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時間に追われず過ごしたいのに

「時間に追われず過ごしたい」と願うのは、自分が時間を気にしすぎるたちだからなのだろう。

ある一日。わたしは急いでいた。

お気に入りのパン屋さんでベーグルを買いたくて、そのあとカフェに行ってのんびりしたくて、それなのに午前中の仕事が押してしまい、焦っていた。

急いでいた理由は、「早く行かないとパンが売り切れちゃう」と「早く行かないとカフェが混んで席がなくなっちゃう」である。

それでドタバタと家を出て、パン屋さん経由でカフェに行ったものの、すでにパンは完売。カフェも満席。

「せっかく急いだのに……」と気を落としながら、当初予定していたカフェとは別の、ちょっとお高めな(だからこそいている)カフェの席につき、ハッと気づく。

「あれ、わたしは午後を楽しみたくて、のんびりしたくてパン屋とカフェに行こうと決めたのに、なんか気持ちが焦ってばかりで、これだと全然楽しくない」

心配性なのである。「こうなっちゃったらどうしよう」で、いつも頭の中はいっぱい。根っからネガティブなので、上手くいかないパターンの想定がイメージのなかにずらりと並ぶ。そしてそれを回避したくて気持ちが焦り、「急ぐ」という選択をしがち。

だからこそ上手くいくこともたくさんある。けれど、それで自分が疲れているなら調整が必要だ。

そんなわたしだからこそ、焦り生き急いでしまう自分に対してバランスをとるために、「時間に追われずに過ごしたい」と願うのだと思う。

都会に住んでいた頃は、この「急がなきゃ」思考がもっと強かった。

東京は人がたくさんいて、行きたい場所が満席だったり、お目当てのものが売り切れだったりすることなんて日常茶飯事だったから。

人がたくさん来ることでお店は成り立っているし、混雑は経済的には良いことなのかもしれないけれど、わたしは見えない何かに常に急かされて生きている自分が、とても嫌いだった。のんびり生きたいのに、そうできない自分。遅い人は取り残していくような、潔く残酷な社会と、それにすがりつこうとする自分。

東京在住時にピークだった「追われて生きている感覚」は、神奈川県の湘南で暮らすようになって少しやわらいだ。しかし冒頭のように、わたしはまだ、時間に追われてる。

これから暮らしてゆく静岡県・伊豆高原では、もっとゆっくりと生きられるだろうか。「急がなきゃ」の思考に追われず、自分の時間を生きられるだろうか。

伊豆高原の店舗で、開業準備のための作業をしているとき。

掃除や、DIYや、庭の整備などやることがたんまりあって、やってもやっても終わらない。そうして熱中しているうちに陽が落ちて、山々に囲まれたこのエリアは少し早めに夜を迎える。暗くなると手元が見えづらいので、作業は終了。

この場所にある「急がなきゃ」のリミットは、"太陽の動き" なんだなと思った。それはとても健やかな気もするが、この健全なリミットでさえわたしは、時間に追われて気疲れしながら生きるのだろうか。

場所次第なのか、自分次第なのか。

いずれにせよやっぱり、もっと心地よい時間の流れのなかで、自分のペースで生きていきたいと願う。そんな人生を始めるためには、引っ越しがちょうどよい転機じゃない。

これから、もう一度、新しい人生を始められるように願って。


おわり


運営している「じぶんジカン」では、自分と向きあう時間をつくるノートをお届けしています。もっと心地よく自分を生きるための一歩目に、よかったらどうぞ。


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