カルテ23:主人たる奴隷

前母と「Pって働くってことは奴隷になることってよく言うじゃん」って何かの話の流れで言われたんですよ。

その時は「まぁ…その…うーん…そだね」って歯切れの悪い肯定の仕方をしたんですけども、しばらくして「もしかすると下手すりゃ奴隷より質悪くない?」みたいなことを考えました。

一般的に奴隷と主人という関係において主人は奴隷という存在がいないと主人としてのアイデンティティーが確立できない点で奴隷に依存してるとも言えます。
これが文学的なエロティック奴隷─主人とかだったら何か滾るものがありますが、純粋に資本的な価値を生み出す上での奴隷─主人だと、こき使う側は困るわけです。使い捨てのものを自ら求めたという事態は。


だったらどうするのが一番かというと「奴隷を自らの意思で奴隷にするよう仕向ける」です。
すなわち「お前の意思でこの選択をしたんだろうという」縛りを課すわけです。
自由選択に見えてピタゴラスイッチのように選びようのなかった事態を意図的に除外して、「選択の機会を与えたから全てお前の責任」というイニシエーションが強制的に行われるんです。
世界は自分の思い通りになるわけないと言いながら自由選択において十全に思い通りの決断を下した仮定される矛盾。

兎にも角にもこれなら奴隷自身内だけで奴隷─主人のシステムを完結させることが出来るわけです。
自らを奴隷に貶めたのは主人である自分自身だと。

これをいっぱしの哲学者っぽく命名して「迫られた自由」と呼んでます。サルトルの「我々は自由の刑に処されてる」という言葉がありますがあれとは全く別の意味合いが大きい概念です。


ちなみに自分が呼んでるこの迫られた自由、確かカール・マルクスの資本論でも似たようなことを言ってた気がします。
体面上自由の形を成しているがその実迫られた形で資本主義社会の要請に答えるようになるということが。

ですので下手すれば典型的な奴隷像の方が資本主義での奴隷よりはまだ素直だと思っております。
多分私そこに身を投じれば容易く精神が悪化するんじゃないかしら。

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