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「アメリカン・ビューティー」ほほえみと安らぎ

 アメリカン・ビューティ―を最初に観たとき、共に観た友人は事前に「今日という日は残りの人生の最初の日」というメールを私に送ってきた。

 ポジティヴなメッセージだなと思った。アメリカン・ビューティを見始めたのがいつだったか忘れたけれど、見終わったころにはもう空が白んでいたと思う。まずは何よりも、多動の私ですらその間微動だにせず画面に惹きつけられたことに感動せざるを得なかった。

 以来、私は何度も何度もこの映画を観ている。

 友人と観た。友人に貸した。実家で観た。大晦日だか正月に観た。観た。観た。観た。ASD的な特性なのか、一度好きだと思ったものは何度観ても飽きないものだ。とにかく何度も、観た。

 私にとってこの作品で重要なのはレスター・バーナム、リッキー、そして何よりも一人一人の登場人物たちのほほえみである。

 登場人物にはそれぞれの「美」がある。彼らが目指すもの、彼らを引っ張るもの、彼らを悶えさせるもの、すべてが「美」である。

 主人公であるレスター・バーナムは「うだつの上がらない」広告会社勤続14年の男である。しかし、たまたま見に行った娘のチアリーディングの発表の中にいたアンジェラの「典型的な」美に一撃でとらわれる。ブロンドに大きな目、大きな口もと、見本のような「アメリカ美女」に一撃で恋をする。最初のほほえみはここに訪れる。即ち、あまりの美しさへの幸福に、ただ心奪われるしかなかったレスター・バーナムのほほえみである。

 レスター・バーナムの娘であるジェーンにひたすらにビデオを回し続ける男、つい最近バーナム家の隣に引っ越してきたリッキーは、ジェーンに「興味をもったから」彼女を撮影し続けている。ところかまわず、明らかに不審でありながら、彼はビデオを回すことをやめない。そしてリッキーはあまり表情を変えることがない。それは彼が心から笑顔を見せるような出来事がなければ笑わないからだ。そんなリッキーを「自分を知っている」と評価するジェーンは、自然のうちに彼と惹き合うこととなる。

 そんなリッキーは同時に、レスターにも強い影響を与える。給仕のアルバイトをしていた彼がレスターと大麻を吸いながら談笑していたときに、それを見つけたリッキーの上司が「サボるやつには給料を出さん」と言うと、彼は「バイト代なら結構です。消えてください」と言い放つのだ。彼のバイトは隠れ蓑にすぎず、本業は大麻の売人だった。ただ、カモフラージュとしてしか彼は働いていなかった。レスターは、すごいな、と言いながら、仕事なんて簡単に辞めてしまえるのだと悟ったのだろう。勤続14年もすれば、当然のように仕事に行き、帰ることが彼の毎日だ。それを簡単に変えてしまうことができると知ったのは、リッキーのためだった。レスターはリッキーの「客」となる。

 レスター・バーナムは、他者から見れば本当にうだつの上がらない42歳、キャリアに興味があるわけでもなく、ただ漫然と仕事を続けていて「死んだように」日々を送っていた。

 ジェーンもまた、典型的なティーンエイジャーとして豊胸手術をすることを望み、家庭内にある不和を巧妙に偽りながら生きていく日々に嫌気さしつつも、ただ過ごしていた。

 リッキーだけは違う。この世のあらゆる美を記録し、この世のあらゆる美に心を焦がす。

 典型から解放された彼は、鳥の死体、凍死したホームレスの女――あらゆるものに「美」を見つける。「典型的に」美しいジェーンの友人、アンジェラが窓越しに誘惑するように彼が回すビデオに腰をくねらせるとき、彼は「撮らないで」と言葉では言いながらも鏡にうつったジェーンのやわらかく満たされたほほえみを撮る。アンジェラは誰と寝たか、何人と寝たかとジェーンに話す、美しい「あばずれ」として描かれているが、そんな彼女にはリッキーは少しの興味も示さないのである。

 その後、アンジェラに嫌気がさし、同時にリッキーに心を許したジェーンが初めて彼の家に行ったとき、彼の母の異様な感――さながらロボットのような応答を見て、質は違えど己の家と同じようにそこが偽りの平和で保たれた家庭であることを理解する。ジェーンの家庭は、彼女の母キャロリン・バーナムが無理やり作った「典型的なアメリカの幸せな家庭」であり、そこに本当の幸福はなかった。ヒリついた空気ののちにリッキーが彼女に見せる映像は、彼が一番美しいと評価する、15分間、雪の降りだしそうなピリッとした空気の中でビニール袋が舞い踊るというものだ。

「その日僕は知った――すべてのものの背後には生命と慈愛の力があって、何も恐れることはないのだと」

「これはビデオ映像だけど、忘れないために撮影した。この世で目にする美の数々――それは僕を圧倒し、心臓が止まりそうになる」

 ジェーンはリッキーの手を実に両手にとって、そのあとに彼に接吻をする。これもまた、数少ないこの映画の中での偽りなく平和なシーンであり、美である。

 レスター・バーナムはその頃、娘の部屋で盗み聞いたアンジェラの、もう少し筋肉がついたらあなたのパパと寝る、という言葉を真に受けて熱心に筋肉を鍛えている。リッキーの生き方に心動かされ、1か月前に来た企業コンサルの男をゆすり倒して仕事を辞めた彼は以前よりも生き生きしている。いや、「生きている」。希望に燃えている。彼はもう死んだ人間ではない。ある種の目標があり、それに燃える男なのだ。

 そんな中、ある日リッキーがレスターにジョイントの巻き方を教えていたとき、リッキーの父であるフランク大佐はたまたま窓からそれを目撃する。ちょうどよく窓枠に隠れた彼らの姿は、さながらリッキーがレスターに口淫をしているようであり、フランクは完全に「リッキーは体を売って稼いでいるのだ」と勘違いする。それもそうだ。給仕のバイトなどではありえないような、執念深く作られた部屋――それがなんらかの「ほかの稼ぎ口」を持たずに実現できるものでないことを端から知りながら、フランク大佐は一人の父として、そして規律に心をゆだねる軍人として、息子が「アルバイトで」稼いでいるものだと無理やりに信じていたのである。彼らは歪んでいるが、しかし、互いに互いを愛していないわけでは決してない。

 フランク大佐は家に戻ったリッキーを殴りつけ、出て行けという。二度と顔を見せるなという。

 さて、そんなフランク大佐の時折見せる、あまりに儚げな表情に、私は違和感を抱いていた。その正体がわかるのが次のシーンだ。

 凄まじい土砂降りの中、フランク大佐はトレーニングを続けるレスターのもとを訪れる。カミさんが他の男と寝ていても何も感じないのか、というフランク大佐に、何も気にしないと答えるレスターに、フランク大佐は己の(己によって構築された)仮面家族の姿を重ねたのだろう。レスターを抱きしめ、口づける。レスターは「何か勘違いをしている」と、フランク大佐を引き離す。そのときの彼の悲しげな表情、悲しげな去り際……、家では軍人として、まっとうさと規律によりすべてを押さえつけていた彼、それによって「ゲイである」己を抑圧し続けていた彼……その重荷を下ろそうとして、下ろすことができなかった、辛さそのものが彼の後ろ姿に表れている。

 その頃リッキーはジェーンに一緒に逃げようという。もう家に居場所はないのだ。彼は家族のすべてを愛しつつ、また、そこから脱さなければならないと知っている。「父さんを頼むよ」と彼は母に言う。彼女は、リッキーがもう二度と帰らないと言うことすら理解できぬように――いや、決してそう考えないように、己を守るために無意識にしている。

 ジェーンと一緒にいたアンジェラはリッキーを罵倒する。一体家を出てどうなるのか。ホームレスになるだけではないか。それに対してリッキーは、アンジェラが最も嫌う言葉を突き付ける――「お前は平凡な女だ」と。

 それを聞いて泣いていたアンジェラを見つけたレスターは、彼女と寝ようとする。いや、アンジェラもまたそれを望んでいるのだ。彼らは不思議に惹かれあい、そして、アンジェラは「これは私の初めてなの」と告白する。まさかそんなこととは思っていなかったレスターは、彼女に毛布を着せる。このときのレスターの気持ちを、私はわかるようで、言葉にできない。彼が思っていたアンジェラは、本当にTypicalでBeautifulなませたBitchであったし、初めてなのだとしたら彼女の書き換えられぬ永遠の初めてを己が行うべきではない……そんな心情だろうか。そしてその心情は、アンジェラに「ジェーンは最近幸せだろうか」と訊かせるのだ。「幸せよ、恋をしてるの」とアンジェラは答える。そのときのレスターのほほえみ――「死んだ人間ではなくなった」だけでなく、かつての幸福を思い出したほほえみ、きっと長らく忘れていたであろう親としての幸福を得たほほえみ。

 いつかの家族写真を手に取り、ほほえみを浮かべるレスターの背後から、銃口が近づく。

 鳴り響く銃口に、リッキーとジェーン、アンジェラ、皆が驚く。階段を下り、レスターのいるキッチンに入るリッキーとジェーン。ジェーンの蒼い顔とは相対的に、リッキーはほの紅い頬をして、かすかにほほえみを浮かべたまま死んだレスターの顔を眺めて「美しい」とほほえむのだ。彼ら一人一人のほほえみは、当然同じものによって起こるわけではない。様々な要素が彼らをほほえませ、美しさで心を動かす。リッキーは、レスターの表情を、じっと眺める。

 レスターを殺したのはフランク大佐だった。どのような気持ちで殺したのだろう。ゲイだと一人にでもバレたまま生きていたくはなかったのか、愛おしい男に振られた悲しみか、それとも、その愛おしい男を永遠に己のものにするためか。それはすべてだろう。

 レスターはこのとき、たまたま不条理に死んだ。その不条理の中で彼は走馬灯を見る。

「美のあふれる世界で、怒りは長続きしない――美しいものがありすぎると、それに圧倒され、僕のハートは風船のように破裂しかける。……そういうときは、体の緊張を解く。するとその気持ちは、雨のように胸の中を流れ、感謝の念だけが後に残る。僕の愚かな、とるに足らぬ人生への感謝の念が。たわごとに聞こえるだろう? 大丈夫。いつか理解できる」

 誰にとっても、誰かの「美」があり、心にそれを受け止めるだけの空白があればいくらでも美を美として享受することができる。そしてそのとき、私たちはほほえむ。レスターが死の間際に言ったように「美しいものがありすぎると、それに圧倒され」てしまうのが、人の心であるけれども、それを「体の緊張を解く」ことによってただ染み渡らせ、己の中を巡らせることこそが「すべてのものの背後には生命と慈愛の力があって、何も恐れることはないのだ」というリッキーの言葉につながっていくのだろう。そして「典型たる美」以外をようやっと見つけたレスターは死んでいく。

長いばかりで、いったい何を言いたいのか、そう言われると困ってしまう。好きだということが言いたかった。とにかく、この映画を。


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