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ずっと「愛を受け取る」ができなかった

「世のため人のため」という気持ちで動くことが、これまでほとんどなかった。

そういうモチベーションで活動する人のことを「すごいなあ」と尊敬しつつ、わたしにはできないと思っていたし、まあ「自分のため」を最初に置いたとしても、それは結局めぐり巡って「自分が健やかに生きられる社会のため」「自分が大切な人のため」になっていくから、それで良いと思ってきたし、今もそう思っている。

しかし最近、どうやら少しずつ自分の内部が、変化していることに気づいた。

なんだか少し「世のため人のため」という想いが、むくむくと膨らんできているような。

まさか自分にそんな変化が訪れるとは思っていなかったので戸惑いつつも、なぜ、何がきっかけなのだろうと考えてみた。

そしてたどり着いた結論は、「愛をそのまま受け取れるようになったから」なのではないか、ということだ。

わたしはずっと、愛を受け取るのが下手だった。

人が何かをしてくれるとき、それは見返りを求めるからこその好意であると考えたり、何か裏があると思ったりする。人生において長らくのあいだ「自分以外はみんな敵」から人間関係をスタートしてしまう陰気な人間だったので、その思考癖が今も残っている。

それで、ただ純粋に差し出された愛も、うまく受け取れなかったのだ。

しかしここ1年ほど、あまりに「見返りを求めない愛」を差し出されすぎて、「ただ受け取る」が少しずつできるようになった。いや、できるようになったというよりも、あまりに純粋無垢に差し出されるので、観念して受け取るしかなかったという感じかもしれない。

何かと交換するでもなく、ただ善意で差し出される物事。見返りを求めていない相手の好意。おそるおそる受け取って、しばらく様子を見ても、特にお返しを求められることもなく、「本当にただの愛なんだ」と納得する他なかった。

そういう愛に溢れた人たちと接し、疑いながらも受け取っているうちに、「何だかもらってばかりだから、わたしも何かお返しがしたい」という気持ちになってくる。

でも相手は、直接お返しされることを求めていない。だからお返しの矢印は「相手に」ではなく「他の誰か / 社会に」へと向いていく。

わたしは今も、原動力の80%ぐらいは「自分のため」だ。

自分が心地よく生きていたいし、無理はしたくない。それは大前提なのだが、のこりの20%ぐらいで「世のため人のため」という想いが芽生えた。

きっと「自分のため」がずいぶん満たされてきたことと、愛を受け取れるようになったことが、大きく影響している。自分だけで受け止められる器はもういっぱいで、そこから溢れ出した部分が「誰かのため」になったのではないか。

そんな自分の変化を感じつつ、これからどうなっていくのだろう、どうしていきたいのだろうと、改めて考えたいと思う。


おわり


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じぶんジカン松岡
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