『DNA解析と「アイヌ民族否定論」―歴史修正主義者による先住民族史への干渉』についての補遺

 このたび専門外にも関わらず、『解放社会学研究』35, (2022) pp. 7-32に標記の論文を(査読を経て)掲載していただきました。こちらの論旨が伝わる程度にはなんとか論文の字数制限内に入れることができましたが、書き残したこともかなりあるので、いくつか補足説明をします。

 まず、最初に問題にしたいのは、2014年に公刊された的場光昭による『アイヌ民族って本当にいるの?金子札幌市議「アイヌ、いない」発言の真実』(展転社、2014)に「五 これだけの科学的証拠、“アイヌが先住民族”のウソ」という章が設けられていることです。そもそも先住民族というのは人権問題における用語であり、政治的なイッシューです。歴史によって規定されるため「科学」が入り込む余地は本来ありません。近現代における蝦夷地・北海道でのアイヌ史を概観するだけで先住民族に該当することは明白です。つまり、問題設定から詭弁を用いているということに注意が必要です。加えて、著者が医師であることから科学的知見を持っていることを読者は疑わないでしょう。さらに、近現代史、特にアイヌ史については公教育できちんと扱わないために知識の空白が生じているところです。これだけの条件が整えば、著者の主張をそのまま真実として受け取られてしまう蓋然性は非常に高いと言わざるを得ません。

 この本では「科学的」と前置きをおいて、分子人類学者の篠田謙一の著書(篠田、2007)および講演録(篠田、2012)を引用し、そこから、アイヌは北海道の縄文人の子孫ではないという結論を導いています。しかし、篠田による原典と的場の引用を比較すると、意図的に一部を省略することによって、アイヌは縄文人の子孫であり、それに加えてオホーツク人の遺伝子も受け継いでいるという篠田の主張を、読者にわからないように改竄しているのです。

 学問の成果はまず原著論文として発表され、専門家の間で検証が重ねられて生き残ったものが定説となります。この本が発刊された2014年時点において、分子人類学でアイヌが縄文人の子孫ではないとした学術論文は私が調べた範囲では存在しませんし、その後現在に至るまで、すべての研究成果は縄文人の子孫であるという説を補強こそすれ否定するものはありません。日本語で読めるものとして、増田隆一による『遺伝的特徴からみたオホーツク人:大陸と北海道の間の交流』(北海道大学総合博物館研究報告、2013)をあげておきます。論文の図2を見れば、それ以上の説明は必要ないはずです。

 さらに問題なのは、この本がヘイトスピーチ、すなわち民族差別を煽動する言説であることです。アイヌが民族としての権利を主張することは、危険であるという「現代的レイシズム」の一例とみなすことができます。東條慎生は
「小林,的場らが,なぜこのような弥縫策を弄してまで,アイヌ民族否定論を組み立てるのか。小林の議論に特徴的なのは,アイヌの政治的主張を「特権」の要求とみなすところだ。これは,歴史的に差別抑圧を被ったことへの回復措置を特権と称して攻撃する在特会のロジックとも同型で,現在の差別主義の特徴的な要素である。」『「アイヌ民族否定論」に抗する』(河出書房新社、2015)
と、在日コリアンに対する差別との類似性を指摘しています。そして実際に、的場は『アイヌ副読本『アイヌ民族:歴史と現在』を斬る―北朝鮮チュチェ思想汚染から子供を守れ』(展転社、2020)なる書籍を刊行するに至るのです。

 ここで、小林(よしのり)の名が出てきたのは偶然ではありません。論文では註10にその旨を書いておきました。時系列で言えば、まず的場が『正論』に投稿することから始まります。的場の文章は西村慎吾が全文引用する形をとって同誌437号(産經新聞社、2008)に掲載されます。これがきっかけとなって、国会のアイヌを先住民族とする決議に対する論難が始まります。さらにその内容を、小林が漫画『ゴーマニズム宣言』(小学館、2008)で広めます。論文の註6で、的場が屯田兵村の割り当て面積を間違ったことが、検証されずにそのまま小林の漫画でも踏襲されていることを指摘しています。ここから、小林は実際に資料にあたったわけではなく、的場の言うことを鵜呑みにしていたことがわかります。後に、香山リカとの対談(『創』、2015)で小林が「あなたね、歴史のことを考える時には第一次史料、第二次史料、第三次史料って形で、ちゃんと紐解かなきゃいけないの。」と諭すように言っているが、当の本人が「第一次史料」を確認していなかったということになります。

 横道にそれましたので、ヘイトスピーチの話に戻ります。ちょうど昨日、人権団体「のりこえねっと」の共同代表である辛淑玉が、DHCテレビジョンおよび長谷川幸洋に対して損害賠償を訴えた裁判の控訴審判決が東京高裁から出されました。判決は、DHCテレビジョン側には損害賠償を支払うこと、長谷川への訴えは棄却するとした地裁判決を踏襲するものでした。判決後の記者会見において、この番組は在日コリアンである原告を通した沖縄差別であるということ。そして、日本の法律ではこの差別を裁くことができないことを強調していました。論文で書いた問題についても全く同じ構図が当てはまりまることは、上に書いた通りです。

 正直なところ、物理学実験を専門とする私が専門外の分子人類学の原著論文を読むのはかなりの困難を要しました。その上、投稿先も『解放社会学研究』という全く分野違いのものでしたので、査読を通過して掲載されたのは奇跡的なことだと思っています。そこまでの労力を払ったのは、的場が私の勤務校の出身であることが大きな理由です。私は将来医師になる有望な若者に対して物理学の基礎を教えるのはもちろんのこと、自然科学というものの考え方、文章作法を指導する立場にあります。我々は先人の知恵の集積に基づいてそれを学ぶことで、最先端の問題に取り組むことができるのです。そのためには論文の引用についての「作法」を自然にこなせるようにならなければなりません。特に医師のような専門家の発言にはその立場に応じた責任が伴います。物理学実験が専門だからと逃げてはいられない重大な問題として、主に正月の休暇を利用して書いたのがこの論文です。ぜひともご覧くださるよう心からお願いします。

2022年6月 旭川医科大学物理学教室 准教授 稲垣克彦


参考文献


稲垣克彦、DNA解析と「アイヌ民族否定論」―歴史修正主義者による先住民族史への干渉、『解放社会学研究』35、2022
東條慎生、再演される戦前―アイヌ「民族」の定義について、岡和田晃、マーク・ウィンチェスター編、『「アイヌ民族否定論」に抗する』、河出書房新社、2015
小林よしのり、ゴーマニズム宣言第35章 アイヌは先住民族なのか?、『SAPIO』454、小学館、2008
小林よしのり、香山リカ、『創』、2015
篠田謙一、『日本人になった祖先たち DNAから解明するその多元構造』、NHK出版、2007
篠田謙一、特別講演 縄文人はどこから来たか、北の縄文文化を発信する会編、『縄文人はどこから来たか』、2012
西村慎吾、アイヌ先住民族決議の背後にある日本人悪しかれ史観の嘘、『正論』437、産經新聞社、2008
増田隆一、遺伝的特徴から見たオホーツク人 : 大陸と北海道の間の交流、『北海道大学総合博物館研究報告』6、 2013
的場光昭、『アイヌ民族って本当にいるの?金子札幌市議「アイヌ、いない」発言の真実』、展転社、2014
的場光昭、アイヌ副読本『アイヌ民族:歴史と現在』を斬る―北朝鮮チュチェ思想汚染から子供を守れ』、展転社、2020








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