第 9 章。 2. (Kyrichuk Yu. A.) UVO-OUN の自由闘争におけるテロの場所

  2. 戻る:1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 リハビリテーションの権利なし (ウクライナのナショナリズムとその擁護者の反人民的ファシストの本質を明らかにする出​​版物と文書のコレクション)。 2冊で。キエフ歴史協会、ウクライナ退役軍人組織、国際ウクライナ戦争参加者連合。キエフ、2006 にアーカイブ

  3. Kasyanov G.V.、2003 年ウクライナ民族主義組織 (OUN) のイデオロギーについての食事の前。分析レビュー

  4. 骨ボンダレンコ。私たちが知らない、そして知りたくない物語 // 「ジェルカロ ティズニャ」、No. 12(387)、2002。 2018 年 11 月 20 日に取得。2018年 11 月 13 日にアーカイブ

  5. 戻る:1 2 3 4 5 6 7 8 ドミトロ・ヴェデネーエフ、ヴォロディミル・エゴロフ。剣とトライデント。 OUN セキュリティ サービスの歴史に関するメモ。 VUCHK-GPU-NKVD-KGB、No. 1-2(6-7) 1998 のアーカイブより。 2018 年 11 月 20 日に取得。2019アーカイブ

  6. 戻る:1 2 V. K. ビリンニン、V. I. コロタエフ。外国諜報機関内部における OUN リーダーの肖像 (ロシア連邦の AP、GARF、RGVA、およびロシア連邦 FSB の中央アジアからの資料に基づく) // 歴史研究協会の議事録国内特別サービスの。 T. 2. - M.: クチコボ ポール、2006. - 368 p。 2018 年 10 月 26 日のWayback Machineアーカイブ コピーISBN 5-901679-24-5

  7. 戻る:1 2 3 4 5 アレクサンダー・カーペッツ。西ウクライナの民族闘争 - OUN-UPA の短期コース。パート 2: 1914—1940 // 「議論」、2012 年 8 月 24 日。 2019 年 3 月 20 日に取得。2019アーカイブ

  8. 戻る:1 2 3 4 5 6 ミロスラヴァ・ベルドニク。他の人のゲームにポーンします。ウクライナ民族主義の秘密の歴史。リットル、2015 年。ISBN5-457-72377-1

  9. 戻る:1 2 ゴーグン・アレクサンダー「ヒトラーとスターリンの間。ウクライナの反政府勢力よ。」 - サンクトペテルブルク: NPID "Neva"、2004。- 416 p。 —ISBN 978-5-7654-3809-1

  10. サブテルニー・O・ウクライナ。歴史。 - K.、1993 年、p. 544. 引用。情報源によると: リハビリテーションの権利なし (ウクライナのナショナリズムとその擁護者の反人民的ファシストの本質を明らかにする出​​版物と文書のコレクション)。キエフ、2006

  11. Z.クニッシュ。 OUN、K.、タイプimの形成。オレニ・テリージ、1994 年、p. 54-59

  12. 引用しました。著者:ミロスラヴァ・ベルドニク。他の人のゲームにポーンします。ウクライナ民族主義の秘密の歴史。リットル、2015 年。ISBN 5-457-72377-1

  13. 戻る:1 2 Smoliy V. A. (編) ウクライナの政治テロリズムとテロリズム。 XIX~XX世紀歴史的な図面。ウクライナ歴史研究所 ウクライナのNAS - K.: Nauk。ダムカ、2002—954 p. — ウェイバック マシン上の 2020 年 12 月 5 日のアーカイブ コピーISBN 966-00-0025-1

  14. ペラツキー大臣暗殺。 2018 年 11 月 2 日に取得。2018年 10 月 3 日にアーカイブ

  15. ペトロ・ミルチュク。ウクライナ民族主義者組織の歴史を描く。第 1 巻: 1920 ~ 1939 年。 - ミュンヘン - ロンドン - ニューヨーク: ウクライナ出版局、1968。 - P. 382。

  16. PTTU XIX−XX、2002ロズド。 IX.、564〜566ページ。

  17. 戻る:1 2 ペトロ・クラリュク。ワルシャワの暗躍。ブロニスラフ・ペラツキー殺害の秘密:政治的テロ攻撃と挑発// 2011年2月4日の日。 2018 年 11 月 2 日に取得。2018アーカイブ

文献



カテゴリー:


最終更新 4 октября 2023 в 06:27

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?